深泥池の怪・1
(一話目)深泥池の怪
閑散とした村に男がやって来た。
少しよれた裁着、腰には無骨な太刀を差し、編笠を被っている。
歳は十代半ば頃。若い男だ。髪は結っておらず、身寄りのない放浪者のように見えた。
しかし、瞳には強い意志。年相応と思えぬほどの思念が宿っていた。
彼の名を、聖という。
「おっ、ヒジリさんかい」
「また来たのか。もの好きだねえ」
田畑を耕す男たちが気付き、声をかけた。どうやら顔見知りのようである。
「また世話になる。巫女様は」
編笠を脱いで挨拶をし、とある人物の居場所を聞く。すると男たちは山の裾を指さした。
「巫女様はいつものお堂だ」
それを聞いて聖は、挨拶もそこそこにしてそのお堂へ向かった。
村のお堂は小さくとても古びていて、床は時々軋む。
屋根は雨漏りがするたびに応急処置として板を施される程度で、万全とは言い難い。
そんな場所でも聖は丁重に一礼し、草履を脱ぐ。
すると中にいた人物がこちらに気づいた。
「また来てくださったのですか。聖様」
「お嫌ですか、巫女様」
「いえ、そうではありません」
お堂の奥。そこで山の方角へと祈りを捧げる女性は困ったように、お堂の隅で正座をする聖を見て笑った。
「本日も、産土神様に献上品を。そして村人達には米を持ってきました。お納めください」
「毎度のことながらありがとうございます。カカチサマもお喜びになられているはずです」
巫女はにこりと微笑みを返す。聖も目を伏せて頷き返した。
「村はお変わりありませんか」
「はい。私が幼い時よりもずっと良くなっていますよ」
だから、そのようなもの悲しげな目をなさらないでください。
そう言われても、聖の顔は変わらない。聖の瞳はおよそ人が持つ色彩ではなく、よく見れば瞳の光彩は淡く紫がかっていた。
「短いご挨拶でありましたが、私はこのあたりで失礼します」
すっと立ち上がると、巫女も慌てた様子で立ち上がる。
「もうご出立なさるのですか?せめてうちで一休みされては」
「いえ、あまりご迷惑をおかけするわけにもいきません。よそ者が長く止まっては、産土神様もあまり良い顔をなされないでしょう」
「そんな、ことは……」
巫女の呟きははっきりとしなかった。視線もさまよう。
「何度も言っているはずですよ。同情なされないでください。まして、この産土神様の巫女姫ともあろうお方が」
まるで突き放すように話す聖の言葉に、巫女は口を噤んだ。
「これは私の贖罪なのです」
キィ、とお堂の扉が不快な音を立てて閉まった。
いつもこの村の田の畦道を通るたびに聞こえて来る子供の声。今日もその声が聞こえてきた。
「知ってっかー? カカチサマっていっぺん死んじまったらしいぞー!」
「はあ? ウソつけ。産土神様がそう簡単に亡くなられるわけがないだろ」
「ウソじゃねぇって! 四十年くらい前に殺されたって俺聞いたんだ!」
「ばっ!? 恐れ多いこと大声で言うんじゃねぇ!」
子供らは何やら昔の噂話を話しているようだった。
「ホラ吹いてんじゃねぇだろな!?」
「親父が言ってたんだ! きりさき……なんちゃら、さくまってやつが、カカチサマを斬ったって!」
……霧崎 左衛門佐 朔馬。
その名前に反吐が出る。
「霧崎家……私は、許さない」
聖は静かに唸った。
時は平安。
都を奈良から京に移して313年。嘉承二年(西暦1107年)。鳥羽天皇が即位した年。まだ五歳の鳥羽天皇に代わって政権を握るのは白河法皇だ。
朝廷は人別支配を放擲し、富豪層は次第に力をつけ、一般百姓は富豪層の支配下に組み込まれた。
そして富豪層は自衛のために武装し、武士へと変貌していく、そんな時代。
しかし神々は未だ根付き、魑魅魍魎は跋扈したまま。
妖怪退治を専門とする陰陽師は、およそ百年前に存在していたとされる加茂忠行や半妖術師、安倍晴明らが全盛期で、それ以来は各々力を持っていない。
代わりに台頭したのは、霧崎家。
家自体は陰陽師と名乗っているものの、その実態は薄暗い術師一族である。
聖は京の東市を見て回る。
道には商人が看板を立てて物を売り、籠を頭に乗せた市女が往来する。
食べ物はもちろん、衣服や珍しいものまで幅広く扱っている。都が発展したのも、この市があってこそなのだろう。
「干しなつめ、ひと袋」
いつもの店でいつもの菓子を頼む。店主は無口な男で、根無し草の聖の事情に深く突っ込むことはしない。年齢に見合わない立派な太刀を腰に差しているから、関わりたくないのかもしれない。だがそれが丁度良くて、聖はいつもこの店を利用している。
しかし、今回ばかりは違った。
「深沼池に近づくな」
一度も店主の声を聞いたことがなかったため、反応が遅れる。
「深沼池……。都の北の果てか」
下賀茂神社より北に位置する池。あの付近は人の手が加わっておらず、まず人は寄り付かない。
「各地を旅しているらしいお前は知らんだろうが、その池周辺で男が何人か、行方が知れない。安易に近づかないことだ」
ぶっきらぼうに答える店主。しかしその内容に眉をひそめた。
「穏やかじゃないな。人攫いか? 役人はどうしてる」
「さあな。噂によれば、あやかしや妖怪の類の仕業だとか」
あやかし。
受け取った多めの干しなつめを手ぬぐいで包み、腰に下げる。
「なるほど。それではいくら腕が良くとも無理だろうな。肝に銘じておく」
目を伏せ、淡々と応答して店を去った。
市場はまだ賑わっている。人々の活気で明るい。
しかし人々はその影にある薄暗さなど、見向きもしないのだ。
さきほど買った干しなつめを一口齧る。甘い味が口に広がった。
あやかしと聞いて黙っていられるほど、聖は冷たくない。
鴨川沿いを北へ上り、下賀茂神社を右手に見つつまた上がると深泥池に着く。
この場所はあの世とこの世を分ける境界の地である。沼より北は山ばかりで人が踏み入れるような場所ではないからだ。
夜の沼の近くにはポツリと、とある貴族が造ったとされる地蔵が立っており、余計気味の悪さを際立たせる。
「.......陰気が濃い」
まだ夏の暑さも残るというのに、この場所は薄ら寒い。ザワザワと近くの木々が風で揺れる。
「もし」
左の耳元で、女の声がした。
同時にひやりとした感触が首元にへばりつく。それが手のひらだと分かった頃には、脇から黒髪の美しい女性に顔を覗き込まれていた。
「ふふ。あなた、いい男。ねえ、私と、」
かちりと、刀の鯉口を鳴らす。すると女は泥のように解けて、びちゃびちゃと地面に水音を滴らせた。
空いた右手で首元を拭う。べったりと水気が肌を濡らしている。
「呆気ない。これが件のあやかしか?」
聖が鳴らす鯉口の音は、神職が鳴らす拍手と同列だ。それだけで力の弱いあやかしや霊などを祓えてしまう。
だが、今回は手応えがなかった。あやかし、というより思念に近い形だ。そんなやつが果たして人を攫えるのか。
腕を組み考えていると、右足に何かが巻き付くような感触がして、また刀に手を伸ばす。
しかし途端に右足を強い力で浮かされて、がくりと尻もちをついてしまった。
瞬く間に刀の柄を抑えられてしまい、首には長い紐のようなものが巻き付き、気道を押さえる。
「なんや色男がおる思ったら、童や。久しいな?」
チロチロと赤い舌が見えた。大きな蛇だ。蛇は聖の四肢を拘束し、訛りの強い京言葉で語りかけた。
返事をしようと試みるも、気道をキツく抑え込まれ声が出ない。
「えぇ? 声が出ぇへんて?珍しく油断するから悪いんや。ふふ、かわいい童。そのまま首絞めて喰ろうてしまおうか?」
「.......ふざけるな。斬り刻むぞ」
紫の双眸が、強く光を発する。
それを見て蛇は目を細めた。
「なーんや。声出るやん。面白ないなあ」
蛇は即座に胴体をほどく。聖はゲホゲホと咳き込んで蛇をまた睨んだ。
「そう睨まんといて。油断した方が死ぬって言ってたん、あんたやろ?」
「.......巨椋池に棲むお前が深泥池なんかにいると思わないだろう。いいのか?池から離れて」
巨椋池とは、京の南に位置する大きな池だ。この蛇はそこに棲むあやかしで、これでも昔は力が強く、人間を喰い散らかしては恐怖に陥れていた。
だがいつかの日、聖がとある下級貴族に依頼され、身の丈を軽く超える大蛇を始末した、はずだった。
「心配してくれるん? 九割殺して、けったいな印つけて式にしたん、童の癖になあ」
聖の顔に頭を近づける蛇。
「ぬかせ。便利な式がいなくなるのかと思っただけだ」
それでも聖は冷たく返した。蛇は嗤う。
「そう心配しなさんな。これでも力取り戻した方なんやで?そこらの雑鬼なんか丸呑みや」
聖は余裕綽々な蛇を一瞥して立ち上がる。このような蛇に構っていては時間の無駄だ。全てを無視して池に近づく。
「あーん、袖に振らんといてよー。はいはい、うちがここにいた理由やね」
蛇は無視されたことが嫌らしく、聖の背後から首に巻き付く。今度はきつく締めることなく、聖の頭に頭部をちょこんと乗せた。
「至極簡単や。ここらへん、嫌な空気が漂ってるって噂でなあ。あんたどっかいってるし、代わりに探索しといたろ思って」
嘘やないで?とくすくす笑う。
この蛇は陸の蛇というより水蛇だ。ミズチ寄りのあやかしである。そのためか沼や川の変化にはとても敏感だ。
正直、ここにいてくれて良かった。聖のみではさすがに池の詳しい状態までは分からない。
「いつからここにいる」
「三日前かなあ。嫌な空気はあんのに、ついさっきまで全然変化なかってんで?童が来たら動きがあった」
つまり男が池に近付くと、あの女のあやかしが姿を見せるらしい。
「あやかし、というより怨念。首筋に触れられた手は雪のように冷たかったから、霊に近いだろう」
そう考えを言うと、蛇は先程まで濡れていた首筋をチロチロと舐める。
「えー、どうりで泥臭いにおいする思ったら……。この童はうちのもんやで。いつか丸呑みしてその綺麗な目ん玉、一生愛でるって決めてんねんから、上書きしといたる」
「勝手に決めるな」
首筋にあたる舌は適度に生暖かく湿っている。冷たいよりかはマシだがくすぐったい。
「女の怨念なんて、ろくなもんちゃうやろ。十中八九、恨みか嫉妬。男しか狙わんのやったら決まりや」
好いた男を探して一緒に死のうとしている、と。
蛇の予想も念頭に置いて沼を覗き込む。月明かりが水面を照らすが、底までは見えない。
「黛、潜れるか?」
蛇の名を、呼んだ。
名というものは言霊において一番短い呪である。昔は、名を他人に知られると死ぬとされていた時代もあったほどだ。今でも名は重要で、神に知られれば隠される。
だからこそ名を呼ぶ。蛇の本当の名ではなく、所有を意味する聖が付けた式の名を。
「...しゃあないなあ。今度なんか見繕ってや?」
蛇の黛はするりと聖から離れて沼の中へ潜る。
しばらく沼のそばで座って待っていると、小半刻も経たずして黛の頭が水面から浮かび上がった。
「やっぱり、うちの想像通りや」
蛇はニヤリと笑う。
「やはりあったか」
沼の中には、男三名の死体と骨になった女の死体が沈んでいた。