【第五十一話】霧の核
霧は深く、そして静かだった。
記録を終えたリクたちは、残された“影”の存在を隊長の判断で仮封印した。
放置すれば魔素の暴走が周囲へ拡大する可能性が高く、調査団の安全を守るにはそれしかなかった。
「これ以上の接触は危険だ。先に進むぞ。霧の流れは、この先に収束している」
隊長の指示のもと、一行は神殿跡を離れ、谷のさらに奥へと進んでいく。
やがて、霧が一層濃くなる境界に到達する。まるで“結界”のように、空気が急激に変わる。
「……感じる?」
ミナの問いに、リクは小さく頷いた。
「うん。魔素の密度が異常。霧というより、“膜”に近い」
「抜けられる?」
「試してみる」
リクは《感知:転位境界》を展開。空間の歪みと流れを探ると、目の前の霧がわずかに“押し返して”くる感触がある。
「……これは、単なる霧じゃない。“観測を拒絶する”性質を持ってる。入るには……僕たちの方から、存在を“偽る”必要がある」
少女が一歩、前へ出た。
「なら、私が先に入る」
「え?」
「私は“まだ定義されていない存在”だから。魔源体にとって、私はきっと“未観測”のまま。私なら、霧に拒絶されないかもしれない」
ミナが思わず彼女の腕をつかむ。
「ダメ……そんなの、危険すぎるよ」
少女は小さく笑って、ミナの手をそっとほどいた。
「大丈夫。リクがすぐ後ろにいてくれるでしょ?」
「……わかった。すぐ追いかける」
少女は頷き、霧の膜へとゆっくり足を踏み入れる。
――その瞬間、膜が波紋のように揺れ、静かに彼女の姿を飲み込んだ。
「消えた……?」
ミナが息をのむ。
「……転位成功。彼女の意識も、まだ繋がってる。……行くよ」
リクもその後に続く。彼の周囲に《転位遮断》《観測遮蔽》《存在分離》の三重式を展開し、霧へと踏み込んだ。
世界が、一瞬だけ裏返った。
そして――
白霧の核心に、リクは立っていた。
視界一面に広がる“無色の空間”。上下も左右も、あいまいになるような白の海。
中央に、それはいた。
人の形を模した、しかし人ではない“影”。
その“顔”の部分は、仮面のような滑らかな平面で覆われ、そこに刻まれた円形の紋様がゆっくりと回転している。視線は感じない。だが、確かに“見られている”。
「……これが、“核”……?」
少女がそばにいた。霧の影響は受けていないようで、彼女の目もまた“影”を見据えていた。
「……喋らない。けど、存在そのものが、問いかけてるみたい」
リクは一歩、影に近づきながら言った。
「“なぜ来たのか”。“何を知ろうとしているのか”。“理解されたいのか、されたいフリをしたいのか”……そんなふうに」
彼はそこで立ち止まり、《解析:観測痕跡》を試みる。
しかし――何も、出ない。
いや、正確には「過剰に情報がありすぎて、解析不可能」だった。
「……観測そのものが……データ圧縮されてない。ノイズの塊みたいな……いや、圧縮が必要ないレベルで、“存在”してる」
「それが、“魔源体の核”……?」
少女がつぶやいた瞬間。
仮面の中心が、リクへ向かってゆっくりと“傾いた”。
「……っ!」
思考が、一瞬白に塗り潰された。
“問う”
声ではない。だが確かに、それはリクの中に響いた。
“理解を望むか?”
リクは……迷わなかった。
「――望む。けど、それは服従じゃない。僕は、“理解し、そして拒絶する”ために来た」
沈黙。
“許可”
仮面の紋様が一瞬、強く脈動した。
その瞬間、リクの脳裏に――一枚の地図が浮かんだ。
魔素の流れで編まれた座標。時間と空間を超えた、次なる“場所”。
そこに、“過去”がある。
リクはその感覚を胸に刻み、口を開いた。
「……次は、“始まり”を追うよ。僕たちは、ここで終わらない」
少女とミナが、彼を見つめる。
そして、霧の海はゆっくりと晴れていった――。




