入れ替わった心
あれから数日、汀の要求に完璧に答えていた葵に変化があった。
「ん?七瀬、そこは計算が少し違うな。」
「え⁉ そんなはずは…ほんとだ、すみません。」
ここのところ積極的に挙手をして発言していた葵、その姿勢は変わらないのだが、答えを間違えるようになった。ちょっとしたケアレスミスも多い。
「ちょっと、七瀬君聞いてる?」
「あ、ごめん。もう一回だけお願い。」
休み時間も心ここに在らずといった様子で、汀の言葉すらきちんと聞いていられないようだった。
葵は明らかに疲労していた。体力、気力の限界がきているのだろう。何本も栄養ドリンクを飲み、必死にしがみつこうとしている。
誰が見ても葵が無理をしているのは明らかだ。
それなのに、
今では誰も葵にふれようとしなかった。
汀と付き合い始めた日は、クラスメイトたちから注目されて、たくさんの人が話しかけていたというのに、今では誰も葵と話そうとはしない。
みんなが葵の様子に気がついていないわけじゃない。
みんな汀を怖がっているのだ。
ここ数日の汀はいつもの様子とは違っていた。いつもは人前ではそれほどはしゃがないが、最近は葵と一緒にいるときは機嫌がよくテンションが高い、だが他人が葵に話しかけようとするとあからさまに睨みつける。
まるで自分の所有物を勝手に使うなと言わんばかりの視線にクラスメイトたちは怯んで汀のご機嫌取りをするだけだった。
今日は葵の出来が悪いからか、あからさまに機嫌が悪い。いつもは周りに集まって来る取り巻き達も今日ばかりはいつものように近寄っていけないようだ。
そんな汀に睨まれたらクラスメイトたちは葵の事なんて見て見ぬふりをするしかない。
結局、その日の葵はボロボロのままだった。
私はそんな葵を見ていた。
ただ、見ているだけ、
また私の罪は増えていく。
次の日から葵はまた完璧に日常をこなしていた。
汀からまたダメ出しをされたのだろう。別にゆっくりと休んだわけでもないし、元気になったわけでもない。律儀に改善に取り組むその姿からは、ほとんど生気を感じない。
力ない笑顔で汀と話し、それ以外は表情の変化もない。汀以外の人とは話をしようともせず、一人の時はずっと勉強している。
そんな葵と二人で話している汀は笑顔だ。
その笑顔は本当に嬉しそうだ。多分、これまで彼女のあんな笑顔を引き出した人はいないだろう。
汀だってわかっているはずだ。葵がもう限界を超えていることに、それでも自分のために、こんなになりながらも必死でやり遂げようとする葵を見ている。
それが彼女を満足させているのだろう。
いい傾向だった。
汀はまだ気が付いていないけれど、確実に葵の存在は汀の心を壊している。
今まで他人を物扱いして、深くかかわろうとしなかった彼女の心に葵の存在は大きなものとして存在している。
汀にとって初めての存在だ。人との関わり方を知らない彼女に葵はもう唯一の存在になってきている。
そろそろ頃合いだろう。
汀から聞いていた、お試し期間の最終日前日の放課後、私は汀をカフェに呼び出した。
「それでさ、もう常に私のことを考えて行動してくれてるみたいで、私なしじゃいられない、みたいな。」
「……。」
「どれだけ私のこと好きなのって思うほどなんだけど…」
「…。」
「涼、聞いてる?」
「聞いてるよ。汀もずいぶん葵が気に入ったみたいだね。」
カフェに来た汀は今までにないくらい機嫌が良く、話すことは葵の事ばかりだった。
葵がいかに自分の事を好きなのか、葵は自分のためならどんなことでもしてくれる。
ずっとそんな話ばかりする汀は、もう葵がいなくてはならない、そんなところまで来ているように思えた。
「え⁉︎ いやいや、七瀬君が私のこと好きすぎて困るって話‼︎ もう、ちゃんと聞いててよね。」
「はいはい、ねぇ汀…」
「何、涼?」
「葵は幸せそう?」
「え、それは、幸せなんじゃないかな。」
だって、大好きな私と付き合えてるんだから
そう思っている汀の心が私には見えた。
「そう…」
その日は汀の葵自慢をしばらく聞いてから帰った。
帰り道、私は自販機で葵の好きなココアを買い、近くの公園のベンチに座った。
暗くなった外は寒いが、ココアを握る手だけがあったかい。
葵に触れることができたら、こんなふうに暖かいのだろうか、肌寒い外でも二人で寄り添っていればきっと暖かいに違いない。そんな夢を見ながら私は現実のことを考える。
葵と汀
今の二人は付き合い始めた頃から心が入れ替わったようだ。
自分の心が変わっていることに気が付かない汀と、自分の心が変わっていることを認めたくない葵。
ようやく準備が整った。明日だ。
ここまで来たら後は私が誘導するだけで、出来上がる。
手の中のココアは段々と冷たくなってきていた。