【第八十話】風の境界にて
草のざわめきが止まり、焚き火の音だけが耳に残る。
リクは立ち上がり、《感知:魔素流》を維持したまま、接近してくる“存在”の方角を睨んだ。魔素の流れをかき乱すその動きは、人間のものにしては滑らかすぎた。
「……もうすぐ来る。二十秒もかからない」
「敵かも」
メイが言った。
「可能性はある。けど、まだわからない。攻撃準備だけはしておいて」
ミナが短剣を抜き、メイも淡い魔力を纏わせて前方に歩を進めた。
やがて――木々の影から、姿が現れた。
少年。いや、年齢にしては幼く、身なりも旅人とは思えない。
だが、目が違った。暗がりでもはっきりと光る双眸。言葉にしがたい“異質”を、三人は即座に察知する。
「――止まれ。これ以上近づくなら、こちらも対応する」
リクの声に、少年はぴたりと足を止めた。
「……ああ、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだ」
不思議と通る、どこか涼しげな声だった。
その少年は、ゆっくりと両手を上げ、敵意がないことを示す。
「ただ、きみたちの“風”が見えたから。ちょっと……ついてきたんだ」
「“風”? ……どういう意味だ?」
リクは問う。
「文字通りの意味だよ。あの風、きみが開いた遺構の中から吹いてた。記憶を含んだ風。珍しいものだったから……興味があってね」
ミナが低く声を出す。
「……あんた、普通の旅人じゃないでしょ」
「うん。ぼく、旅人じゃない。観測者だよ。名前は、ノクト」
ノクト。
その響きに、リクの背にひやりと冷たいものが走った。
どこかで聞いた――いや、“刻まれていた”ような名前。
「観測者……?」
リクが問い返すと、ノクトはうっすらと微笑んだ。
「風の遺構に、触れたきみたちに興味があってね。正確には、きみ」
ノクトはリクをまっすぐに見つめた。
「きみの“解析”は、形を持ち始めている。――だから、近づいておきたかった」
「……おまえ、魔源体と関係があるのか?」
ノクトは笑みを深め、首を振った。
「直接の関係はない。でも……知ってる。“彼ら”の行き着く先も、“君たち”が選ぶ答えも。全部、見届けるつもりだから」
その言葉に、リクは何も答えられなかった。
静かに風が吹いた。もう夜の風は冷たく、彼の頬をかすめていく。
ノクトは手を軽く振ると、背を向けて歩き出した。
「また会うよ。今度は“選ぶべきとき”に」
その姿は、闇に紛れて、音もなく消えていった。
誰も動けなかった。あまりに突然で、あまりに意味深で。
「……なんだったんだ、あいつ」
ミナがようやく口を開いた。
「……不明。だが……観測者、という言葉は気になる」
メイの声にも、わずかな緊張が残っていた。
リクはゆっくりと腰を下ろすと、焚き火の火を見つめた。
「……敵じゃない。でも、味方って感じもしなかった」
燃える音だけが、また戻ってきた。
夜はまだ続いている。だがその夜は、確かに何かを変え始めていた。




