我慢
翌日から、すでに葵はいつもとは違っていた。
周りの話を聞くと、朝早くから学校に来て勉強していたそうだ。授業中もこれまで挙手をすることなんて滅多になかったのに進んで手を挙げて積極的に参加していたし、休み時間になると自分から汀の元に話しかけに行くという、引っ込み思案の葵からは考えられない行動ばかりしていた。さらに昼休みになった途端に教室を出ていく葵、探してみると、汀のためだろう。学食の席を取りをしていた。
教室は人気者の汀が付き合い始めた話題で持ちきりだ。
自然といつもは目立たない葵にも注目は集まる。いつもならあまり話さないような人たちも葵に話しかけに行く、「付き合うと変わるね」「頑張れ~七瀬君!」と口々に呑気な言葉をかけてくるクラスメイトたちに、葵は最小限の返答をするだけで、あまり汀以外の人とは話をしようとしない。
他の人達は葵が自主的に汀のために自分を変えようとしていると思い微笑ましく見ているようだが、実際はきっと違う。葵は汀に試され始めたのだろう。昨日一日の様子について、夜のうちにでもダメ出しか、何か言われたはずだ。葵のことだ、律儀に一つ一つ直そうと過ごしているのだろう。いつもの様子との変わりようを見ればすぐにわかる。
どこか焦っているような、怯えているような葵の気持ちが…
それでいい。
けど、まだ足りない。
その日の放課後、私は汀と駅前のカフェに来ていた。
昨日は葵と一緒に帰っていた汀だが、今日はそうしなかったようだ。何故かは汀の話からすぐにわかった。
「それでさ、あっさり帰っちゃうんだよ。どう思う涼?」
汀は自分のために待っていてくれるか葵を試したそうだ。委員会があると言うとあっさりと引き下がった葵の愚痴を言っている汀。彼氏には待っていて欲しいなんて、可愛げのあるような言い方をしていたが、心の内はそんなものではないのだろう。
「う~ん、葵のことだから普通に遠慮したんじゃない。言われたら従うようなとこあるし、」
「それでもさ、待ってようかって一言あってもいいじゃん?」
「それより汀。葵が今日はちょっと変だったけど、何かあった?」
「別に何もなかったけど、今日は確かにいつもより頑張ってたよね。張り切ってたんじゃないかな。」
私の問いかけに、汀は一瞬間をあけてしまいそうになるが、すぐに反応していた。
今日の葵の変わりようについて、汀は全てを知っている。けれどそれを誤魔化した。ということは、よほど言えないようなダメ出しをしたのだろう。
「…ふ~ん、そっか。」
「涼?」
「いや、まぁせっかくできた彼氏でしょ。大切にしなよ。」
「はは、わかってるって!」
その後は他愛ない話ばかりをして私たちは別れた。帰りに待っていてくれなかった事の他にも葵を試すようなことをしているのだろうが、その他の事については汀は話さなかった。あくまでも自分のイメージを崩さないようにしているのだろう。
さらに次の日になると葵の様子は酷いものだった。
今日は朝から駅まで汀を迎えに行ったらしい葵は、目の下にはクマができていて、事あるごとにコーヒーや栄養ドリンクを飲んでいた。昨日よりも積極的に授業に参加して、汀の元に行き、他の人とは曖昧に頷くくらいで話をほとんどしていない。昨日の動きをより徹底的に意識して動いている。そんな様子に見えた。
よほど自分の動き方に集中しているのだろう。まるで機械のように行動する葵をクラスメイトたちは、まだ呑気に見ているようだが、相当無理をしているのが私にはわかる。
すべての授業をこんなに完璧に参加できるようになるには、いったいどれほどの時間を予習に使ったのだろうか、あの目の下のクマを見るに、ほとんど寝ていないのだろう。
それでも汀と話をするときは必死に笑顔を作っている葵。
その健気な笑顔は見ているだけで痛々しく、心が張り裂けそうになる。
午後にあった体育の授業でも葵は手を抜かずに全力でマラソンを走りきる。もともと運動がそれほど得意じゃないのに、汗だくになってむせ込みながらも走りきった葵は、しばらく座り込み、動けないようだった。
そんな葵のことを見て何やら言っている奴もいたが、そんなことはどうでもよかった。
私は葵から目が離せない。
しばらくしてから動き出した葵は一瞬、力が抜けたように崩れそうになる。
思わず駆け寄ろうとしたところで葵は自分で体勢を立て直し、急いで校舎に向かっていった。
明らかに限界は近づいているようだった。
放課後になると葵は今日も汀を誘いに行った。
聞こえてくる会話からは昨日と同じく、委員会があると断る汀に、今日は勉強して待っていると葵が返答しているようだった。きっと昨日私に行っていたことを後から直接言われたのだろう。朝から、何本もコーヒーや栄養ドリンクを飲んで、すでに辛いはずの葵は汀を見送るとすぐに勉強道具を広げて、時間が惜しいとばかりに机に向かっていた。
私は汀の後をつける。確認のためだったが、どうやら今日は本当に委員の集まりがあるようだった。それを見届けて教室に戻ると、すでに教室には葵一人。静かな教室で黙々と勉強をしている葵。よほど集中しているようで、私が教室に入ってきたことにも気付いていないみたいだ。
邪魔をする気はない。私は葵が気付くまで一緒に教室にいようと思った。
すっかり日も落ちて外が暗くなった頃、葵がようやく姿勢を戻して伸びをした。切りのいいところまで勉強したのだろう。私はそのタイミングで声をかける。
「お疲れ。」
「え⁉ 涼さん?」
隣からいきなり声をかけられて葵は心底驚いているようだった。それほど集中していたのだろう。
「涼さん、どうしたの?こんな時間まで。」
「まぁたまたまね。そっちこそ熱心に勉強してたじゃん。」
「う、うん。これくらいしないとね。」
「委員長が厳しいの?」
「い、いや!そんなことないよ!僕が織江さんにつり合うように努力してるだけで!」
普通なら冗談のように聞こえる私の問いかけは、核心を突いたようで、葵は慌てて否定していた。
そこに追い打ちをかけるように私は、大事な質問を重ねる。
「そっか、 ねぇ葵は今、幸せ?」
「…そ、それは」
言いよどむ葵。初日に同じ質問をしたときとは明らかに違う反応。
「もちろん、幸せだよ。」
「……そう。」
「あんま無理すんな。それと栄養ドリンク飲みすぎ。体壊すよ。」
汀が戻ってくる前に私は教室を出た。
今が幸せか聞かれた葵は間違いなく言いよどんだ。初日は即答していた質問に葵はすぐに答えられなくなっている。それだけ汀にキツくされているのだろう。疲れきったあの表情、葵の心の痛みを考えるだけで、私の頭はおかしくなりそうだった。
かわいそう。
かわいそう。
かわいそう。
かわいそう。
けど、まだだ。
葵はまだ、幸せだと言った。
葵はまだ自分の気持ちを認めていない。
私は自分の手の色が変わるくらいに拳を握りしめた。せめて、葵の痛みを少しでも一緒に感じれるように、そう思いながら。