1章 難民
もう、逃げるしかなかった。
我々に恵みをもたらすはずの川は、災いとなって我々を襲った。丹精込めて作った作物は、川の水が飲み尽くしてしまい、作物はおろか土地全てが汚泥に覆われ、農業なんてとてもじゃないがする気になれない。こんなことが3年の間続いていた。
飢えは教会が支給する食料でなんとか堪えていたが、同じようなものが支給される毎日。もちろん贅沢は言えない。しかし教会の努力の一方で、国は何もしてくれなかった。こんな状況の中、国が行うのは鉄の国への煽動だ。川の氾濫は、上流域での鉄の国の工作によるものだと。
妹はいつも泣いていた。幼児特有の感情表現としてではない。いつも配給品の麦飯だから、同じものを食べることに辟易としてきたのだった。僕も同感だ。可能ならここで泣き出したい。だが幼児と少年が泣き出したところで、状況が改善するとは思えない。思い返せば、絶望したが故に恐ろしいほど冷静だったのだろう。
だから僕たちは、故郷を捨てたのだ。
両親が家財を売り払って捻出した金で別の国へ向かった。道中、明らかに怪しい男が「鉄の国への入国をお助けしましょうか」と言ってきた。あまりにも都合が良かったので訝しく思ったが、両親はなぜかすぐにお願いした。当時の我々は、縋れるものがあれば何にでも縋りたい、そんな逼迫した状況だったが故の行動なのだと思った。
男の荷馬車に乗せられ、鉄の国へ向かう。
僕はずっと妹に寄り添っていた。幼い子にとって鉄の国への旅路は長く厳しいもので、疲労と馬車の揺れが重なり体調を崩していた。もはや妹には泣きじゃくる気力さえも消え失せていた。僕は荷馬車ないの木箱に寄りかかって寝ている妹を抱えた。ひんやりとする肌の温度に不安を覚えつつも、耐えろ、耐えろ、と念じながら、荒んだ街道を進んでいた。
男は騎乗しており、両親はその近くで会話をしていた。聞くと、最近国境付近の鉄の国の砦が謎の武装集団に制圧され、取り締まりが厳しかった街道が通りやすくなったらしい。今思えば、非武装の馬車に紛争地域を通らせるなどあまりにもおかしな話だったが、当時の僕にはそこまでの判断力がなかった。
国境を超え、鉄の国へと入る。男の言っていた通り、国境付近には砦らしき防壁があったが、ところどころ崩落していたり、焦げたような跡もあった。ほのかに煙臭さも感じた。
鉄の国に入った日の夜、私たちは野営した。火を炊くと鉄の兵士に気づかれるため、馬車の中で寝ることとなった。ぎゅうぎゅう詰めの状態だったが、全員が疲労の限界に達していたため、すんなりと寝ついてしまった。
翌日の朝、起きると馬車と男の姿はなかった。
馬車に置手紙があった。「この先に二股に分かれる道があり、右を行けば鉄の国の都・クート。左に行けばいずれは森の国に辿り着く。どちらを選ぶかはそちら次第だが、王都は警備が厳重なため、左を薦める」と。木陰には食料が入っている鞄があり、父がこれを背負う。
数時間歩くと、件の分かれ道に着く。僕は父に聞いた。父の答えは「左」だった。
ひたすらに歩みを進める。履いていた草鞋の靴も擦り切れ、時折り足に石が刺さるような感覚があった。妹も疲れを見せ、一行の足は日に日に遅くなっていった。僕は妹を背負いながら歩いた。
次に限界が来たのは母だった。春先とはいえ暑さが体に応え、腰を下ろして座り込んでしまった。父も流石に食料と母を抱えて移動するのは無理と判断し、野営することとした。
父も僕も疲労困憊だった。火を炊く勇気も気力もなかった。切り株に座り込んで、そのまま寝た。本気で、死んだと思った。
この先にあるのは、本当に故郷よりも恵まれた暮らしなのか、鉄も故郷と同じで、災害に喘いでいるのではないのか。やはりあの男の口車に乗ってはならなかった。怒りと絶望のなか、僕は葛藤していたのを記憶している。
そんななか、僕たちはあの人たちに出会った。この出会いがなければ、今の僕と妹はない。
――『きょうだいの日記』より
――――
「ところで、私たちはどこに向かえば良いのでしょうか」
出発前、エナが尋ねる。確かに森から出たことのない彼女にとっては、行く宛のない旅であった。
「…とりあえず、森の国に向かおう。鉄からの入国は自由だから、我々も入りやすい」
鉄の国と森の国は同盟関係にある。かつては犬猿の仲とされてきたが、鉄の国で大地震が起きた際に森の国の首班が鉄の国に手厚い支援を行ったため、関係が一気に改善した。現在の森の国首班リーブルは、娘フェズを鉄の国の第二皇子マニラに嫁がせるなど、有効な関係を築いている。
両国の行き来は自由で、検問などはない。そのため、鉄の国の鉱産資源と森の国の農産物や加工品との取引が活発に行われ、両国は繁栄の道を歩んでいた。
「鉄の国には、とどまらないのですか」
「俺は一応死んだ身になっている。死んだ人間がいるというのもおかしな話だろう」
「蘇生なら可能ですよ?」
「蘇生云々の話じゃない。俺たちは生まれたことを国に伝え、死んだときも国に伝えなければならない。そうしないと存在を認めてもらえないし、損するんだ」
「どのような損をするんですか?」
「学校に行かせてもらえなかったり、家を買えなかったりだな。死んだのに死んでないことになったら、余計に税が取られたり、な。俺はこの前の『おくやみ』で正式に死んだ。だから特別に手続きをする必要性はない」
このエナという女は魔法のこと以外、本当に知らないのだと、会話の節々でイマリは感じていた。
馬を進める。この先には「5本指」の宿があるので、そこで休みを取ろうと決めた。
「5本指とは?」エナが尋ねる。
「この国屈指の宿ってことだ。宿は行商がよく使う。彼らは宿に対して辛口の評価をつけると知られているが、そんな彼らが認める宿なんだ」
普通、5本指の宿に泊まるとなると、老若男女問わず、目を輝かせて興奮するものだ。ところが、人間世界から隔離されて生きてきたエナにとっては、よくわからないところで寝る、ということにしかならなかった。彼女の表情が寸分も変わらないのが、それを表していた。
相変わらず掴みどころのない人だ、と思っていると、エナがイマリの肩を軽く叩く。
「どうした」指をさす先を見ると、街道脇の木陰で倒れている4人を見つけた。
人が倒れている。大人の男女に子どもの男女だ。幸い息はあるようだ。表情などを見るに、病気の類ではなさそう。ただ単に衰弱している、そんな様子だった。
イマリは4人を馬車に担ぎ上げる。
「どちらに向かうんです」エナが尋ねる。
「その宿に行くんだよ。宿には医者がいるからな」
4人を乗せて、隊商宿へと連れていく。宿前に馬車をつけると、エナを馬車に残して宿に向かう。
「宿主はいるか。急病人だ」
受付は宿主を呼びに行く。急病人と聞いて、医者の格好をした若い男が出てきた。
「宿医者のシーアンと申します。どうされましたか」
「道中で倒れている4人を連れてきた。馬車に乗っているが、診ることはできるか」
「空き部屋があればよいのですが…。とりあえず、診させてください」
シーアンは馬車へ向かう。
「大人の男女に子供2人。おそらく家族連れだ」
「息はありますか」
「ある。呼吸はしているが苦しそうだ」
シーアンが馬車で4人の様子を見る。ちょっとした騒動になっているため、宿泊客が集まってきた。
「おそらく、疲労と栄養失調によるものですね。外傷もありませんので、野盗などに襲われたわけでもなさそうです」
そこへ、宿主がやってくる。ここの宿主は5本指の中でも珍しく、女性なことでも知られている。
「あたしが宿主のテグだ。シーアン、容体はどうなの」
「疲労と栄養失調が原因です。空き部屋があれば寝させてあげたいのですが…」
「今日は2部屋空いてるの。特別よ。4人部屋が空いてるから、そこに運んであげて」
「わかりました。軍人さん、運べますか」
「大人は任せろ。子どもの方を頼めるか」
「はい」
「軍人さん、それに、お連れさんも泊っていきなさい。シーアン、回復したら私に伝えなさい。米粥を作るわ」
4人は部屋に運ばれ、シーアンによる処置が始まった。
―――
シーアンの処置が終わり、テグが米粥を運び入れる。
「容体はどうなの」
「一命はとりとめています。ですが、かなり疲労がたまっているようです。安静が必要かと」
「わかったわ。それから軍人さん、お連れさん。自己紹介がまだだったわね。宿主のテグよ。あなたは」
「俺はイマリ。こっちはエナだ」
「テグさん、初めまして。エナと言います」
「エナちゃんって言うのかい。よろしくね」
無言でエナは頭を下げる。
「あの…4人がいる部屋に行ってもいいでしょうか」エナがテグに尋ねる。
「まあ、いいわよ。起こさないようにね」
テグはその場を離れる。シーアンは一礼して去る。
イマリは即座に尋ねる。「エナ、4人に何の用だ」
「治すんです。そして、訊くんです」
「治すって、あいつらは疲れているんだ。医者もそう言ってる。寝させる方がいいだろう」
「いいえ、すぐに治せます。私の魔法なら」
「お、おい!それに『訊く』って何をだ!」
4人部屋に入る。4人とも寝息は聞こえるが、疲労している様子は見て取れた。
エナは目を瞑り、手を合わせ、詠唱を始める。イマリにしてみれば、聞いたことのない言語だ。早口で何を言っているかもわからない。もはや、言語なのかもわからない。すると、4人の身体が宙に浮く。薄緑の空気に包まれた4人は、途端に血色がよくなっていった。ゆっくりと降ろすと、
「エナ、何をしたんだ」
「治療です。これで意識がすぐにでも戻るでしょう。ところでイマリさん、一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「男の子の背中に、どうしても治せない傷があるんです」
「傷?」
「ええ、なんかこう、模様みたいな」
イマリが男の子の「傷」を見る。
「ああ、刺青だ。傷ではない。しかもこの特有の刺青は、川の国の人間だな」
「どうしてそうわかるんです?」
「川の国の文化として、背中に刺青を入れる風習があるんだ」
「でもここは鉄の国ですよ。なぜ川の国の人が…?」
「おそらく難民だろう」
「難民?」
「災害や戦争などで、やむを得ずに住む場所を追われた人たちのことだ。川の国は洪水が頻発し、住む場所を追われている人が多いと聞く。貧しいから、比較的裕福な鉄の方に来るのだろう。」
話をしていると、寝ている男が目を覚ます。
「ここは…」
「鉄だ、鉄の国だ。」
「鉄か。俺は助かったんだな…」
男ははっと、周囲を見渡す。家族全員の存在を確認したようだ。
「よかった…。全員助かっていたのか…」
「あなたがたは、難民なのか?」イマリは確認も含めて訊いてみた。
「ああ、川の国から来た。もうあそこでは生活などやっていけねぇ。故郷なんざ、全て捨ててきた」
「洪水がひどいと聞いているが」
「川の村はどこもそうさ。政府は治水工事なんてしてもくれない。俺たちだけで堤防を作ろうとしたが、今度は人が足りねぇ。結局何もできず、すべて泥に埋もれちまった」
「それは気の毒だな…」
「政府がやるのは、全部鉄が悪いって話だけさ。だが鉄への難民は多くいるんだぜ。学のねえ俺でもこの違和感はわかるぜ」
「そういえば、名前をまだ聞いてなかったな。俺はイマリ」
「コルカタ。向かいに寝てるのが妻のタミル。その横が息子のラグナス、娘のオリッサ。息子は13歳、娘は3歳だ」
すると、ラグナスが目を覚ます。
「うわぁ!」起床と同時に絶叫したため、他の家族も目を覚ます。
「皆落ち着け。この人たちは助けてくれたんだ」コルカタが声をかける。
だが、他の家族はおびえている。タミルはオリッサを抱きかかえている。
ラグナスは、寝具の脇にあった木の棒を持ち、イマリに抵抗する姿勢を見せる。
「ラグナス、やめなさい!」 コルカタが静止するが、ラグナスは反駁する。
「父さん、もう騙されるのはこりごりなんだ。僕は自分の身は自分で守りたい。誰かの助けなど、必要ない!」
ラグナスはイマリに対峙する。その眼には覚悟が見えていた。
「ラグナス、と言ったか」
「ああ」
「外で決着をつけよう。思う存分、棒を振るえ」
コルカタが驚いたようにイマリを見る。
さすがのエナも静止する。
「イマリさん!あなたも落ち着いてください」
「落ち着いている。ああなってしまっている以上、これで決着をつけるしかない。安心しろ、けがはさせない」
心配そうに見つめるエナをよそに、ラグナスとイマリは外に出る。
―――
「かかってこい、坊主」
うおーっ、と声を上げながらラグナスは棒を振るう。その意気に反して、イマリは冷静に手でいなす。
当たってはいるのに、なにか良い感触がない、そんな中で、イマリが棒を素手て止め、諭すように言う。
「お前は何のために棒を振るう」
「何のため?みんなのためだ!私たちは騙されてここに来た。幸せな生活ができるという、甘い言葉に乗ってしまったからだ。もう二度と騙されはしない。自分の力で家族を幸せにするんだ!」
イマリには刺さるものがあった。
「…そうか。では一言だけ伝えておこう」
止めた棒をゆっくり降ろしてイマリがいう。
「右足の踏み込みが甘い。素振りして、訓練を積んでおけ」
そういうと、イマリは宿に戻っていった。
―――
「何が起きているんだ…」
シーアンは頭を抱えていた。なにより、あの家族は先の時間まで疲労しており倒れていたのだ。それが意識を回復し、棒を力強く振れるまでになっていた。
「エナさん。何をしたんですか…?」
「私の医術で治しました」
「どうやって…」
「おっと、そこまでだ」
そうすると、イマリがエナの口を封じる。
「こいつ、独自の医術を持っているんだがな、一家相伝の秘密の技術なんだ」
ドタバタするエナを部屋に連れ込む。
「何するんですか!イマリさん!」
声を抑えながらイマリがいう。
「馬鹿野郎!お前の魔法は外にバレちゃいけないものだ!出る前に言っただろう!気軽に話すんじゃない!」
「…はい」
エナはシュンとした表情で外へと出ていった。
「まったく…常識しらずだ…」
―――
「ここで働く?」
宿主のテグから、コルカタ一家に提案があった。
「そうよ!働き手が欲しいところだったの。仕事がないなら、私があげてあげようと思ってね」
「本当に良いのですか…?」
「私はここの宿主よ。私が良いって言ったら良いの!」
「ありがとうございます!」
「子どもたち、本は読める?」
「はい」
「多少のお手伝いはしてもらうけど、子どもの仕事は勉強!本を読んでいっぱい勉強しなさい!」
「はい!ありがとうございます!」
こうしてコルカタ一家は、テグの宿で働くこととなった。
――――
「もう旅立つのかい?」
テグは寂しそうにエナたちを見つめる。
「私たちは、森の国に行かないといけません」
「世話になりました」
「いいえ、世話になったのは私たちです。」
シーアンが言う。
「エナさん、今度会った時、あなたの『医術』を見せてください。私も医者の端くれ。4人を即座に治した技術は気になるところです。よろしければ…」
エナがぎゅっと手を握って言う。
「また鉄に戻ったときに、お話ししましょうね」
シーアンは少しほほを赤らめる。エナのパーソナルスペースの詰め方に照れている様子だ。
「イマリさん!」
ラグナスも声をかける。
「俺、あんたみたいな強い人になる!」
「おう、俺に言われたこと、覚えているな?」
「右足の踏み込み!」
イマリとラグナスは握手して、宿を去る。
2人の旅路は道半ば。森の国を目指し、北東を目指す。