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第40話



挿絵(By みてみん)





 夏が始まろうとしていた。


 窓から吹き込む風がカーテンを揺らし、雨の気配が、街の喧騒の向こうで途切れがちに近づいてくる。


 高校2年の教室。黒板の前に立つ少年を、クラス全員が静かに見つめていた。



 「……日向坂爽介です。えっと……事故に遭って、記憶が少し抜けてます。でも、普通に生活する分には問題ないので、よろしくお願いします」



 彼はそう言って頭を下げた。


 ——記憶が抜けてる。


 その言葉が、教室の外にいたひとりの少女の胸を締めつける。城ヶ崎サヤは、廊下の上でぎゅっと手を握った。爽介は、1年前の記憶をすべて失っていた。それはつまり、「私と付き合っていたことも、全部忘れてしまった」ということだった。彼はもう、私のことを「恋人」としては見ていない。そんな現実を突きつけられたサヤは、ただ静かに息を呑んだ。


 ——でも、大丈夫。私は「彼女」だったことを隠すと決めたから。その瞬間、前に立つ爽介の視線が、偶然サヤのものとぶつかった。けれど彼の目には、「懐かしさ」も「愛しさ」もなかった。ただの「クラスメイト」を見るような、曇りのない瞳だった。


 サヤはそっと目をそらし、心の中で呟いた。


 ——ねぇ、爽介。

 私はどうしたらいい?




 *




 「記憶がなくなったって、どんな感じ?」



 放課後、屋上に続く階段の踊り場で、サヤは爽介にそう問いかけた。爽介は柵にもたれかかりながら、少し考える。



 「うーん……なんか、夢から覚めたみたいな気分かな。自分の体に、自分が馴染んでない感じがする」


 「ふうん……」


 「サヤとは、前から仲良かったの?」



 爽介の何気ない問いに、サヤの胸がちくりと痛んだ。



 「んー……どうだろうね?」



 誤魔化すように笑いながら、サヤは柵の上に手を乗せる。1年前なら、こんなふうに並んでいるだけで、爽介はそっと私の手を握ってくれた。でも、今はただ、風が吹き抜けるだけだった。



 「これから、また仲良くなれる?」



 爽介の言葉に、サヤは驚いて彼を見た。



 「……え?」


 「だってさ、なんか不思議なんだよ。サヤと話してると、すごく落ち着くっていうか……懐かしい気がするんだよね」


 「……」



 それはきっと、消えてしまった「過去の記憶」が、心のどこかに残っているからだ。サヤはぐっと唇を噛み、ぎこちなく笑った。



 「うん。また仲良くなろうね」



 ——“また”なんて、言えないけれど。


 心の中でそっと呟いた。

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