おっさん、青春 第3章 第8話 ~風と開発~
風の神社の鳥居をくぐった瞬間、
空気が変わった。
切ないほど冷たく、
それでいて胸の奥を押し潰すような重さ。
佐伯が小声で
「……吉田さん。風向センサーの値が“ゼロ”です」
「ゼロ? 空気が動いてるのに?」
「正確には、“風の流れが死にかけている”状態です」
白丸が、社の前に座り込んだ。
珍しく、背筋がわずかに震えている。猫背は変わりないが。
『吉田……風の神が、限界だ』
「風の……神?」
『風という現象には“道”がある。
山から海へ、森から街へ、そして上昇する。その反対も然り。
循環するからこそ、気も水も整う。
その“道”を護る存在が、この地の風神だ』
あおばが頭上から静かに降り立つ。
青黒い羽根が、弱い光で揺れている。
『だが、その神が……
もう“流れ”を作れなくなっている』
「なんでだよ……なんでそんな状態に?」
白丸
『原因は、人間だ。
山の斜面に開発のための“風よけ壁”をつくった。
谷にあった川の流路を、宅地造成のために変えた。
温度差も地形の差も消えれば、風は生まれない』
あおばが静かに
『風は“温度差の子”だ。
それを人間が全部、均すから……
風は死ぬ』
社の奥から、弱い光が漏れた。
まるで、最後の呼吸のようにゆらゆらと。
「吉田さん……内部から“意識波形”を検知。
残り……9%です」
「風に……残量とかあるのかよ……」
白丸は、ゆっくりと俺を見上げた。
『吉田。風神は、今際の際に“お前を呼んだ”』
「なんで俺なんだよ。
そんな大事な時、俺なんか……」
白丸は、首をかしげて言った。
『理由は簡単だ。
自然界の声を、
“唯一聞ける人間”が、お前だからだ』
あおば
『風神はもう長くない。だが、“死”ではない。
風は消えぬ。
しかし――この地域の風の“人格”は、失われる』
白丸
『風が、ただの空気の移動になる。
もう、声は届かない』
胸が締めつけられた。
熊も
しげお(線状降水帯)も
白丸も
あおばも
そして――幸子の“声”も。
全部、風が運ぶから聞こえた、のか。
もし風が死ねば……
白丸が、静かに言った。
『吉田。
風神は“最後の願い”をお前に伝えたいと言っている。
社の奥へ行くぞ』
社の奥へ足を踏み出すと、
冷たい風がわずかに吹いた。
《……ヨ……シ……ダ……》
(風の声が……聞こえる?)
《……ユル……シ……テ……ク……レ……》
「許すって……何を……?」
風の声は、弱く、か細い。
《……ワタ……シ……ハ……マ……モ……レ……ナ……カ……ッ……タ……》
「守れなかった……?」
《……マ……チ……ヲ……
ヤ……マ……ヲ……
カ……ワ……ヲ……》
白丸が小さく頷く。
『風神は、自分の無力を悔いているのだ』
「そんなの……風のせいじゃない。
全部、俺たち人間が……」
言いかけた瞬間。
《……タ……ス……ケ……テ……》
その声には、
風ではない何かが混ざっていた。
すこし人間的で、
すこし少年のようで、
すこし、懐かしい女性の声に似ていた。
佐伯が背後で分析を続ける。
「吉田さん。
今の声……
“北川幸子の脳波パターン”が混在しています」
「幸子が……風の中に?」
白丸
『吉田。
風神が死ねば――
幸子の“声の欠片”も消える』
あおば
『救いたいなら、急げ。
風神の意識を、“風の道”へ戻すのだ』
「どうすればいい……俺が何をすれば……」
白丸は俺の足に前足を置いて、
『人間の開発を止めろとは言わない。
ただ――“風が通れる道”を作れ』
あおば
『山の測量データと、風の神社の地形図。
その二つを重ねれば、“風の道”が見える』
「……つまり、人間の技術と自然の声を
両方ってことか」
白丸
『そうだ。
お前はそのために生きている。
半分、人で、半分、自然で』
風が、最後の力で吹いた。
《……タ……ノ……ム……》
俺は、拳を握った。
「……わかった。風神。
お前の声、必ず届ける。
そして……幸子の声も、消さない」
白丸が目を細めた。
『よく言ったな、使い魔』
あおばが翼を広げる。
『では、行くぞ。
“次の動くべき場所”へ』
風は弱く、しかし確かに吹いた。
その風の導く方向へ俺たちは歩き出した。
――風が死なぬように。
――自然と人をつなぐ道をつくるために。
そして、失われかけた幸子の声を
再び“この世界へ”連れ戻すために。




