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鼻を押さえ、目を瞑って、丁重に布で包んで、上着のポケットに入れたマリーを意識しないよう、必死に深呼吸をしながらカイルが自宅へと帰りついた翌日。
すぐにも王都中が公爵家の令嬢の失踪事件で騒然となると思っていたカイルは、王城の静けさに事がまだ表在化していないことを知った。
しかし表ざたになっていないだけで、マリーの失踪は既に貴族の間に噂として広まりつつあった。
王家主催の夜会の最中に突如として姿を眩ませてしまった彼女を、彼女の家族をはじめ、王家も必死になって捜索しているらしかった。どれだけ必死かは翌日のうちにバンカー家の邸にも騎士が事情聴取をしにきたことからも分かる。あの夜会に参加していた者全員の家をまわっているのだそうだ。噂の出所はこうした騎士の訪問を受けた貴族達からだろう。
両手が塞がっていたため肘を使って自室の扉を押し開けて入る。
足元を飼い犬のシルーズが着いて入りたそうにうろうろしていたが、今は入れるわけにもいかないので、言葉で制しながら入室して素早く背中で扉を閉めた。
「お帰りなさいカイル」
テーブルの上に置いたクッションの影から顔を出したマリーが言う。
「さっき、あんたを捜しに騎士が来てたよ」
「なんてお答えに?」
「途中で帰ったから分からないって言った」
「それで納得したのですか?」
「…俺みたいな成り上がり貴族を公爵家のご令嬢が相手をするわけないじゃないですか、どんな伝を辿っても接点すら見つけられませんよって言ったら、あぁ、みたいな顔をして帰ったよ」
「まぁ…職務怠慢ですのね…」
「突っ込まれて疑われても困るけど……ほら、これ」
捜索の騎士達の詰めの甘さに苦言を零そうとしていたマリーに、抱えていた大きめの箱をそっとテーブルに下ろして蓋を開ける。
「まぁ…ドールハウス…?」
「あぁ、商会で取り扱ってる子供向けの商品なんだ」
子供と言っても貴族や裕福な商人向けではあるが。昨日その存在を思いついて、マリーの一時の宿にいいのではないかと思い取り寄せを頼んでおいたのだ。頼んだときは怪訝な顔をされたが、妹の誕生日が近いからと言えばそれならばと張り切ってすぐに調達してきてくれたらしい。うちの使用人は皆仕事が早くて助かる。
「すごい…細かいところまでちゃんと作ってあるのね…とっても綺麗」
「まぁほぼ貴族向けだからね…それよりも、俺は…その、手伝えないから…着替えとか、入浴とか…これで自分でやってもらうことになるけど…大丈夫?」
間近で物珍しそうに眺めているマリーとドールハウスを見比べて、サイズは大丈夫だとは思うも、公爵家のお嬢様ならば何人もの侍女がついて世話されるのが当たり前のことだし、果たしてマリーが自力でそれが出来るのだろうかという不安もあった。
「もちろん、そこまでカイルの手を煩わせるわけにはいきませんもの!また鼻血を出されては困りますし」
「………そうだな」
意外にも胸を張って自信満々に答えた相手に驚きつつも、実際に手伝ってといわれたらまた無様に醜態を晒す危険性がある以上、マリーの返答は此方としても良かったと思う。
「…中に人形用だけど服もあるから見ていいよ」
「本当に?」
「っ」
ぱっと嬉しそうに顔を綻ばせたマリーから慌てて目を逸らす。あまり意識しないようにしていたが、今のマリーはまだハンカチをぐるぐると身体に巻きつけた状態のままだったのだから。
嬉しそうにドールハウスの中に入っていき、クローゼットを開けたマリーの楽しそうな声に横を向いたまま頬を掻く。うっかり着替える姿を想像しかけてそのまま自分の頬を抓って頭を振った。
「カイル、見て、どうかしら?」
「………似合わないな」
マリーが着てきたのは淡い緑色のワンピースだ。ある程度精巧に作られているとはいえ、所詮玩具でしかない服はマリーが着ると不釣合いに見える。
「そ、そんなに似合わないの…?」
きっと今まで服が似合わないなどと言われた事などないのだろう。予想外の反応に驚愕したマリーはがっくりと肩を落とす。
「あ、違う…その、なんて言うか…マリーが着ると服が霞むなって」
「え?」
「見劣りするってこういう事なんだな…やっぱりあの夜会で着てたようなドレスじゃないと美しいマリーと釣り合わないんだ」
「うつく……」
「だから似合わない。こんなに服が似合わないなんてことあるのか…はじめて知った」
「………デリカシーはないけれど、貴方が私を褒めていることはかろうじて分かったわ。本当に、デリカシーはないけれど」
青くなって、赤くなって、最後には理解できないものに直面したかのように眉を寄せて考え込んだマリーは呆れたようにそう言った。
自分としては褒めたつもりだっただけに、何故呆れられるのか分からないまま腕組みしたマリーと視線を合わせる。
「似合わない服で悪いけど…暫くはこれで過ごしてもらうしかないな…」
「何度も何度も似合わないって言わないで。私は気に入ったわ。動きやすくていいもの。それに言うほど作りだって悪くないわ」
「ならいいけど…」
てっきりこんな服着られないと怒られるかと思ったが、意外にもマリーは気に入ってくれたらしい。スカートの裾をくるりと翻して回る姿は羽があったら本物の妖精みたいだ。
「あぁそれと…今更かと思われるかもしれないけれど…カイルに婚約者はいないの?」
「いないよ。こんな成金男爵家にすすんで嫁入りしてくれるような物好きはいない」
「そんなことはないと思うけど……でも良かったわ。失念していたけれど、もし貴方に婚約者がいたなら私のしたことは褒められたことじゃないから」
確かに婚約者がいたとしたら他の女性を傍に置くというのは憚られるのかもしれないが、今のカイルには関係のないことだ。
「もし俺なんかに嫁いでくるとしたら、金目当てか政略で嫌々嫁いでくるような奴だろうな」
「卑屈すぎる…」とマリーは呆れたが、事実昨日の夜会での反応が現状の我が家に対する貴族達の評価である。
「俺なんか、じゃないわ。今私がこうしていられるのは間違いなくカイルがあの時助けてくれたからよ?それにバンカー男爵家が生み出しだ財はこの国の経済の一端を担っているのは事実なんだから卑下するようなことじゃない」
「そうかな…」
「そうよ原因があるとしたら、当人のデリカシーのなさじゃないかしら?」
「デリカシー…ないかな…?」
慰めかと思えば貶され、首を傾げれば「だって私服が似合わないなんて初めて言われましたのよ」と拗ねたように返された。やっぱり予想通りはじめてだったらしい。
お互い口を尖らせて見合っていると可笑しくなって、同時に噴出した。
「私達案外気が合うかもしれないわ」
「それは分かんないけど…思ったよりも冗談が通じそうでホッとしてる」
「それは何よりね」
一頻り笑った後、マリーはドールハウスの中の椅子を持ち出してカイルの前に座る。
「少し真面目な話をしても良いかしら?」
「どうぞ」
小さなマリーに薦められて揺らさないよう自分も椅子に座る。カイルが座ってもまだ視線の高さは合わない。ドールハウスの前に座るマリーは造形の美しいお姫様の人形のようだ。
「これからのことと…あとバンカー家へのお礼についても相談したいの」
「そうだな」
「私がこうしてここにいることは知られていないのですね?」
「あぁ、マリーの失踪は噂にはなってるけど、まだ発表されたわけじゃない」
「そう…お父様やお兄様達はどうしているかわかる?」
「直接は会っていないが、公爵様はもちろん…多分王家もあんたを必死に探してる」
王城に品物を納める人間からは城の雰囲気がどこか重苦しく、使用人達もその空気に理由は分からずとも粛々と働いている印象を受けたと報告があった。商業組合の方にも昨日マリーが身につけていた宝飾品等が売りに出されていないか内密で照会があったと言うし。公爵家と王家が血眼になってマリーを探しているのだと窺えた。
「そう…」
神妙な顔をして黙り込むマリーにカイルも腕を組む。
「なぁ、やっぱり家族にだけでも知らせるわけにはいかないか?」
「それは…」
昨日知り合ったばかりだが、マリーの様子を見ていたら分かる。このお姫様が家族にいかに大事にされてきたのかが。
見目麗しく頭の回転も早い。素直でよく笑う。この状況でも狼狽えない胆力は大したものだと思う。
公爵夫妻にとっては慈しんできた自慢の娘だろうし、マリーの話によれば妹を溺愛する兄が三人もいるらしいし、更に国王陛下にとっては姪。当然ながら三人いる王子の従姉妹になる。本当ならばカイルなんかがこうして対面することもできないほど高嶺すぎる花。
そんな沢山の人に守られてきた公爵家の宝花が突如行方不明となれば、直接会わずとも彼等の心痛は計り知れる。
「…昨日、心当たりがあると言ったのは身内の誰かか?」
「いいえ」
家族に知られたくないと望むのは、もしかしてそういう理由かと思って尋ねたが、すぐに否定された。
「私が疑っているのは別の方です。それに私は家族を信じています」
「悪い、あんたの家族を疑ったりして…」
バツが悪くなってカイルが目を逸らすと、クスクスと小さな笑い声と「別に怒ったりしないわ」と宥めるような声が聞えた。
「カイルがそう思うのも当然だわ。私の説明が拙かったわね。昨日も言った通り、私のお兄様たちは普段は素晴らしく優秀だけど、私の事が絡むと途端に面倒くさい馬鹿になってしまうから」
「馬鹿…」
彼女を溺愛している兄達が聞いたら卒倒しそうな単語である。
「勿論、相手に私が生きていることを知られないようにというのが一番だけど…多分お兄様たちが私の現状を知ったら、証拠もないうちに犯人を処してしまいかねないと思って」
「それは…流石に飛躍しすぎじゃないか?お兄さん達は地位も立場もあるんだし…分別のある大人として私刑に手を染めたりまではしないんじゃないか?」
「ジェラルドお兄様は外交官として国内のみならず他国の王族とも親交が深いわ、印象操作や情報操作はお手の物よ。ユルゲンお兄様は魔術師団の副師団長をされているわ、得意魔法は影魔法。闇に乗じて敵を仕留める適任よ。エメットお兄様は第三騎士団の隊長でゴリラよ。握手したら最後、骨まで粉々にされてしまうわ。それに、元々私を含めて家族全員その犯人に対していい感情は持っていないでしょうし」
「………」
何だそれはと思ったが、次男が闇夜に乗じて犯人を討ち、三男がその証拠を滅し、長男が情報を操作しなかったことにするという一連の流れを想像できてしまいカイルはちょっと頭が痛くなった。
「私、犯人は許せませんけど、お兄様たちに手を汚してほしくないの。だから私が姿を隠すことで相手がボロを出してくれたらいいなと…」
「…あんたの兄さん達にそこまで怨まれているその容疑者とやらは一体誰なんだ?」
何とか声を絞り出したカイルにマリーは一息ついて「カーマインの第三王子殿下ですわ」と重ねて溜め息を吐いた。
「何だって!?」
カイルが想像していたよりも大物の登場に思わず身を乗り出す。
「去年我が国に留学していらっしゃった頃から何度も非公式に婚姻の申し込みをされていたのだけれど、何度お断りしても諦めてくれず、学園でも執拗に付きまとわれて…何かされたという訳ではありませんが、何を言うわけでもなく物陰からただひたすらじっと見つめてくるのよ?どこに移動しても何故かいるし普通に気持ち悪いわ」
「うわぁ…」
カーマインの第三王子ニールといえばマリーと同じ年で、確かに去年まで学園へ留学してきていた覚えがある。ただカイルがいるのは商業科で、マリー達のような高位貴族が多い淑女科などとは建物が離れているためほとんど会うこともないし、余程大きな騒ぎになっていなければ噂も流れてこないことの方が多い。
マリーの話が本当なら尚更噂など流れてこないだろう。仮にも一国の王子が他国の令嬢にストーカー行為とかスキャンダルでしかない。学園側も率先して揉み消した筈だ。
だからマリーは執着されて誘拐されるか、逆恨みされて殺されるかを危惧した訳かと納得する。
そういえば遠目に一度見たことがあった気がしたが、その時も猫背で陰鬱そうな表情をして遠くを見つめていたが、まさかまさしくあの時マリーが被害に合っていたのだろうかとゾッと背筋が寒くなった。
「…やめてくれと言っても聞き入れてくれないし、話しかけて直接理由を聞いても答えないし、王家を通じてカーマイン側に抗議をしても、若いもの同士仲の良い証拠だなどとまともに取り合ってくれないし…それにそもそも私あの方と殆ど話したこともないのよ?精々が挨拶したくらいで…だから私も、私の家族も、あの方のことが嫌いなのよ」
「政略的な背景も特にないし、何故私にそこまで執着するのか本当に謎だわ」と憂鬱そうに語ったマリーにカイルは心底同情する。
「美人だからだろ」
「え?」
「あんたが綺麗だから、挨拶されただけなのに勘違いする輩がきっと一定数いるんだ」
「…えっと?」
マリーほどの美貌であれば、一目その姿を見ただけで相手が心を奪われてもおかしくない。中にはその第三王子のように勝手に勘違いして愚行に走る人間もいるに違いないとカイルは一人納得する。同時にそこに居るだけなのに周囲の人間を虜にし、はた迷惑な好意を向けられるマリーが哀れだと思った。
「いっそのこと眼鏡でもしてみたらどうだ?太目の暗い色のフレームの眼鏡なら多少不細工に見え……いや、駄目だな。知的な印象が追加されて却って良くないか」
「ぶさ……」
絶句したマリーが言葉を逡巡するように、はくはくと口を開け閉めしてから拗ねたように言う。
「私、美しくあれと言われたことはあっても、不細工になれだなんて初めて言われたのだけれど…」
「やっぱり眼鏡は駄目だマリー、逆に美人だ」
「どうもありがとう!」
今度こそ怒ったように顔を赤くしてそっぽを向いたマリーに「どうした?」と聞けば顔を戻して「もういいから!!」と睨まれた。
「カイルの言葉は褒められているのか貶されているのか分からないわ!」
「ごめん…褒めてるつもりだったんだけど…」
思ったことを素直に口にしてしまうのはカイルの癖だ。心の内を全てさらけ出す訳ではないが、素直な言葉というのは相手の心に響くし、それが貴重な縁を結んでくれることも多い。特に直そうとも思っていなかったが、高位貴族のマリーにここまで不評だと考え直した方がいいのかもしれない。
カイルが頭の中で反省していると、ぷくりと子供っぽく頬を膨らませたマリーが椅子から立ち上がる。
「カイルこそ、年頃の令嬢にそんなこと言ってると勘違いされるわよ!」
「?マリーにしか言ったことないけど…」
事実カイルがこれまで会った中ではマリーほどの美しい少女はいなかった。それにカイルが本気で口説くつもりでそう言ったところで「流石成金、おべっかがお上手ね」くらいの感想しか抱かれないだろうし。
「な……」
「あぁそうだ、うちへの謝礼はマリーにうちの商品の広告塔になってもらうとかどうかな?アン・フィル・ルージュって知ってるか?あれ実はうちが経営してて」
「何ですって!?」
カイルの言葉に今度はマリーが身を乗り出した。
「あの予約の取れない人気のクチュールをバンカー家が!?」
「あ、あぁ…経営してるのが成金のうちじゃ嫌がる人も多いだろうから、出資者として遠縁の伯爵家の名義を借りてるけど…そこのドレスをマリーに着てもらうってのはどうだろう?」
「え…本当に…?」
「え、あぁ…嫌じゃなければだけど。あそこは若手のデザイナーが中心だし、客層も若い世代が多いからマリーが着てくれたらいい宣伝になると思ったんだけど」
「嫌じゃない!嫌じゃないわ!私もルージュのドレスを着てみたかったの!!でもね予約が一杯で諦めてたの…どうしよう…駄目よカイル、これじゃお礼にならないわ」
「だって私ばかりがすごく嬉しいんだもの!」と頬を染めて、バレエでも踊るようにくるりと回ったマリーにカイルも頬を緩める。
「承諾してもらえたなら何よりだ」
「カイル駄目よ、他に欲しいものを言って」
「別にいいよ。予約が一杯で顧客が裁ききれなくなってきたから二号店も考えてたんだ。あんたが着てくれたら話題にならない訳がないし、新店舗のオープンに合わせてもらえれば十分な宣伝になるし」
「でも…」
「勿論そのまま公爵家がお得意様になってくれたら嬉しい。公爵家に出して恥ずかしいくないものを扱ってる自身はあるから。ただ公爵様達の好みもあるだろうけど…」
「好みよ!問題ないわ!」
「それは重畳」
勢い込んで返事をしたマリーにくつくつと笑みを噛み殺したカイルは、可愛いな、とここにきてマリーに対して美しい以外の形容詞を思いついて内心少し動揺する。
命を狙われ、こんな小さな身体になり、初対面の成金男爵の息子に縋るしかなく、身内の犯罪を心配し、下手をしたら国家間の戦争になってもおかしくない重苦しい話をしていたというのに。
まさかドレス一つでこんなに喜ぶなんて。
頬を染め浮かれる姿に先程までの人形めいた美しさはない。話し方だって初めより砕けている。きっとこっちが素なんだろうとも。けれど今の姿の方がずっとずっといいと思う。
「公爵家のお姫様も普通の女の子なんだな」
「…今のは褒めた?」
「…というか貶した覚えはないんだけど」
「…そういうところよカイル」
再び赤い顔で拗ねたように言ったマリーは、落ち着きを取り戻したのか再度椅子に座る。
「話がそれたけれど、私は今回の件の犯人がニール殿下だと疑っています。殿下は昨夜の夜会にもカーマインの大使として出席していたわ。加えてカーマインは多種の民族からなる複合国家。前時代的な呪術が息づいている地域もあると思うの。恐らく私の家族も同様に彼を疑っているでしょう。だからおいそれと家に戻る訳にはいかない。私が戻れば兄達は隠しきれない。私が生きていることが知られれば家族にも危害が及ぶかもしれない」
「それなんだけど…もし本当に第三王子が犯人なら、やっぱりマリーを殺そうとするのはおかしくないか?」
「私を怨んでいるのではなくて?」
「それも考えられるかもしれないけれど…今までずっと付き纏われてたんだろ?そんな粘着質な奴があっさり手を下して終わりにするとは思えなくて」
本気で殺す気ならば、こんな身体を小さくするなんて真似はせずに直接手を下せばいいし、身体だけ縮んでも衣服はその場に残ってしまうのだから、証拠を隠滅するためにすぐに回収できるよう近くに居なければいけないのに、あの場には誰の姿もなかった。
「何だか手口が雑すぎやしないか?」
「そう言われれば…」
マリーが怯えると思って口を噤んだが、恐らく相手の目的はこうして小さくなったマリーを囲うことだったんじゃないかと思う。庇護する振りして恩を売り自分の方を見させるために。はたまた元に戻る方法を盾に脅して婚姻を結ぶつもりだったのか。それとも最悪はそのまま隣国まで攫うつもりだったのか。
「もしかして相手もこんなに大事になるとは思わなかったんじゃないかって思って…」
本当は小さくなったマリーを第三王子が見つけるつもりだったんじゃないかと推測する。
「昨日…庭に出ることを誰にも言わずに来たって言ったよな?何かいつもと変わったことあった?」
「変わったこと……特に……」
「何でもいい」
「……ワインが、いつも城で飲むものと違っていたわ」
「え…気付いたの?」
「え…えぇ、いつもより少し酒気が強い気がして…普段は控え室で休むのだけれど、月が綺麗だったし酔いを覚ますのに丁度良いと…少しの時間だったらいいかと思って一人で外に出たの」
「成程…」
マリーがワインの違いに気付いていたことにも驚いたが、そんな些細な変化がマリーの窮地を救ったのだとしたらとんだ僥倖だ。あのワインを勧めた支店長には特別手当てを出そうとカイルは思った。
「カイル?」
「あんた味覚も優れてるんだな」
「褒め」
「褒めてる」
先回りしてマリーの言葉を肯定する。
「動機なんて本人に聞かなきゃ分かんないけど…あっちがマリーをまだ諦めてないってのは間違いなさそうだな」
「本当に気持ち悪い」
「………」
両腕で自分を抱くようにして肩を震わせたマリーが気の毒になって、カイルは「甘いもの好き?」と聞く。
「えぇ、好きよ」
「ちょっと待ってて」
言い残して部屋を出たカイルは厨房へ行き、菓子とお茶を持って部屋に引き返してきた。
「喉かわいただろ?ドールハウスのキッチンに食器があるから出して」
「え、えぇ…」
いそいそと小さなカップとポットを出してきたマリーからそれを受け取り、小さな器に汲んできた水でそれを濯いだ。手早く布巾で拭いて、そのポットの中に自分のカップからスプーンで一匙紅茶を移した。
「カップには自分で注いで」
「わかったわ」
マリーの手に収まるほどの小さなカップには、スプーンを使ったとしてもカイルが直接注ぐことは難しい。マリーが注いでいる間に、小皿に小ぶりのクッキーを乗せて取り分ける。
「どうぞ」
「こんなに顔よりも大きいクッキー食べきれないわ」
「残してもいいよ」
「もったいない」
「その時はシルーズが食べるさ」
「シルーズ?」
「うちの犬」
「まぁ、犬にお菓子は毒じゃないの」
「これはうちの料理長手製の野菜クッキーだから大丈夫、勿論人も食べられる」
「あいつが欲しがるからうちの菓子はみんな人犬兼用なんだ」と毒見と言わんばかりに目の前で一枚口に放り込んで咀嚼すると、おずおずと大きなクッキーを持ち上げて口に運んだマリーは意外そうに「おいしいわ」と呟く。
「私…犬用のクッキーを食べたのははじめてよ」
「だろうね」
「どうしよう…お母様に叱られないかしら…」
「…謝礼の中に俺がマリーに犬用クッキーを食べさせたことを言わないでってのも付け加えようかな。あんたの兄さん達に殺されそうだ」
「ふふっ…あははっ…ここにきてからはじめてのことばっかり…ふふふっ」
椅子から転げ落ちそうにお腹を抱えて笑うマリーに、カイルは安堵と同時に胸にちりつく感覚を覚えていた。
勘違いしてはいけない。
マリーと自分とでは住む世界が違うのだから。