命を削る日々
「猿元君。ちょっと教えて。」
瞬間、席を立ち、呼びかけに応えながら、二つ隣の係長の席へ向かう。
「予算要求のことだけど、この事業の要求額って積算根拠はなに。」
「昨年度の調査をもとにして、そこに伸び率を乗じて推計しています。」
「去年の予算要求時に、財務省から従前通りの事業内容で需要の伸び率を予測し、昨年度実績に掛けるようなやり方ではなく、予算規模の縮小も視野に、より効率的な事業の実施方法を検討するように内示条件が付いていたと思うけど、対策は考えてる?」
「...すぐ。すぐに、確認します。」
声を出すのがやっとのような小さな声だった。
君は少し線が細いね。入省当時に研修担当の職員からそう言われたことを思い出す。
考えればなんでもないやりとりも緊張のあまり頭が真っ白になり、言葉が出ない。これは子供の頃からの性分で仕方がないと半ば諦めている。
係長に問われた内容、それは当然抑えて置くべきもので、そんなことも指摘されるまで気づかなかったことにいたたまれない思いになる。そのまま席に着くが、気持ちを落ち着けることはできずに、心の悲鳴を押し殺すように震える手を抑え込む。
なんとか気持ちを落ち着けようと、ウォーターボトルの蓋を開け水を流し込む。力が入りすぎている。体が上手く動かずに滴り落ちる水滴がスラックスを湿らす。そんなことを気にする余裕もなくそのままパソコンに向かう。気持ちの整理のため資料を作っているフリをして適当にキーボードを叩くと、今の自分を嘲笑するかのような小気味の良い音が響く。
国家公務員として中央省庁に入省してからもう10年が経つ。当初こそ、社会的な信用や与えられる権力の大きさに気を良くしていたが、激務と言える業務量に周りを見る余裕などなくなり、少しずつ、しかし確実に精神は追い詰められていた。今では毎朝起き上がるのが苦痛になっており、ホームで電車を待っているとこのまま全てを投げ出したくなる。線路に飛び込めば楽になれるかとも考える。学生の頃は自死を選ぶ人間の気持ちなんか全く分からなかった。嫌なら辞めればいいくらいに考えていたが、仕事というものはここまで人間をすり減らすのか。今では毎朝職場にたどり着くことが最初の大きな仕事になっていた。
少し落ち着いたところで、財務省担当者に確認の電話を入れようとして手を止める。頭が整理できていない状態で電話を掛け、結局何が聞きたいのかと嫌味を言われたことを思い出した。付箋紙に要点を書き出し頭を整理する。昨年の資料を引っ張り出して確認した後で、改めて電話のボタンを押す。
コール音を聞いている間に前回のやりとりを思い出し、緊張感が増す。相手が電話を取り、所属と名前を簡潔に告げる。こちらも名乗ろうとするが途中で詰まってしまう。それを気にして声が小さくなる。付箋紙を見ながら要件を告げるが、途中で何度も聞き返されてしまう。それでもなんとか言い切ると担当者は機械のように冷静に言葉を紡ぐ。
「当然ご存知のように、この厳しい財政状況では漫然と昨年度同様の要求をされても通すことはできません。現行の方法が適切なのか。費用対効果の面からもどのような検討を行ったのか。そこはきっちりと整理されてると思いますので、資料とともに提出してください。」
「すでに市場は例年通りの補助額を見込んで動いています。抜本的な改定は混乱を招きます。」
「昨年度予算内示にあたりうちから内示条件が出ているはずです。今になって時間的な猶予がないというのは理屈が合わないと思います。もし従前通りあがってきても、認めるかどうかは先程お伝えしたような点を精査して判断せざるを得ません。しっかりと省内で揉んであげてください。」
「...分かりました。」
分かっている。ここで引いてはいけない。今から根本的な部分を練り上げるのはかなりの時間を要する。他の仕事も抱えている今、自分が苦しくなるだけだ。だが、確認を漏らしていた自分の非を棚にあげることはできず、後に続く言葉は出なかった。その後相手の忙しそうな雰囲気にのまれ電話を切る。
良い案も思い浮かばないため、気分転換に他の集計作業に没頭していると、終電の時間が近づく。明日に回しても解決しない事は分かっているが、そのまま逃げ出すように職場を後にした。
千代田線で30分、そこから徒歩で10分ほどの自宅に着くと帰りを待っていた妻が食事の支度を始めた。リビング横の和室では4歳になる長男が眠っている。しばらくは寝顔にしか会えていない今日も間に合わなかったことに小さくため息をつく。そのまま起こさないように最低限の明かりだけで食事をとり、妻といくつか言葉を交わしてシャワーを浴びる。会話の中身はすでに覚えていない。心の中は仕事への不安でいっぱいだった。
いつからこんな生活を続けているのだろうか。家庭生活に不満はなかったが、大きすぎる業務の負担からか、心が晴れることはない。捌き切れない仕事を抱え、休日出勤も当たり前になっている。
他人事だと思って聞いていた上司の昔話を思い出す。残業続きの中珍しく明るい時間に自宅へ帰ると、起きていた子供が「お母さん。知らないおじちゃんが入って来た。」と言って走って逃げた。今の状況が続くと人ごとではないだろう。