おっさん、青春 第3章 第10話 〜風の道 山の声〜
山に入った瞬間、
俺は違和感を覚えた。
音が、ない。
風の音がしない。
木々が揺れない。
葉が擦れる音も、鳥の羽音もない。
「……静かすぎないか」
思わずそう口にすると、
佐伯のホログラムがわずかに揺れた。
「異常です。
この山域の風流量、観測不能――いえ、ゼロです」
「ゼロ……?」
数字の問題じゃない。
これは、もっと根本的な――
生き物の気配が、ほとんど消えている。
白丸が足元で立ち止まり、
耳を伏せた。
あおばも、上空を旋回しない。
枝に止まり、黙って山を見ている。
「……風が、死にかけている」
その言葉を、
俺じゃない誰かが言った。
ほんの少しの気配は背後だった。
低く、落ち着いた声。
振り返ると――
そこに、熊がいた。
以前より、少し痩せていた。
毛並みは荒れている。
だが、その目は澄んでいた。
怒りも、威嚇もない。
ただ、事実を知っている目だった。
「来るのが……遅かったな」
俺は喉が鳴るのを感じた。
「……あんた」
熊は俺を見ず、
山の奥を見つめたまま続ける。
「怒っていると思ったか?」
首を横に振る。
「違う。
もう、怒る力も残っていない」
風がないから、
その声は妙にはっきり聞こえた。
「子は、生まれなかった」
一言だけ。
「水場は干上がり、
森の匂いが変わった」
熊は静かに言う。
「生き物はな……
匂いで“終わり”を知る」
俺は、何も言えなかった。
言葉を探すこと自体が、場違いに思えた。
白丸が一歩、前に出ようとして、やめた。
あおばも鳴かない。
佐伯が小さく言った。
「……感情データではありません。
これは、観測事実です」
熊は、そこで初めて俺を見た。
「お前が来なければ、
人を恨んだまま終わっていた」
胸の奥が、重く沈む。
「だが――来た」
熊は、ゆっくり息を吐く。
「来たなら……
まだ、間に合うかもしれない」
希望と絶望を、
同時に渡された感覚だった。
「風の道が戻るなら、
もう一度、山で生きる」
それだけ言って、
熊は霧の向こうへ歩き出した。
振り返らない。
止める理由も、
呼び止める言葉も、なかった。
一枚の葉が、
かすかに揺れた。
風じゃない。
でも、完全な静止でもない。
佐伯が言う。
「回復可能性……
ゼロではありません」
俺は拳を握った。
「……やるしかないな」
白丸が、静かにうなずいた。
あおばが、高く、短く、一声だけ鳴いた。
それは合図のようだった。
――ここからが、正念場
風の道を、
もう一度、山に通すために。




