おっさん、青春 第4章 第4話 ~風は、まだ~
山に入ったのは、会議の翌朝だった。
夜の雨は上がっている。
だが、地面は湿り気を帯び、
靴底がわずかに沈む。
「……静かだな」
声に出してみて、すぐ後悔した。
静かすぎる。
鳥の声がない。
枝葉の擦れる音もない。
風の気配が、まるで存在しない。
白丸が、俺の一歩先で立ち止まった。
『……ここ、覚えてる』
「前に来た場所か?」
『違う』
『“何も通らなかった場所”だ』
佐伯のホログラムが、淡く展開される。
「風速、検知できません」
「地形的には、通風条件は成立しています」
「なのに?」
「……通っていません」
数字じゃない。
条件でもない。
拒否されている。
そんな感覚だった。
____________尾根に出る。
三日前、雷が立っていた場所。
焦げた地面は、そのままだ。
「ここを起点にするのは……違うな」
自分でも驚くほど、声が低かった。
白丸が、ゆっくり首を振る。
『雷が見ていたのは、場所じゃない』
『“やり方”だ』
「……わかってる」
わかっている。
だから、進めない。
俺は、地図を広げた。
開発図面でも、測量データでもない。
ただの、白地図だ。
線も、色も、目的もない。
「……人が入れない道、か」
描こうとした鉛筆が、止まる。
道を描いた瞬間、
それは“人の道”になる。
白丸が、ぽつりと言った。
『なあ、人間』
「何だ」
『お前はさ』
『“何もしない”って選択を、したことあるか?』
言葉が、詰まった。
役所
計画
改善
整備
管理
「……ないな」
『だろうな』
白丸は、地面に伏せた。
『自然はな』
『何もしない、という行為を』
『ちゃんと“行為”として理解する』
佐伯が補足する。
「自然環境下では、
介入しない判断は、
高度な制御と同義です」
「役所じゃ、真逆です。」
「はい」
即答だった。
そのとき。
遠くで、枝が折れる音がした。
反射的に顔を上げる。
霧の向こう。
巨体が、ゆっくり動いた。
熊―― やま、だ。
痩せてはいる。
だが、目は生きている。
やまは、こちらを一瞥しただけで、
近づかない。逃げもしない。
ただ、立っている。
「……まだ、様子見か」
白丸が、低く言う。
『山は、答えを急がない』
やまが、一歩、踏み出す。
その足元で、
枯葉が、かすかに揺れた。
ほんの一瞬。
ほんの一筋。
――風。
「……今の、見たか?」
佐伯が、即座に応答する。
「微弱な流動を確認」
「ですが、持続しません」
風は、通らなかった。
試すように、顔を出しただけだ。
雷も来ない。
雲も動かない。
評価は、まだだ。
白丸が、俺を見た。
『焦るな』
『今は、“信用されてない時間”だ』
俺は、拳を握った。
「……三日のうち、一日は使い切ったな」
佐伯が、淡々と言う。
「残り、二日です」
厳しい数字だ。
だが、嘘はない。
やまが、ゆっくり背を向けた。
山の奥へ戻っていく。
――期待も、失望も、示さずに。
俺は、白地図をたたんだ。
「……まだ、描かない」
白丸が、わずかに笑った。
『それでいい』
『今日は、風に“何もしない”日だ』
山は、沈黙したままだった。
だが。
完全に、拒絶されてもいない。
それが、
今、唯一の救いだった。




