第七章 癲狂皇
ツンと鼻を突く消毒の匂いが部屋に立ち込める。この部屋……国王の部屋がまるで病院か何かのような匂いになるというのはなかなかに珍しい状況だ。そう思いながら、長い赤髪の青年は眼前で真剣な表情を浮かべている紫髪の青年の姿を見つめた。
真剣そのものの表情を浮かべた国王の横に開かれているのは医学に関する書籍。現在彼……アズルは医学の勉強をしている最中だった。彼の手には真っ白い包帯。そして顔を上げた彼は、赤髪の青年……アルマに声をかけた。
「じゃあ、ちょっと腕を貸してくれるかい、アルマ」
眉を下げ、申し訳なさそうな声音でそう言う彼にアルマは頷いて見せる。
「えぇ」
アルマは自分の腕を差し出す。色白で、華奢な腕。しかし毎日剣を握り、振るっているだけあって、適度に筋肉がついている腕を。アズルはそんな彼の手をそっと握る。そして、剥き出しにした腕に、ゆっくりと包帯を巻きつけた。
彼はこうして時折国王の勉強に付き合っている。医学の勉強等国王に必要なものではない。国王には侍医が付くことこそあれ、国王自身が誰かを治療することなどない訳で……あまり大っぴらに誰かを頼ることは出来ないのだ。それ故に、アズルがある程度自由に声を掛けることができる騎士の一人であるアルマに頼っているのだった。
今は、包帯を巻く時の練習中。自分の腕に包帯を巻くのはなかなか難しいし、何より他者のために学んでいることだ、自分の腕でできるようになったところで意味がない。故に、こうしてアルマに練習台になってもらっている形だった。
アルマ自身も医学には興味がある。他国の騎士団に比べて激しい任務は多くないとはいえ、身の周りの騎士たちが怪我をすることもそれなりにあるし、医術を身に付けることが出来れば良いと、アズルの頼みを受け入れているのだった。
「ごめんね、キツかったりしたら、言ってね」
アズルはそう言いながら、優しくアルマの腕に包帯を巻きつけていく。触れる手も、巻きつけられる包帯の強さも、柔らかい。アルマは苦笑を漏らし、アズルに声を掛けた。
「アズル様……少し、緩すぎるのでは?」
そんな言葉にアズルはぱちりと瞬いた。それから苦笑を漏らして、頷く。
「あ、そうか。止血するためだもんね、緩いと意味ないか。……ごめん、もう一度やり直していいかな」
「大丈夫ですよ。何度でもやり直してください」
アルマがそう言うと、アズルはほっとしたように微笑んだ。そしてするり、と一度包帯を解く。華奢な白い手でそれを握り直すと、彼はもう一度アルマの腕に包帯を巻きつけた。今度は、先程よりも幾分強い力を込めながら。
「ちゃんと圧迫して……此処をこうやって……こうして結べば大丈夫、解けない」
アズルはそう独り言を言いながら、作業を進めていく。きゅ、と強く包帯を縛って息を吐くアズルを見つめ、アルマは葡萄酒色の瞳を細めた。そして、彼が巻き付けてくれた包帯をそっと、指先でなぞる。
「医術も、興味深いですね。僕もまだあまり、詳しくはありませんから……剣術や武術だけではなく、こういったことも学んでいきたいものです」
アルマの言葉に、アズルは静かに微笑んだ。
「そうだよね。大切なことだよね」
そう言いながら、アズルはアルマの腕に巻き付けた包帯を解いていく。解き終えた包帯を指先で弄るアズルの柔らかい紫の髪が風に揺れた。綺麗な緑の瞳を煌めかせて、彼は呟くような声で言った。
「僕はこういう勉強をしているときが一番楽しくて落ち着くんだ」
そう言いながら息を吐き出すアズル。医学書を眺め、真剣に治療の術を学んでいる彼は確かに、幸福そうな、穏やかな表情を浮かべていた。そう思いながらアルマは小さく呟くように言う。
「アズル様は戦闘はお嫌いですものね」
そう、アズルは戦闘が苦手だ。剣術も学んでいるらしいが上手く振り回すことは出来ないようだし、体術の類は以ての外。攻撃魔術も不得手で、他者に害をなすことなんて出来ない。優しく、穏やかな気質の国王だ。
アズルはアルマの言葉にふっと笑った。そして、溜息を一つ吐き出しす。
「うん……戦うのは、好きじゃないんだ。誰かを傷つけるのは、怖いし……勿論、僕があまり強くないのもあるんだけどね」
彼はそういって苦笑した。そんな彼の姿を見てアルマは目を細める。そして、穏やかな表情を浮かべながら、彼はアズルに言った。
「そんな貴方を守るために私たち騎士が居るのですよ」
彼はそう言いながら、自分の胸に手を当てる。葡萄酒色の瞳で自分を見つめるアルマの言葉に、アズルは緑の瞳を見開いた。そして、穏やかに表情を綻ばせる。
「ふふ、そうだね……頼りにしているよアルマ」
「えぇ、お任せください」
彼はそういいながらアズルの足元に跪く。恭しく、騎士らしく。吹き込む風が、彼の柔らかな赤髪を揺らす。そんな彼の様子を見て、アズルはふっと息を吐き出した。そして半ば呟くような声で言う。
「でも、アルマはすごいなぁ……」
「? 何がでしょうか」
アルマはその発言に不思議そうな表情を浮かべる。葡萄酒色の瞳を瞬かせる彼の姿を見つめたアズルは微笑んで、言葉を続けた。
「だって、君は戦闘も得意だろう? 頭もよく回るし、戦闘もできる。医術も身に付けることができれば、更に無敵だ。それに、気質も優しいしね」
アルマは優しく穏やかな性格だ。どちらかと言えば争いを好まず、気質としては自分と近いとアズルは思っている。しかし彼はあくまでも戦闘の類を好まないだけで、戦うことができないのではない。事実、騎士団内の訓練の際も、優れた剣術の腕を披露していた。
「僕では到底適わないな。練習こそしているけれど」
そう言って溜息を吐き出すアズル。アルマはその言葉に少し表情を強張らせる。
「そう、ですかね。そんなことはないと思いますが」
呟く声は弱い。そんな彼に向けてアズルはゆっくりと首を振りながら、憧れるような表情を浮かべて、言葉を続けた。
「凄いよ、僕には真似できないもの。生来のセンス、ってものなのかなぁ」
そう呟いたアズルは溜息を吐き出す。彼の表情には色濃い劣等感が点っていた。
戦いは、苦手だ。体格の問題もあるかもしれない。背丈は小さく、筋肉もつきにくい。父親よりも母親に似たと言われている華奢な体躯は正直戦闘にはあまり向かないだろう。しかし、それを抜きにしても、戦闘に対して非常に不器用である自覚はアズルにもあって。
アルマは暫しそんな彼を見つめていたが、やがてふっと息を吐き出した。
「……そんなことはないと思いますが」
やはり弱く、いつもより幾分低く聞こえる声。それを聞いたアズルははっとして顔を上げた。そしてすまなそうに眉を下げながら、言う。
「あ、気を悪くしたかな。ごめんね。勿論、君が凄く努力してきたことはよく知っているのだけれど……」
今の自分の口ぶりでは、まるでアルマが何の苦労もなしに現在の実力を手に入れたかのように聞こえたかもしれない。そう思いながら、アズルは詫びる。しかしアルマは彼の反応に微笑みながら首を振った。
「いえ。でも、確かに……努力は、しましたね」
彼はそう言って微笑む。鮮やかな葡萄酒色の瞳を細めて。強い光を灯した、彼の瞳。強い、強い光だ。騎士の中にも彼に憧れる者は多いと聞いている。
「そうだよね……僕ももっと頑張らないとね」
彼はそう言うと、ふわりと微笑んだ。アルマはそんな彼に笑みを向け、立ち上がる。
「では、そろそろ戻りますね。剣の手入れをしなくては」
アルマはそう言って頭を下げる。アズルはそれを聞いて小さく頷いた。
「付き合ってくれてありがとう、アルマ。ごめんね、時間を取らせてしまって」
「いえ、此方こそ。貴重な機会をありがとうございます」
そう言って微笑んだアルマは部屋を出ていく。アズルも微笑みながらそれを見送った。
「ふぅ……」
アズルの部屋を少し離れたところで、アルマは足を止め、溜息を一つ。開いた窓から風が吹き抜けて、長い赤髪が揺れた。開いた窓の方へ、アルマは視線を向ける。月明りに煌めく、ワインレッドの瞳。硝子に映る自分自身の表情を見つめると、彼はそっとそのガラスに指を這わせた。
「……貴方は、きっと国王には向かないのですよ、アズル様」
小さな声で彼は呟く。そんな彼の瞳の端で、小さく光が煌めいていた。
***
アルマが部屋を出ていくと、部屋はしんと静まりかえった。誰も居ない、自分一人の部屋。これが当たり前の空間なのだけれど、アズルはこの空間があまり好きではなかった。幼い頃からずっとこうなのに、不思議だ。そう思いながら、彼は息を吐き出す。そして、ゆっくりと自分の机に向かった。
書類の仕事をするときに使うデスク。その引き出しの一つにそっと指先を添える。つっとそこをなぞると、引き出しが開いた。魔術で封じてあった執務机の引き出し。そこから、彼は何かを取り出した。
小さなアズルの手に乗るのは、白い封筒。断崖に立ち、月に向かって遠吠えをする狼のシルエットが描かれたそれは、数日前に届いたものだった。
アズルの手元に届く手紙の類は必ず、点検および仕分けされて届けられる。国王と言う立場上、敵意を持つ相手に攻撃される可能性もある。魔力を込めた手紙の類で暗殺を企てることも少なくはないのだ。故に、アズルが手元に届くものを警戒することはあまりなかった。
しかしその手紙は異様だった。魔力こそ籠っていないけれど、受け取ったことのない質感と見た目のもので……手に取った瞬間に手が止まった。
一体誰からのものだろうか? そう思いながらアズルは差出人の名を探したが、見当たらなかった。
開けない方が良いかもしれない。そう思いながらも開けずにいられなかったのは、それこそ何かの魔術がかけられていたのかもしれない。今更のように、アズルはそう思っている。
封筒から出てきたのは一枚の便箋だった。そこに刻まれていた文字を、アズルは何度も見つめていた。その手紙に刻まれた言葉の意味を、考えながら。
―― 無知は罪なり。大いなる犠牲の上に立つ罪深き王は飼い犬の牙で喉笛を食いちぎられる運命にある。
そんな文章で始まる手紙。まるで予言のような文言で始まっていたそこには、アズルを貶めるような文章が刻まれていた。無知、罪、犠牲……――それは全て冷たい批判であるということは理解できたが、そうした言葉を自分に向けてくる相手が、そしてこんな……手紙と言う形でそれを届けるような人間が、思い当たらなかった。
「……悩んでる?」
不意に聞こえた声。それにはっとして、アズルは振り向いた。その視線の先にいたのは、淡い緑髪の少年。いつも被っているフードを脱いだ彼はじっと、アズルのことを見つめていた。アズルは緑の瞳を瞬かせる。
「フロール……君は、何か知っている?」
アズルはそう問いかける。散々考えたが自分では答えが出せない。だからもし少しでも知っていることがあるならば教えてほしい、とアズルは困ったような表情を浮かべながら言葉を紡いだ。
その問いかけに、占い師はゆるゆると首を振った。全てを見通す紫の瞳で国王を見つめながら、言った。
「言えない。でも、気付かないと、だめ。自分で気がつかないと、君は……」
途中で言葉を切った彼が、ほんの僅かに表情を歪める。アズルが言葉を重ねようとするのと同時に、彼は姿を消してしまった。
「あ……」
アズルは彼がいた場所をじっと見つめた。それから深々と溜め息を吐き出し、もう一度視線を手紙の方へ向ける。
「自分で気付かないと、か……」
この手紙の意味は、アズルが自分で考え、理解しなければならない。フロールがそう言ったということは、きっとそれが未来に何か、関わっているはずだ。そうしなかった場合何が起きるのかはわからないけれど……彼は、きっともうそれすら知っているのだろう。そう思いながらアズルは開いた手紙の最後に刻まれた署名を指先でなぞる。
「Tollwütige Heiligkeit……癲狂皇、か」
封筒にはなかった署名。便箋の最後に書かれた名前。それはアズルも聞いたことの無い名前だった。
「見たことがあるような、ないような……」
この手紙の文字を見たときに、既視感を覚えた。何処かで見たことがある気がしたのだ。気のせいかもしれないけれど。
「僕が知っている、誰か、なのかな」
手紙を寄こしてくるような、人物と言うと決して多くはない。とても綺麗な筆跡であることは確かなのだけれど。
そう思いながら、アズルは小さく息を吐き出したのだった。




