深泥池の怪・3(終)
貴族の男を呼び出した約束の日の夜。
深泥池が見える場所で腕を組み、男の到着を待つ。
体調は二日程度あれば元に戻った。傷はもう微かに跡が残る程度で痛みももう無い。
しかし目立ってしまうので未ださらしは巻いたままだ。
男は指示した通りに来た。人目を避けて来たのか、着物は派手ではないが、それでも上質そうな生地である。
一人くらいは従者を連れてくるかと思ったが男一人だけだ。よほど今回のことを重くとらえているのか、他人には知られたくないのか、それとも聖の真名のせいか。
「あなたが、えっと、聖殿ですか」
「ああ、外ではそう呼んでもらえると助かる」
男は、夜でも淡く光る聖の瞳を見て息を飲んだ。
「それでここ深泥池の霊の話なんだが」
「お、お待ちを!聖殿が文に書き記してくださった内容には齟齬が……」
話に入ろうと口を開いたとき、男が待ったをかける。聖は少し眉を潜めた。
「私や彼女は、心中をしようとした訳ではありません。お恥ずかしい話、駆け落ちをしようとこの場を通りがかっただけなのです」
心中ではない。
だというのならこの話の前提が覆ってくる。
「どういうことだ。近所の者の話では心中だと聞いたが」
「この池の前を通ったとき、急に彼女の様子がおかしくなったのです。前に散々、一緒に過ごそうと言い合っていたのですが、その、ここで二人で、命を絶とうと……」
途端ぞわり、と池の邪気が濃くなる。
「……なるほど。そういうことか」
聖は一人納得して、男の腕をつかみ、池から遠ざける。男は聖の行動に首を傾げたが、どんどんと薄ら寒くなる空気に肩を震わせた。
「すまない。私の考えが浅かった」
男を背に庇い、腰の刀に手をやって、いつでも抜けるように構える。
「なに、が」
ひた、ひた、と何者かが歩いてくる音がする。その音は次第にこちらへ近づいてくるようだ。時折、水音も聞こえてくる。
男は静かに息を飲む。
そう、何かが、こちらに、やってくる。
「ふふ。あなた、いい男。ねえ、私と、」
死にませんか。
妖艶な女の声が耳朶をなぞる。それだけで普通の男は堕ちてしまうだろう。
甘い、蜜のような言葉。しかしその内容は邪悪だ。
男の思考が、あやふやになる。
向こうに行けば、愛しい彼女の手を取れば、こんな貴族のしがらみから逃れられるのではないか。
また、彼女と生きられるのではないか、と。
だがそんな思考は、キンッと金属音を立てた刀の音で一掃される。
「あやかしの声に惑わされるな。あいつらは、人の弱みに漬け込んで、そちら側に誘い込み喰らう悪鬼どもだ」
聖の声がよく通る。
「確かにお前たちは心中しようとしたわけではなかった。ここを通ったお前の女は、あやかしに憑かれたのだ」
そして男に、心中をしようと促した。
「なぜ、そんなことを……」
「決まっている。あやかしはいつの時代も、人を喰らう。力をつけるためにな」
目の前にやってきた者は、前に見かけた美しい女などではなかった。
六尺|(180cm)を軽く超える体躯。目は赤くギラギラと光り、およそ人でない黒い肌、そして尖った角を持つ、鬼だった。
池にいた女は、鬼が見せた実体に近い幻影だったのである。
「ねぇ、私と、」
「黙れ。借り物の声でしか物を話せぬ紛い物が」
この鬼が女を喰らった。
だからこそ死体は水に浮かばず、骨だけが水底深くに沈んでいた。
他の男の死体もおそらく後で喰らうために置いておいたのだろう。
しゃらりと刀を抜き、鬼の目の前にかざす。
「すぐ終わる。恐ろしければ耳を塞ぎ目を閉じろ」
背後の男にそういうや否や、ダッと駆け出し、鬼の懐に潜り込む。
狙うのはこの鬼の急所。
鬼はだいたい、首を飛ばすか心の臓を突けば死ぬ。それはもう長い経験からわかっている事だ。
「ねぇ、私と」
「くどい」
鬼の爪がこちらへ襲うがそれを難なく躱して、刀を横一線に薙ぎ払う。
ゴトリと首が落ちて、鬼の身体は力なく倒れた。
そしてその死体は、黒いモヤのようなものが覆い、跡形もなく消える。
一瞬の出来事だった。
念の為辺りを確認してから刀を納め、縮こまっていた男に駆け寄る。
「鬼は倒した。大丈夫か」
「いやぁ……はは。面目ないです。話に聞いた通り、すごい腕ですね……」
褒めたつもりだろうが、聖は苦い顔をした。
「……彼女は」
男は池を見つめる。
鬼が居なくなった池は先程までの邪気は感じられず、どこか清々しい。
それでもここは境界の地で、池より北側は未だに陰気が立ち込めたままだ。
おそらくこの先ずっと、ここは境界の地なのだろう。
「女の霊だと思っていたものは鬼だった。あやかしに喰われた者は、地獄にも極楽にも逝けず、輪廻転生の輪に入ることも叶わず、黄泉の国を永遠に彷徨う。そんな者は霊になどなれやしない」
聖の声は冷たかった。
男と女の、最後の逢瀬を準備したつもりだった。なのに実際はこの顛末。
「上手く、いかないものだな」
ポツリと呟いた言葉に、男は顔を上げる。
「……それでも私は、彼女の最後の行動の理由が知れて、よかったと思います」
彼女は最後まで、己と生きようとしてくれた。心中などではなかった。それを知れただけでも満足だと男は語る。
「女の遺骨は未だ深泥池の底だ。丁重に弔って、それで市場の菓子屋の店主に持って行ってやれ」
とりあえず送っていく、明日は物忌と称して休め、と必要なことは言って、男を帰した。
□□□
「昨晩から釈然とせえへん顔して。どないしたん?深泥池の怪は解決して、万々歳やん」
翌日の逢魔時。
黛と共にまた深泥池へと訪れた聖。
池の淵に腰掛け、じっと北の山を見る。
森林から、大きな目玉がこちらを見つめていた。
それらはいくつも木々の隙間から顔を出し、聖を見て言葉を紡ぐ。
『おいしそう』
『うまそう』
『くってやる』
『骨の髄までくろうてやる』
それらは北の山に住まう鬼だった。
聖を、今にでも食い殺さんと腕を伸ばす。しかしここは境界の地。弱いあやかしは簡単に入ってこれない。
「なんやの、どいつもこいつも弱っちいやつばっかや。そんなに童を喰らいたいんかあ?あはは、ざぁんねん。うちが先」
黛が鬼たちに対し、舌を出して挑発した。
聞こえたのかどうかは分からないが、鬼たちはざわざわと騒ぎ立てる。
「黛、挑発するな」
聖はそんなさわぎたてる鬼たちを視た。どの鬼も、軽く刀を振るうだけで死んでしまう、弱い奴らばかり。
しかしそんな鬼たちでも都に侵入してしまえば、人々は大混乱に陥り、死人も多数出る。
風が聖の頬を撫でた。
「あやかしや妖怪がいなくなるのはいつだろうか」
私の存在理由がなくなるのは、いつなのか。
おそらくそれは、ずっとこない。
(一話目)深泥池の怪・終