おっさん、青春 第4章 第10話 ~帰路~
役所の玄関を出た瞬間、
高木は、足を止めた。
理由は、はっきりしない。
ただ――
空気が、いつもと違う。
さっきまで、
人の声があり、
責任が飛び交い、
「予定通り」という言葉が、何度も確認されていた。
外に出た途端、
それらが、一斉に切り離された。
(……妙だな)
高木は、
無意識に空を見上げかけて、
やめた。
空を見る癖は、
とうの昔に捨てたはずだった。
見たくても、
そこには空がなく、
ビルだけがあった時代に。
役所の玄関前。
自動ドアが閉まり、
背後で、かすかな反響音が残る。
資料は、もう持っていない。
今日の仕事は、終わっている。
終わっている――
はずだ。
「三日あれば、整理できる」
自分の言葉が、
頭の中で、もう一度再生される。
(整理、か)
高木は歩き出す。
舗道に響く靴音は、一定。
乱れていない。
だが、心拍が、わずかに速い。
(時が……合っていない)
そう感じた瞬間、
理由も分からないまま、
背中に、ひやりとしたものが走った。
誰かに、
見られている。
いや――
“見られている”というより、
測られている。
高木は、
立ち止まらない。
振り返らない。
それが、
昔からの癖だった。
(振り返ると、戻ってしまう)
何に戻るのか。
それも、もう考えない。
信号待ち。
赤。
街は、普通だ。
車も、人も、
予定通り動いている。
なのに、
見上げずとも視界に入る雲だけが、妙だった。
重なっている。
集まっていない。
流れていない。
現象としては、異常ではない。
「説明はつく……問題なし」
誰に向けるでもなく、
小さく呟いた。
その瞬間。
――ドン。
音が、落ちた。
雷ではない。
地面の奥から、
割れるような音。
高木は、
初めて、上を見上げて空を見た。
雲が、横に裂けている。
(……なんだ、これは)
理屈が、追いつかない。
データも、
想定も、
頭の中に並ぶ前に、
もっと古い感覚が、
胸の奥で疼いた。
(……知っている)
理由はない。
記憶でもない。
ただ、
身体が、覚えている。
白い輪郭。
光のない稲妻。
――雷。
名前を、
心の中で呼んだ瞬間、
高木は、はっとした。
(……なぜ、知っている)
問いに、答えは返らない。
代わりに、
胸の奥で、
別の声が囁く。
(まだだ)
(今は、まだ)
雲が閉じる。
音が消える。
街は、
何事もなかったように動き続ける。
信号が、青に変わる。
高木は、歩き出した。
「……仕事だ」
それは、
自分に言い聞かせる言葉だった。
だが、
どこかで、
別の意味を帯びている。
(使い切る)
(時間を)
なぜ、
そんな言葉が浮かんだのか。
高木自身にも、分からない。
ただ一つ、確かなのは――
もう一度、
空を見る癖が、
戻り始めているということだけだった。
役所の庁舎が、遠ざかる。
境界は、
すでに越えている。
本人が、
気づかないまま。




