第5話 旧市街の不合理な損失
近づくトーマスへ、ミーナは怯えた様子で小さく後退る。
「やめろ……やめろって! やるなら僕だろ」
思った以上に体が重い。
だが僕はどうにか立ち上がった。
眩暈と動悸がする。
吐き気はしないが頭が痛い。
「なんだ、やっぱり理解してないようだなあ」
「やるなら僕をやれよ!」
「だから言ってるだろ、それはお前が決めることじゃないと」
後ろの二人はにたにたと、観戦でもしているかのように楽しんでいる。
僕の言葉を無視し、トーマスは足を進めた。
剣を掲げ、速足でミーナと距離を詰めた。
怯えるミーナ。
助けようと、既に僕の足は急いでいた。
二人の間に入り、ミーナへ覆いかぶさった。
その時、剣を振り下ろすトーマスの姿が見えた。
恐怖から反射的に腕を交差させ、僕は顔を守った。
ぼと、と旧市街のタイルに何かの落ちる音がした。
視界に散る赤。
目の前では、固まって動かないトーマスが剣を落としている。
口元はがくがくと震えている。
僕は妙に下が見たかった。
タイルに無数の赤が見え、そしてその先に一つ、人の腕が見えた。
理解した。
僕の腕だ。
急に左腕に痛みが走った。
僕は絶叫した。
過呼吸になりながら叫び、その場に尻から倒れる。
「お兄ちゃん!」
回復薬を手に、ミーナが隣で僕を支えている。
正面では、銀剣を拾いトーマスを抱えてその場を去ろうとする者たちの姿があった。
「ミ……ナ……」
「お兄ちゃん、これを飲んでください」
返事もせぬまま、無理やり液体を飲まされた。
左腕を抑えたまま、僕はその場でしばらく泣き叫んだ。
〇
持ち帰った左腕は、ミーナが氷水につけて大きな瓶の中に入れてくれた。
今すぐにでも医療協会に行って手術を受けるべきだとミーナは言う。
「そんな金はない」
ハーフリブで作った回復薬は一級品だ。
僕の左腕の傷口は見事に塞がった。
もう血が逃げていくこともない。
包帯もいらない。
左腕もない……。
「あいつらを告訴して……」
ミーナが怒りの表情で言いかけた。
「無理だ、相手は貴族だぞ」
やる気のない声で答えた。
意欲などなかった。
「良くて……なんだ、謝罪でもしてもらえるのか? 腕は治らない」
「ミーナは、どうすれば……」
堪えていたのか、ミーナは途端にぼろぼろと泣き出した。
「傍にいてくれれば、それでいいよ」
ミーナはそっと、腕のない僕を抱きしめた。
〇
その夜は寝つきが悪く、僕は鬱蒼とした森にいた。
といっても家の裏にある大木の根にもたれ、眠れぬ夜を誤魔化していただけだ。
ファントムペイン――幻肢痛という言葉がある。
病気や事故で切断し失った腕や足が、あたかも存在しているかのように痛みだす症状だ。
左肩から先がおかしい。
無い腕が痛むのはその一例だろうか。
元々自分の腕でもないのだから、恋しくもなければ惜しくもない。
たとえば調合の類で治せないかとか、片手間にそんなことを考えるだけだ。
木の脇に生えていたハーフリブをもぎ取り、不必要に食べてみた。
味は苦く、調合前では効果も殆どない。無駄な咀嚼のあと吐きだした。
魔力があれば、リトルバースで腕を生やしたりできたのだろうか。
奴ら銀騎士は治癒力を一時的に底上げし、程度にもよるが、たいていの傷は自己再生してしまえるのだとか。
だからトーマスはミーナを斬ることに躊躇いがなかったのか。
結果的に斬られたのは僕の方だが。
あの時、トーマスは明らかに動揺し唇は震わせていた。
その震えは大事な銀剣を落とすほどだった。
貴族のくせに、人を斬り慣れていないのか。
これまで殺人は使用人にでも任せてきたのか。
この鬱屈とした頭では、奴への皮肉以外浮かばなかった。




