1 勇者の遠征
「あたしはねぇ、この身分にしちゃあ幸せに暮らしてたんだ。毎日布団で寝られて、食事もあって、おまけに給料もでてねぇ。だってのに、ばかな坊ちゃんのせいでこんな船に乗せられて。ほんとにひどい話だよ。」
甲板を掃除しながらナターシャが文句を垂れる。忙しなく動き回るたび長い三つ編みが黒猫のしっぽのように揺れる。
大きな音を立てて巻き上がる蒸気が歯車をまわす。
機械仕掛けの空飛ぶ船は恐ろしく早くすすむ。
しかし燃料を燃やす煙のせいで煤だらけになるのだ。
ナターシャは煤を払うのに疲れたのかいつもより小言が多い。
幼い頃から俺の世話係として育てられた彼女は、俺に付き合わされてここまできたことが不本意らしい。
「だって、あのまま屋敷にいたら俺には自由なんかなかっただろ。」
そういうとナターシャはため息をつく。
「自由でご飯が食べれるのかい?だいたいねぇ、そのご身分でなにが自由だよ。坊ちゃんあたしよりよほど自由だろ。」
「そうでもねぇよ。」
身分が高いからこそ、身分に縛られていると感じる。
けれどもナターシャは俺の言い分は聞かない。
「でも命の危険はなかっただろうに。贅沢なんだよ。反抗期の家出に付き合わされて死ぬんじゃやってらんないよ。」
ひとつ年上なだけなのに口うるさい世話係だ。
たまらず俺は言い返す。
「家出じゃねぇよ!俺は勇者に選ばれたんだよ。聖なる戦いに行くんだ。」
我が弟である皇太子様は、敵国の手にある神の地を奪還すべく「勇者の遠征」を行うと民に約束した。
無論そんな危険な戦いに皇太子はいかせられない。
勇者の遠征に任命されたのは俺だった。
俺は父親こそ弟と同じく現王だが、母は妾だ。
母親の身分が低いために俺は王位継承権を持たない。
危険な遠征に行かせるのにうってつけの人材というわけだ。
「聖なる戦いね。この遠征はそんなたいそうなものじゃないと思うけど。」
幼い声に似合わないニヒルな発言がうしろのハンモックからした。
「ノア、起きてたのか。」
このノアという少年はどうも底がしれない。
浄化をもたらす力をもつ者として同行させられた少年。黒々とした巻き毛と彫りの深い顔立ち、達観した物言いは妙に大人びているのだけれど、裏腹にやせぎすで小柄な体と変声期の声のせいでかえって幼く見える。頭はきれるようだがいまいちやる気なさげだ。
「浄化はお前の仕事なんだから、もうちょっとやる気だせねぇの?」
「ルーカスは僕に特別な力があると本気で思う?」
ノアはようやく体を起こした。眠たげに目を擦る幼い仕草とはちぐはぐに冷めた声だ。
「教団が同行者に僕を選んだのは、僕が消えてもいい駒だからだよ。浄化の力を持つとされてるのは教団で洗礼を受けた子供なんだから、変えが効くんだ。」
ノアも俺と同じように、任務に見合う身分はあるが消えても痛手にならない者なのだろうか。
俺といい、ノアといい、失った時の損がない人物が選ばれているのはなぜなんだろうか。
その疑問にノアは答えを示した。
「皇太子様は神の地奪還が成功するとは思ってないのさ。」
「じゃあなんで弟は遠征を出したんだ?」
「聖なる戦いに挑んだ、という事実が欲しいのさ。それで信仰心があることを示して、皇太子は信仰と財政の力の両方で民衆の支持を得たいんだ。」
「失敗するより成功させたほうがいいんじゃねぇの?」
「もちろんそうだけど、成功はかなり難しい。
勇者の遠征は何度も行われたけれど、何百年もの間一度も成功していない。
戦争に行ったことのないルーカスと、ここに集められた未成年だけならよけいに難しいでしょ。
本当の目的は他にある。」
「なんだよそれ。」
「ひとつは、君を殺すこと。王家の血を引く君が謀反を起こすことがあっては困るからね。でも君は妾の子供だし皇太子ほど権力は持っていない。だからこれは最優先じゃないと思うよ。」
「じゃあほんとの目的はなんだよ。」
「僕たちは逐一皇太子と連絡を取るんだろ?そこできっと命令を受ける。子供は相手に警戒されにくいという特性がある。きっと命じられるのは暗殺だ。」
「暗殺だって?そんな危険で汚い仕事、よほど報酬がよくなきゃあたしゃやりたかないね!」
ナターシャが甲高い声で講義するが、ノアは「やるしかないよ」という。
「皇太子にとってルーカスも殺す理由があると言ったでしょ?僕らが皇太子にとって使えると思われなかったら、最初に暗殺されるのはルーカスになるよ。」
俺はやるせなくて舌打ちした。
「やっぱり生きるためにはなんでもしなきゃなんねぇんだな。」
今さら綺麗な生き方はできないのか。自由は簡単に手に入らないらしい。
「なにいってんだい、みんなそうして生きてんだよ!」
ナターシャはふんと鼻を鳴らす。
意外にも、ノアもナターシャに頷いた。
「なにをしてでも生きるんだ。生きることが正義なんだから。」
日の光を受けるノアの顔は自信に溢れていた。
俺はノアのこの言葉で、先を読む賢さと手段を選ばない狡猾さをもつこの少年の力があれば生き抜くことができると信じることになった。