最古の怨霊・1
(二話目)最古の怨霊
怨霊、と聞かれれば皆は何と答えるだろうか。
在らぬ罪を被せられ大宰府に左遷された菅原道真だろうか。
はたまた新皇と称し反乱を企てた平将門を指すだろうか。
しかしある者はこう答えるだろう。
長屋王、その人ではないか、と。
□□□
京の都に住む実丸は、紙漉き職人の下僕として働いていた。
職人である爺は聖の知り合いで、野衾である実丸の事情を理解してくれている。そのため融通はきくし、日光が得意でない実丸を色々気遣ってくれる。
彼にとって二人目の恩人だ。
「聖様はこちらに帰ってこられたか。お変わりない様子だったか?」
「はい。なんか不機嫌そうでしたけど、息災でした」
手際よく木枠の船を使って紙を漉く爺の腕はいつ見ても見事で、雑談を交わしながらでもその速さと均等さは変わらない。
「そうか。それなら重畳」
長くこの爺の下で働いているが、実丸は、聖と爺の関係性を未だ尋ねられないでいる。どう見繕っても爺は普通の人間であり、普通ではない聖との繋がりが実丸には全く分からなかった。
少し考えつつも、実丸は鍋をかき混ぜる腕を止めない。
紙の材料である雁皮を煮熟する作業は紙漉きにとっても重要で、これを疎かにすると今後の工程に影響が出る。
これがなかなかの重労働で、きつい。
「そういえば親方。今年は紙漉き早いんですね。まだ少し暑いのに」
紙を漉くのは冬が一番適している。それは溶液の「ねり」の状態が長く続くからだ。夏場ではすぐに「ねり」の粘度が低下しやすく、上質な紙には仕上がらない。
まだ残暑厳しい今の時期には、正直適していないことを告げる。
「紙を求める家は多い。質は良くなくてもいいから、と言う方もいる。早めに作っていて損は無い」
はあ、と文字書きができない実丸は曖昧な返事しかできない。
昼までの仕事を終えると、爺は座敷の隅に鎮座する神棚へ手を合わせた。実丸も真似るように手を合わせる。
あやかしが神に手を合わせるという行為は異質でしかないが、紙漉きの職に就く者にとって大変重要な神だ。
特に水が命の職業なため、水神を祀っているのだとか。生憎名は知らない。
「実丸、片付けが終わったら、大江様にそこの紙を届けておくれ。それが終わればこっちの束は聖様に」
「あ、はい」
大江氏は爺を贔屓してくれる貴族で、学者や詩人が多い。紙の消費も早く、よくこちらに声がかかる。
「聖様に届けたらもう今日の仕事は無しでいい。あとはうちの倅にやらせる」
「分かりました」
手早く掃除をして、風呂敷で包んだ木箱二つを抱える。紫の風呂敷が大江氏で、緑の風呂敷が聖宛てだ。
間違えぬように確認して、いそいそと工房を出た。
大江氏の屋敷は四条大路沿いにある。
何度訪れてもその屋敷は立派で、庶民暮しの実丸は眩暈を覚えた。
勝手口から人を呼ぶと、いつも対応してくれる下働きの男が出迎えてくれる。
「いつもご苦労さん。確かに頂いたよ」
笑って労ってくれるが、前のような覇気がない。それに屋敷の奥からは、重苦しい陰気が立ち込めているのがわかる。
「……元気がありませんね。どうかなされましたか」
「ああ、最近疱瘡が流行しててね。うちの者たちも何人かやられている」
疱瘡、またの名を天然痘。
人間に対して強い感染力を持ち、全身に膿疱が生ずる、最悪死に至る恐るべき病だ。たびたび流行していたのは知っているが、まさか実丸が関わりのある家にまで及ぶとは。
「うちはまだマシなほうだよ。藤原様は今頃大変らしい」
「藤原様が……それは大変ですね」
藤原氏は、百年前ほどではないが力を持つ貴族一族である。ここ最近では上皇による院政で力を失い、昔ほどの権力は無くなってきているらしいが。
「ここだけの話、ナガヤノオオキミの祟りなんじゃないかって。恐ろしい」
「ながやのおおきみ……?」
一体誰なのか知らない実丸は復唱するが、下働きの男は「他言無用で頼むよ」と告げて戸を閉めた。
もう一度首を傾げてから風呂敷を抱え直し、実丸は家へと足を向けた。
疱瘡などの病は、あやかしの己には関係ない話だ。
□□□
「ただいま戻りました」
「おかえり。仕事ご苦労さま。秋吉は息災だったか」
家の座敷を覗くと聖が挨拶をしてくれる。
秋吉とは、紙漉き職人の爺の名だ。やはりどのような関係なのかは知れぬが、聖にとって爺は気のおけない知人らしい。
この二部屋しかない屋敷もその爺が紹介してくれたものである。聖が家主になればいいのだが、旅に出ることが多いため、この屋敷の家主は実丸だ。
「うん、いつも通りだよ。あとこれ、親方から」
「さすが秋吉。そろそろ紙の備蓄がなくなっていた頃だ」
少し微笑んで聖は風呂敷を受け取った。
「あれ……水でも浴びた?なんか髪濡れてるけど……」
近付いて気付いたが、ほんのりと聖の髪が湿っている。
「貴船の方まで水浴びに。身は清めないとな」
「あー、貴船に……」
貴船の清い水は、人に害を及ぼすあやかしほど毒である。
人に近しい生活を送っているため問題のない実丸だが、苦手意識はある。
それでも聖の髪が濡れたままというのは放っておけなくて、自身の手拭いで頭を拭く。
「濡れたままだと風邪引くって」
聖が風邪を引く姿など想像も出来ないが、丁寧に水を拭っていると手拭いの下で聖が笑った。
「兄みたいだな」
「聖さんのほうが歳上でしょ」
少し恥ずかしくなって、わしゃわしゃと雑に拭いてしまった。照れ隠しでももっとマシな行動があっただろうに。
「あっ、風邪といえば、さっき大江様の屋敷に行って聞いた話なんだけど」
明らかな話題逸らし。それが分かっているのか分からないふりをしているのか、聖は大人しく聞く。
「あちこちで疱瘡が流行しているみたい。特にひどいのが藤原様の所で。噂によれば、ながやのおおきみ?の祟りなんじゃないかって」
「ながやの……あぁ、長屋王のことか」
「知ってるの?」
聖は歴史や物事にとても詳しい。文字も綺麗で、一体どこで学んだのか気になるところである。
「藤原様で疱瘡、祟りと言ったらその方しかいない。最古の怨霊といっても過言ではないだろう」
「最古……その人、何年前の人?」
「都が平城京であった時期の人物だから、ざっと四百年前か」
四百年前。
実丸はまだ四十年しか生きていない。なのでその年数に驚愕する。
「え、そんな前の人なのに未だ祟りとか言われてるの……?」
「長屋王の最期は、正直謀殺のようなものだったからな」
話によれば長屋王という人物は、貴き天皇家の血筋であった。しかし皇位は与えられず、それでも勢力をぐんぐんと伸ばしていき、皇親勢力の巨頭として左大臣にまで登り詰めたのだが、それを喜ばしく思わない者ら、藤原四兄弟の陰謀により首を括って自殺。
後に藤原四兄弟は政権を樹立するが、四人とも疱瘡により死んでしまった。
人々はこれに恐れ戦き、「長屋王の祟りである」と口を揃えて言ったという。
「そ、れは、祟りだね……」
否定する余地もなかった。確実に祟りだ。
「しかしおかしいな……。疱瘡と言ったら確かに長屋王しかいないが、何故今頃なんだ」
今の藤原氏は、藤原四兄弟の次男、房前の系譜だ。祟りと言われても仕方が無い。
だがそれにしては些か時が経ちすぎるのではないか。
今までにも疱瘡は流行ってきたというのに。
「道真公や将門ではなく、四百年も前の長屋王……。正直私も、実丸に聞くまで名を忘れていた人物だが……」
「偶然?それとも本当に……」
手拭いの下で聖は何やら考える素振りを見せたあと、傍の刀を持って立ち上がった。
「少し出る」
何が思い当たる節でもあるのだろうか。
聖は神妙な面持ちで手を振って屋敷から出た。