第20話 恐怖と疑心暗鬼のファンタジー
僕は記憶を探り、もう一度、よく彼の顔を思い浮かべてみた。
「……あ」
微かだが、鼻孔のまわりに白いあとが残っていたかもしれない。
そんな画像が頭に浮かんだ。
気のせいかもしれないが、いや、確かに見えた。
そもそもあんなニオイを普段から漂わせている一般人はいない。
この国にそんな風習はない。
もしくは外国の人か。
拭き忘れだとするならば、それはどういうことなのか。
僕は記憶の片隅にある情報を整理しつつ、探ってみた。
「検視……」
腐敗した遺体を検視する際、臭いを紛らわすためにそういったものを塗ることがある。
いつか城下町へ採取に使う壜を買いに出かけた際、殺人現場に出くわしたことがあった。
そこには既に衛兵の姿があり、鑑識の姿もあり現場検証が行われている様だった。
別に興味もなかったし見たくもなかったから、僕は知らぬふりをしてその場を後にしようとしたのだが、そこで、レンガ造りの家の壁面にもたれ掛かりながら、一服している男性の姿が目に入ったのだった。
まさに、彼が鼻孔のまわりを白くしていた。
それがそういった類の軟膏だということは、あとで調べてみてわかった。
彼は白い鼻孔からタバコの煙をしばらく吐きだしていた。
「お兄ちゃん?」
「……ん?」
「どうかされましたか」
「いや、なんでもない……」
会場を見渡してみた。
騒動が起きたような気配もなければ、衛兵の姿も、気配もない。
僕は一度、席に深く座った。
そして深呼吸した。
それがミーナには溜め息のように見えたのか、「大丈夫ですか?」とまた心配された。
「いや、なかなか始まらないなあと思って」
「そうですね、そのうち始まりますよ」
正直なところ、僕は自分が今、何を考えているのかわからなかった。
一体なにを不安がっているのか。
だが考えることをやめえようとした瞬間、あの銀縁の丸眼鏡から覗く、鋭い眼光が脳裏を過った。
あの会釈の時、自分がそれほど彼の表情を深く見ていたかどうかなんて、意識していた訳ではないし今となってはわからない。
だが何かが引っ掛かり、僕は意外と注意深く見ていたのかもしれない。
そして違和感を抱いた。
だが一体なにに対してそう思ったのかがわからない。
とっさに「検視」なんて言葉が出てきたが、であるとすれば、彼はただの客ではないということになる。
いや、一仕事終えたあとなら、客であると言えるか。
微かに鼻孔を刺激する、たるいメンソール――軟膏の残り香……。
だがすべて、仮説と妄想の類でしかない。
「お兄ちゃん、始まりますよ!」
不意にミーナの急かすような声が聞こえた。
僕ははっとして顔を上げる。
知らぬ間に満席状態になっていた会場では、誰もが席を立ちあがり、ステージに現れた黒いステッキを持つ、タキシードとハットの男に拍手喝采を送っていた。
歓声に包まれた瞬間には、僕のそれまでの悩みなど過去のものとなり、気がかりも消えてなくなっていた。
〇
ステージでは炎が蛇の形をして、にょろにょろと宙を縫っていた。
かと思うと水の雌ライオンが現れ、蛇にかぶりとかみつき、炎は飛散すると残り火がたてがみとなり、ライオンは雄になる。
会場内に雄叫びが轟くと、客席の貴族は興奮して目を見開いていた。
炎のたてがみと水のライオンは融合しながらうねり、すると小さな爆発が水蒸気を生み、ステージは見えなくなった。
貴族たちは前のめりになり目を凝らすと、煙と静けさに動揺し、そわそわし始めた。
煙の中に、ぽつぽつと光のつぶが現れた。
それは一つずつ色が違い、赤、青、黄、緑、紫で煙を彩る。
突如、煙は左右へ散った。
ステージが晴れると、その姿に貴族たちは戸惑った。
「パパ、あの小さい人たちはなに?」
斜め下の席で、女の子が父親に訊ねている。
「なんだろう、妖精かなあ」
それはまさしく、妖精であった。




