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ぱたん、と本の裏表紙を閉じる。
椅子にもたれて伸びをした。良質な物語を読み終えたあと特有の読後感に浸る。
小説を読むのは久しぶりだ。試験後の、勉強をしなくても罪悪感がない時期だけの贅沢。
図書室の中には数人の生徒がいた。本棚の前で立ち読みする者、机に座って参考書を広げる者、窓際で携帯をいじりながら雑談する者。雑談は図書室でするなよ、うるせえ。
嫌なものを見た。意識から追い払う。次の本を探すために立ち上がった。読み終えた本を戻し、一冊選んで席に戻る。
読もうと思ったのだが、西日が強くて暑苦しい。さっきまでは気にならなかったんだけどな。涼しいところに行こう。
別の場所を探す。と、机の上にプリントが置きっぱなしになっていた。数学だ。上級生のものだが、レベルはそこまで高くない。余裕で解けそうだ。
心の奥で何かがうずいた。活字を読むとつい目で追ってしまうし、問題を出されると脳は勝手に働きだす。
頭を振った。人のプリントだろ。ていうか、勉強の気分転換に来てるんだ。ちゃんと気分転換しよう。
プリントから離れた席に座る。本を開き、雑音が消えた。
我に返ったときには下校時刻20分前。読んだページを覚え、本を棚に戻す。プリントはまだ同じ場所にあった。残っている生徒はいない。
帰り際、プリントの前を通る。用紙は2枚、乱雑に置かれてある。途中まで取り掛かった形跡はあるが、右下がくしゃくしゃになって汚れていた。……残り時間18分。
図書委員を見る。眠たげに携帯をいじっていた。とがめてくる様子はない。
鞄からペンを取りだした。
15分で終わった。時間がなかったので字は汚いが、ミスはないはず。
あと3分でここを出なければならない。忘れ物コーナーに届けられるプリントが回収されたことはなく、捨てられるのが目に見えている。
俺は解き終えたプリントを綺麗に畳み、ごみ箱に捨てた。
ぐっばい、クソ問題。
翌日、図書室にはまたプリントが置いてあった。同じ場所、中身は違うが、難易度は同程度なので同じ人物が残したものだろう。今回は汚れておらず、綺麗なままだ。
しまった、作為的に置いてあったやつなのか。捨てちゃったよ。悪い事したな。
持ち主を探すも、それらしき人物は見当たらない。今日は図書室にいるのは二人だけ。ひとりは読書をしているが、もうひとりの女は窓際で携帯をいじっている。昨日、お友達と雑談してたやつだ。イラついたのでよく覚えてる。顔立ちは整っているが、知性は感じられない。栄養は全部胸に行っているのだろう。
通学の不便さを嫌わずもっと偏差値の高いところへ行けばよかった。知性のない猿どもは見ているとイライラする。
読みさしの本をとって席についた。達意の文章家はたった一文で意識を吸い込んでくれる。現実世界から遠のく心地いい感覚。むさぼるようにページをめくる。
ちょうど読み終えると、下校時刻5分前。続刊は明日にしよう。
帰る間際、どうしてもプリントが目につく。今日はさすがに解くつもりはないが、どんな問題かだけ見ようと思って手に取った。
がばっと、携帯をいじっていた女がこっちを見た。ローファーをかつかつ鳴らしながら歩いてくる。
しまった、こいつのだったか。捨てたの謝らないと。
俺が口を開くより早く、女が土下座した。
土下座、そう土下座だ。はじめて見た。初対面の女に生まれて初めての土下座をされている。
「お願いがあります!」
よし、逃げよう。
通学鞄をひっつかみ、図書室を出る。
「あ、ちょ、待ってよ!」
待てと言われて待つバカはいない。そそくさと階段を降り、校舎を出る。ちなみにうちの学校は土足だ。
時計を見る。次の電車まであと3分。
と、後ろから足音。
「待ってったら!」
「うげ」
女は階段を三段飛ばして駆け降りると、廊下に着地。こっちに走ってくる。
怖い怖い怖い怖い!
もう謝るどころじゃない。普通に恐怖映像だ。踵を返して走り出す。駅までは200メートルほど。振り切れる。
が、甘かった。10秒もすれば追いつかれ、肩を掴まれる。足速いなこいつ。
「ねえ、なんで逃げるの!?」
「怖いからだよ!」
「初対面じゃん!」
「初対面の相手に土下座するのが怖いんだよ!」
「それはごめん、慌ててたの!」
俺は振り返りながら足をとめた。謝られたからではない。単純に力が強くて振り払えなかったのだ。俺のフィジカルが弱すぎる。
「君、一年生?」
「……そう、ですけど」
「すごいね、なんであの問題解けたの?」
「まあ、数学は」
「え、やっば、神」
神認定が軽すぎる。ジャンヌ・ダルクだってもうちょっと疑うぞ。
「お願い! 補修クリアできないなら空手やめろって言われたの! 手伝って!」
「いやですよ、なんで俺が」
「私には空手しかないんだよう! お願い、とりあえず話だけでも! おごるからさ」
言いながら、駅の向かいにある喫茶店を指さす。
「パンおいしいよ、パン! あと、コーヒーも飲み放題」
「俺、紅茶派なんで」
「紅茶も、……なんか種類あった! たぶんいいやつだよ!」
「マーケティングへたくそか。ぜんぜん食指動かされんわ」
「えー、待って。待ってね」
スマホをすぱぱっといじる。
「えーっとね、あーるぐれい、だーじりん、いん、いん…いんぐりっしゅぶれくふぁすと? とか」
発音がおばあちゃんだった。けど意外と充実したラインナップだな。話くらい聞いてやってもいいかもしれない。
女と一緒に店に入った。
……どうしよう、改めて考えるとメチャクチャ怖いな。壺とか買わされるんだろうか。
ビビッていると、相手が切り出した。
「私、藤堂灯。三年だよ、よろしく」
「そうですか」
「……えーっと、君は?」
「名乗る必要あります? 要件、……はもう言ったから、その詳細だけ簡潔に話していただければ断るので」
「断る前提なんだ!? ていうか、名前くらいいいじゃん。同じ学校だし」
「見ず知らずの相手に個人情報教える神経が理解できませんよ。さっさと話してください。食べ終えたら帰りますからね」
「わかったよ! もー、警戒心強いなー」
こんなに怪しい相手じゃなきゃもっと普通に接するけどな。
「さっきも言った通り、補修課題終わらせないとやばいの。うちの補修ってさ、課題けっこう出るじゃん」
「知りませんよ、補修のことなんて」
「え、嘘……」
「普通に授業聞いてたら欠点なんて取らないでしょ」
「頭いい人はみんなそう言うんだ! ちゃんと授業聞いてもわからない人だっているんだよ、私とか!」
「ほんとに受験受かったんですか?」
「ううん。スポーツ推薦で入ったから」
なるほど。
「ていうわけなんだけど、なんか入ってから勉強ちゃんとしろーとか言われて、詐欺だよね?」
詐欺か?
「で、お母さんに言われたの。今回も補修が長引くようなら部活やめさせて、勉強に集中させるって」
「じゃあ、勉強すれば?」
「してるけど追いつかないの! 追試はなんとかなるかもだけど、毎日こんなプリント出されるんだよ!? 昨日なんて7時間しか寝てないよ!」
「めっちゃ寝てるやん」
肌つやっつやだろう。
「お、いい突っ込みだね。愛想悪いふりして実はけっこう話せる?」
「話の途中途中でどうでもいい話題ぶっこむのやめてください」
「ご、ごめんなさい」
藤堂とやらは椅子の上で縮こまる。俺がいじめてるみたいじゃないか。
「僕にメリットがないですね。あなたがどれだけ切羽詰まった事情だとしても、僕には関係のない話です」
「これ、やってくれたら五千円」
「金持ちですね」
「バイトやってるから」
「じゃあその時間で勉強してください」
「なんでそんな勉強勉強ばっかいうの!? お母さん!?」
せめてお父さんにしてくれ。
「……レベルの低い問題やったって時間の無駄です。金より勉強時間が欲しい」
「じゃあ応用問題だけお願い! 計算問題とかはがんばるから」
「がんばるっていうか、あなたのですしね」
「うー……よくもそうひどいことをポンポン言えるね。人の心とかないの?」
「まちがったことを言った覚えはないですけど」
「正しさって人を傷つけるんだよ」
深いように見えて浅い戯言をぬかす。
「とりあえず、問題見てよ」
プリントの束から後ろの三枚を引き抜いて渡してきた。受け取って問題に目を通す。
ペンを取りだした。
「お、なんだかんだ優しい?」
「金、前払いで」
「……はい」
樋口一葉が差し出される。もうすぐ樋口さんともお別れか。20年も顔を張って来たのに津田さんに座を奪われるなんて。悲しいものだ。
閑話休題。
ペンをかりかり動かす。問題文を見た瞬間から脳が活動をはじめ、それに追いつこうと腕を動かす。先走りする思考を捉え、答えを書き込んでいく。補修課題ゆえ、途中式をすべて書けと指定されてるのがうっとうしい。どれだけ早く答えを出せても腕は思うようについてこない。
「すごい集中力だね。紅茶おかわりいる?」
「黙って」
「……はい」
ちょうど一枚10分ずつ。最後の問題に答えを書き入れると、ふうと息を吐いてペンを置いた。力を入れすぎて親指と前腕が痛い。
腕を振って脱力し、左手で食べ物をつまむ。
「お、おー! おおおおお! すっごい! え、早すぎん!? 倍速かかってた!?」
「うるさい、今余韻につかってるの」
「数学の、余韻……?」
何を言っているかわからない、という目を向けてくるが、知ったこっちゃない。じんわりと脳の奥からにじんでくる疲労感に身をゆだねる。……不完全燃焼だな。
だがこれで義務は果たした。会計もないし、鞄を取って立ち上がる。
「あ、待って」
「まだ何か?」
「連絡先教えてよ」
言いながらスマホを取り出した。
「ない」
「ん? 充電?」
「いえ、携帯持ってないので」
「嘘……え、なんで?」
「僕はバイトしてませんからね。そんな高級品買えないんですよ」
「いや、私も携帯代は親に出してもらってるよ!?」
「衣食住すべて与えられて、その上娯楽代まで出してもらうなんて都合よすぎでしょう。そんなのは自分で働いてからにすべきです」
ぽかんと口を開けて固まる藤堂を置き、店を出た。