7
「……イル…っ…」
「っぅ…」
遠くで名前を呼ばれた気がして、うっすらと目を開ける。
「カイルっ…」
「……ぁ…マリー…?」
「目が覚めたのね…良かったっ…」
横になった視界と片頬の冷たさに。地面にそのまま転がされているのだと理解した。
胸ポケットから出たマリーがずっと呼んでいてくれたのだと気付いて、さっき起きたことを思い出した。
「っ…ここは?」
「ごめんなさい…あの場所からそう長い時間移動していないってことくらいしか分からなかったわ…」
「いやそれは仕方ないよ…マリー大丈夫…怪我、ない?」
「私は平気…でもカイルが…」
起き上がろうとして後ろ手に縛られていることに気付く。
「ちっ…」
「カイル、無理して起き上がらないで…っ」
ズキズキと痛む頭に舌打ちをしてもがくと、マリーが宥めるように頬に手を伸ばしてくる。
「あんなに強く殴られたのよ、無理に動かしては駄目」
「くそ…」
せめて手のロープだけでも外せないかと躍起になって腕を引いたがそれも叶わなかった。
「あと少しだったのに…もうちょっとでマリーを帰してやれたのに…」
「カイル…」
悔しさと情けなさで唇を噛む。体が自由になれば自分で壁に頭をぶつけているところだ。
油断したのだ自分は。あと少しでマリーを家族の元へ帰せると。最後まで気を抜いてはいけなかったのに。
カイルが転がされているのは薄暗く黴臭い部屋だった。壁の天井近い場所から細長い光が漏れている。耳を凝らすと足音らしき音がたまに聞えるので、もしかしたら地下室のような場所ではないかと推測する。
窓はなく、灯りはその細長い光が漏れている隙間だけ。おそらく換気口なのだろうが、とても人間が通れるような場所ではない。目を凝らすと部屋の先に天井に伸びる階段があった。先にあるのが扉でなく蓋ということがこの場所が地下であるという確信を強くする。
室内には今にも朽ちそうな椅子や棚が散乱している。しばらく使われていないのだろう。人を監禁するのだから使用感に溢れていても恐いが、もし相手の目的が本当にマリーだったとしたら、ここに連れてこられていたのがマリー一人だったらと考えるとゾッとする。
「………」
「マリー?」
「っ…あ…何?」
「…俺が寝てる間にあいつらが何か言ってた?」
「………」
「マリー」
さっきから思いつめたような顔をしているマリーを怯えさせないよう静かに名前を呼べば、目を伏せて涙を浮かべて「巻き込んでごめんなさい」とか細い声で言った。
「ごめんなさいカイル…私のせいで…私が巻き込んだからっ…!」
「マリーのせいじゃない」
「ううん、私のせいよ…っ…だってあいつらローズマリーの居場所を吐かせろって言ってたもの…!!」
「そう、か…」
やはり予想していた通り襲撃者の目的はマリーだったらしい。マリーを血眼になって探していたのは公爵家だけじゃない。おそらくマリーの兄がカイルに接触したことをどこかで知ったのかもしれなかった。
「ごめんなさい…謝って済むことじゃないけれど…もしかしたらお兄様のせいで…」
「まぁ…そうかもしれないけど…しょうがないだろこの場合…」
「カイル…」
「何とかするさ」
安心させるように「とりあえず抜け出す方法を考えよう」と言えば、恐ろしいだろうに気丈にも頷いてくれたマリーに一先ず安堵する。
「マリー、ロープ見てくれ……解けそう?」
「………私の力じゃ駄目みたい」
自分からは見えない縛られた手を確認してもらって、やはり縄を解くのは難しそうだという結論にたどり着く
「…あいつらはマリーの居場所を吐かせろって言ったのか?」
「えぇ…そう言っていたと思う…」
「俺が起きる前、服とか持ち物を改めたりされてた?」
「いいえ…連れてこられた後そのままここに転がされていたと思うわ」
「鞄は?」
「多分襲われた時にそのまま路上に置いてきたと思う…」
「………もしかしてあいつらはマリーが小さくなってることを知らないのか?」
もしマリーに呪いをかけた犯人が今回の襲撃者と同一であるならば、今のマリーの姿を知っていてもいい筈だ。
それなのにマリーが隠れられそうなポケットや鞄を調べもせず放置するなんておかしい。
「それも、そうね…変だわ……ッ!?」
「!?」
話している途中で天井から足音が響いて息を飲む。
「マリー、ポケットに戻れ」
「っ…でも…私が出て行けばカイルが助かるかも…!!」
「絶対駄目だ、マリーが出て行ったとしてもこんなことをした人間が俺を見逃すわけない」
「そんな…」
「いいから早く…!絶対出てこないで…っ!」
逡巡するマリーを使えない手の代わりに顎で押し込むようにポケットに戻して口を噤む。同時に天井からぼこりと空気の漏れるような音が響いた。
差し込んだ光の筋に舞った埃がきらきらと反射する。急な明かりに細めた視界にぎしぎしと音を立てながら階段を下る人の足が見えた。
「……何だ、起きているじゃないか」
「………」
目線を上に上げれば陰鬱な地下室に似つかわしくない上等の服を着た若い男が、汚いものを見るようにカイルを見下ろしていた。
予想通りの顔が現れたことにカイルは内心呆れる。その顔は学園で遠目に見たカーマインの王子その人だった。
その後ろにはつき従うように黒いフードを被った人間が一人膝をついている。
「ここはどこだ」
「口を慎め」
「ぐがッ!?」
頭を思い切り踏みつけられて地面に顔がぶつかる。口に入った砂利を吐き出して目線だけで相手を睨みつけると、相手は舌打ちをして「靴底が汚れた」と吐き捨てた。
「ローズはどこだ、彼女はどこにいる」
「…ローズって誰だよ…ぐッ…!!」
「言え!!」
「ぁ…ぅっぅ…!」
再度頭を蹴られて背中を踏みつけられ、胸を守るように蹲る。
幸いなのは力があまり強くないのと、明らかに武術を学んでいない者の単純な攻撃だけだったことだ。
「このっ…くそっ…!!」
「っ……っく…」
「貴様が、幼くなったローズをっ、匿っているんだろう!!」
「ぐっ…あ…?あぐっ…!」
ぼかすかと蹴られて耐えていたカイルの耳が不可解な言葉を拾う。
聞き間違いでなければ、幼くなったローズと。
「幼く…?」
「そうだ、小さくなったローズを貴様が連れ去ったんだろう!!」
「ぐうぅっ…!」
横向けた顔を靴底で踏みにじられながらカイルは考える。
幼くなった、小さくなった。もしかして相手は「小さくなった」を「幼くなった」と勘違いしてるんじゃないか。それならカイルの服や荷物を改めようともしないのも納得できる。
言葉通り小さくなっている状態のマリーの今の姿が知られていないのなら、まだチャンスはあるかもしれない。そう考えたカイルは必死に蹲って暴行に耐える。
「はぁっ…はぁ…っ…おいっお前も見てないで手伝え!!何としてでもローズの居場所を吐かせろ!!」
「しかし殿下…」
「うるさいッ元々お前のせいだろう!!」
フードを被った人物は躊躇していたが、王子の癇癪に嘆息しカイルの前までやってきて「悪く思わないで下さい」と言いながら、後ろ手に縛った腕を曲げてはいけない方向へ力任せに捩じ上げた。
「っい、ああぁ!!」
先程までの王子の殴る蹴るが遊びだったかのように、間接の外れる強い痛みに目の前がチカチカして叫んだ。
「っ…ぐ…ぅ…!!」
「姫をどこにやった?」
「し、知らな…っああああ!?」
「答えろ」
もう片方の腕も捻られ一気に脂汗が噴き出す。意識を飛ばしたほうがマシなくらいの痛みが襲ったが必死に唇を噛んで意識を保つ。意識を失くしたらマリーを守れない。それだけは駄目だと。
黒マントはそういう仕事の人間なのかもしれなかった。的確に急所を狙い痛みを与えてくる手馴れた様子に、このままでは本気で危ないと必死にカイルは考える。
「っ…おいっこれ以上痛い目に合わされたくなければローズの場所を言え!!」
自分では大したこともできないくせにキャンキャンと吼える王子に、痛む頭をフル回転させカイルは口を開く。
「ローズなんて知らねーよ…俺が知ってるのはマリーだけだ」
「ま、マリーだと…貴様やはりローズの居場所を知っているのか!?」
「マリーの居場所を知っててもお前なんかに言うか」
「馴れ馴れしく私のローズを呼ぶなッ!!」
「ふっ…親しい人間はマリーって呼ぶんだぜ?知らなかったのか?」
挑発する目的でわざと煽るような言い方をしたが、少しだけカイルの本心も込めて。
実際マリーって呼んで良いって、俺は言われたし。
「あんた嫌われてるみたいだしな」と瞼は捲れなかったが舌を出してやれば、激昂した王子は、黒マントを押しのけて再びカイルをやたらめったに蹴りつけた。
「どけっ俺が直々に打ち据えてやる!!このっ!!くそ!!」
「っ…ぐっ!!」
痛いことには変わりないが、やはり黒マントと違って攻撃が軽くて大したダメージではないことに安堵する。
上手く挑発できたことに安堵しつつ、呻き声を漏らして嵐が収まるのをひたすら蹲って耐えた。
やがて体力が切れたのか満足したのか、相手は息を切らしながら最後にカイルを踏みつけた。
「っはぁ…はぁ…もういい、こいつを始末しておけ!」
「しかし、姫の居場所は…」
「男爵子息風情が匿える場所など高が知れている。口を割らないのなら時間の無駄だ!こいつの家や関係先を探せ」
「……わかりました。この屋敷ごと燃やしてしまってよろしいですか?」
「構わない。どうせもう戻ることもないだろう」
肩を怒らせながら階段を昇っていく王子を一瞥して、黒マントの男は蹲るカイルの腕を掴み柱の側まで引き摺っていき、そしてそのままカイルを柱に更に縛り付けた。
「…く…っ…」
「………」
一瞬憐れむような空気を漏らした相手は、それでも何も言わないまま既に姿の見えなくなった王子の後を追うように階段を上がっていった。扉が閉められ暗闇が戻った地下にがちゃりと硬質な鍵の音が響く。
「っぅ…う…」
柱を背にするように縛り付けられたカイルはもがいたがその拘束が緩むことはなかった。
屋敷ごと燃やすと言っていた。地下まで火が回るのには時間はあるだろうが悠長にしていられるほどの余裕があるとは思えない。何とか抜け出さなくてはと焦るカイルは痛む体に呻き声を漏らす。口の中は血の味がするし、殴られた顔は片目が開けにくいほど腫れてきていた。外された関節は痛すぎて正直泣きたいくらいだ。
それでも泣くのを我慢できたのは胸元から聞える小さな嗚咽のせいだった。
「っ…く…ッ…」
「…マリー?」
「ふぅうっ…」
名前を呼んだ声に決壊したように泣き声を上げたマリーがポケットから這い出てくる。
「ばか…!!カイルの、っうぅ…ばかぁっ…!!」
「…うん…ごめん、恐かったよな…」
自分に執着していた相手の恐ろしい本性を目の前で見せられて、恐怖しない方がおかしい。
泣きじゃくるマリーを慰めたくて謝れば「当たり前よ!!」と小さな拳でとつとつと胸を叩かれる。
カイルが兄に絞め落とされそうになっていた時も、危険なことをしたカイルを怒ってはいたが、涙を見せることはしなかった相手が外聞もなく泣いている姿にカイルは狼狽える。
「何であんなっ…挑発するようなこと、うぇ…わざと…ひっく…言ったのッ…!?」
「それは…王子の方が弱そうだったから…作戦だって…」
実際ただのマウントになってしまっただけの気がしないでもないが、そんなことを言ったら更に怒られそうだったので苦笑して口を噤んだ
「っうっ…うぅ…っく…ばか…」
「うん…馬鹿でいいから…泣き止んでよ…」
本当に大馬鹿だと思う。
守れるだけの力もなく、ただ不安にさせて泣かせるだけで。満足に慰めることもできやしない。
「……マリー、反対の胸ポケットに笛が入ってるんだ…取れる?」
「…笛…?」
ぐすぐすと顔をくしゃくしゃにしてしゃくりをあげていたマリーはきょとんとした顔でカイルを見上げる。
「………」
ポケットから這いずりだしたマリーは、カイルの服の胸元を掴みながら、そろそろと反対のポケットに移動する。
「っ…う…この棒みたいなの…?」
「そう……俺の口に銜えさせて…」
口を半分開けて顔を胸元に下げ、マリーが両手で持ち上げた笛を唇に挟んで銜える。顔を上げてそれをそのまま吹いた。
「………音がしないわ」
「まぁ…これは駄目元みたいなもんだから…」
カイルの口から落ちた空気の漏れる音しか立てなかった笛を怪訝な顔で眺めてくるマリーにカイルは苦笑する。最悪の最悪を想定しての手段だった。だから本気で使うことになるとは思わなかったし、予想もしていなかった今の状況では賭けみたいなものだった。それでもやらないよりはマシだ。
「マリー、あそこに明かりの漏れてる隙間があるだろ?」
「え…えぇ…」
「途中までそこの棚を足がかりにして昇って、置いてある物の上を移動しながらあの隙間から外へ出るんだ」
「あんたなら、あの隙間を抜けられるだろ」と言えば、マリーは驚愕したように目を開いた。
「カイルは?」
「あー……後から行くよ」
「嘘…嘘つき!縛られて動けないのにどうやって後から来るっていうの!?」
「マリー…」
カイルを睨みつけて怒るマリーにカイルは困る。
「マリー、行くんだ」
「嫌よ!!だってあいつら屋敷を燃やすって言ってた!!そんなことしたらカイルがっ…!!」
「だからだよ。マリーが行かなきゃ共倒れになるだけだ」
「っ…」
卑怯な言い方だと思ったが、半分は事実だった。
「諦めた訳じゃない。…俺を助けようと机から飛び降りようとするようなマリーだから言うんだ」
貴族のご令嬢なんてマリー以外に知らないけれど、きっと今自分がやれと言っていることは彼女達にとっては酷なことだろうと思う。けれどマリーと過ごす中で彼女を見ていたから言える。
「あんただけでも外に出て、可能なら助けを呼んでほしい」
「ッ…だって、私が外に出たってこの足じゃ…」
やっと泣き止んだと思ったのに、再びぽろぽろと泣き出した相手にカイルは安心させるよう笑って「ボロボロになっても何とか生きて待ってるから、頼むよ」と小さなマリーの頭に額を合わせた。
実際にはそんな長い時間が経った訳ではなかったと思うが、目を閉じたまま懇願したカイルの耳は聞き慣れた鳴声を拾う。
「……はぁ…今日ほどアイツに感謝したことはないな…」
「カイル…?」
「シルーズ!!」
「!」
カイルの上げた大声にマリーは驚く。そして近付いてくる鳴声にはっとしてカイルを見る。
「もしかしてさっきの…犬笛?」
「当たり」
どうやら神はカイルに味方したらしい。元々シルーズを連れていたのはこの間みたいなことになった時の対策としてだったから。まさかいきなり殴られて連れ去られるとは思わなかったが、マリーにあれだけ懐いていたシルーズならばカイル達の後を追ってくるかもしれないと期待していた。だから駄目元でも犬笛を吹いた。思った以上に優秀だった我が家の番犬にカイルは心の底から安堵して大きく息を吐いた。
「カイル…」
「マリー、行け」
「っ」
「行って!」
カイルの声に背を押されるように、意を決したマリーはカイルの上から降り始める。
「っ…約束よ、カイル、私が戻ってくるまで絶対死なないで…!!」
ぴょんと床に飛び降りたマリーは小さな足で走って壁際の棚にたどり着いた。危なっかしい足取りで、それでも懸命に確実に天井へ向けて登っていくマリーにカイルは「がんばれ」と声をかけながら、頭上から聞えてくる火が爆ぜる音に震えそうになる声を奮い立たせる。
今ここで自分が弱音を吐けばマリーは戻ってきてしまう。それだけは出来なかった。
「頑張れ…もう少しだ…!!」
離れた場所にいるマリーの声は聞こえない。それでもカイルの声がまだ届くのなら最後まで。
「っあと少し……よしっ…!!」
マリーの手が天井の隙間にかかり、小さな体をその間に潜り込ませる。その姿が見えなくなって、漸くカイルは張り詰めていた気持ちを解いた。
「………」
正直意識を保っていられたのも限界だった。
最初に殴られた頭は痛いし、外れた腕は感覚がなくなるほどだし、目は開かないし。言葉通り踏んだり蹴ったりで。
「はは…」
美人に同情して安請け合いした結果がこれだ。けれど思った以上の厄介ごとだったというのに、口から漏れるのは安堵の笑みだった。
こんなことがなければ、自分はマリーに会うこともなかったのだろう。
身の丈にあった人生を歩んでいられればいいと思っていたのに。
「…全く…今際の際まで…好きとか……」
分不相応にもお姫様に焦がれた黄金虫は、想いを伝えることもできないまま火に焼かれて死ぬ。
それなのに本望だと思っている。
頭上の地下室の入り口の隙間からは煙が下に流れ込んできていた。
それをぼんやり見ながらカイルは目を閉じる。
あのままマリーが走っても、助けが間に合うとは思っていない。恐らく助からない方の確率の方が大きいだろう。
両親よりも先立つことになるとは思っていなかったが、それでも仕方ないと思う自分は二重の意味で親不孝者かもしれない。
『約束よ、カイル、私が戻ってくるまで絶対死なないで…!!』
そんな風に考えるカイルを叱るようにマリーの言葉が頭に浮かぶ。
「………」
約束は守れないかもしれない。
ぼんやりした頭でなるべく煙を吸わないよう顔を肩口に押し付ける。
大した効果はないかもしれないが、何もしないよりいいだろう。
だって、もしここで死ぬことになったら、カイルが足掻かなかったら。生き延びることを諦めたと知ってしまったら、マリーは、きっと悲しむ。
最後まで本当に恰好付けだなと思う。
まだ火はここまで届いていないが、大きくなる爆ぜる音が着実に近付いている。
どのくらいの間そうして耐えていたのかは分からない。
皮膚を掻き毟りたくなるような熱気と黒い煙に意識を失う寸前、地下室の扉が上から崩れ落ちてくるのが見えた。
「おい…!!しっかりしろ!!」
どこかで聞いた様な声が聞えた気がしたが、半生半死の状態だったカイルはそのまま意識を飛ばした。