第28話 臆病者の日常
「お兄ちゃん、ここのところ顔色がいいですね」
「え、そうかなあ」
「はい、見違えるくらいです!」
ミーナがあまりに目を輝かせて言うから、僕は鏡の前に立ってみた。
「わっ……」
見違えた、なんて次元のものではなかった。
「なんだ、これ」
僕は頬や額を手で触って確かめた。
あったはずのシミがないどころか、それ以前に肌が白い。
僕はもう少し浅黒い肌をしていたはずだ。
ミーナは顔色がいいの一言で終わらせているが……。
「これじゃあ、まるで……」
「妖精みたいですね」
耳を疑った。
鏡を通して、ミーナの姿が見えた。
テーブルの前に座っていたはずなのに、僕のすぐ真後ろにいる。
必要以上に目を見開いて僕を見ている。
僕はびっくりして振り向いた。
「妖精みたいではないですか、あの時サーカスで見た?」
目の際が裂けそうなほどに見開き、ミーナは首を傾げている。
「妖精……ああ、確かに。確かに、妖精みたいだ」
僕は苦笑いをして後退った。
ミーナは「ですね」と愉快そうに笑っている。
ひたすらに笑っている。
大口を開けて「あはは、あはは」と笑っている。
なにがそんなに楽しいのだろうか。
「これも全部、妖精さんのおかげですね!」
後退っていた僕の足が止まった。
「もっと食べて、元気になりましょう!」
「ミーナ、なにを言って……」
ミーナは嬉しそうに距離を詰めてきた。
足のかかとが壁についていて、もうこれ以上下がれない。
僕は壁掛け鏡に背中をつけ、身を引いた。
それでもミーナはどんどん近づいてきて、その狂気じみた満面の笑顔で話すのだ。
「それからまたディーグルさんみたいな貴族を殺すんです、妖精さんと貴族を殺すんです!」
「やめろ、ミーナ……」
「解体して売れば大儲けです、これで家計は万々歳です!」
「やめてくれ……」
「どんな味がしたのですか、ねえ、お兄ちゃん、妖精さんはいったいどんな味がしたのですか?」
「やめろお!」
僕はつい大声を出してしまった。
〇
目が覚めると、僕は天井を見ていた。
床と同じシミのある木目だ。それが天井だと気づくまでには数秒かかったが、僕はその時間を使って夢を見ていたことにも気づいた。
「夢か……」
声に出さずにはいられない心境だった。
隣ではミーナがまだ寝むっている。
窓の外はまだ暗い。
僕はミーナの目が覚めないよう静かに布団から抜け出し、外に出た。
裏庭の木にもたれかかり夜空を見上げた。
ここのところ毎晩必ず夢を見るが、こんな内容ばかりだ。
自分の神経の細さに呆れる。
肌の色が変わったのは事実だ。
ミーナがそれに気づいて、不思議そうに僕の顔を見ていたのも。
確かレアーナも、ミーナと同じようなことを言っていたっけ。
寝て起きれば、寝る前までのことが全部嘘だったような感覚になれる。
だが飲食店の前を通ると妖精の匂いを思い出し、晴れた空に気付き、陽射に妖精がテント内で描いていた幻惑の時間を見てしまう。
単純な照明を見ただけでも思い出すことがある。
ある日、ミーナが上機嫌で買い物から帰ってきた時、僕は妖精の舌触りと歯応えを連想した。
ミーナの持っている袋の中身が死肉であるとわかったからだ。
つまりは牛肉だと。
まず、ふと昔のことを思い出し、僕は少しだけ記憶の中にいた。
おそらく前世のものだ。
早朝のスーパーで精肉売り場には近づかない方がいい。
開店する前のことだから従業員以外は難しいだろうが、防火扉がぱたぱたと揺れる度に通路を抜けて店内に涼しい外気が入って来る。
まだ照明も灯っていない、ショーケースかれ漏れる明かりのみしかない店内だ。
外気は売場へ到達する直前に防火扉横の精肉加工所を撫でる。
それは売場からでも見ることのできるガラス越しの部屋のことで、中では割烹を着た従業員が今朝の肉を細切れに解体し袋詰めしている。
すると肉屋の直線上にある各売場へ、牛乳の腐ったような臭いが漂うのだ。
僕はどうやら初めて嗅いだ時にその臭いを記憶したらしい。
だから袋の中身が死肉だとすぐにわかったんだ。
ミーナが袋から取り出した死肉の切れ端から、大森林での最初の彼女を連想した。
あれは筋のない淡泊な味と弾力だった。
それは幼児でも噛み切れるだろう、彼女たちはそれほどに柔らかかった。
匂いは味を想起させ、歯応え、口に運ぶ前の映像へと続いていく。
僕はその映像から逃れられないみたいだ。
いや、ミーナが肉を買わなかったとしても同じことだだろう。
鏡の前に立てば、自ずとあの日の映像を見ることになる。




