第四十八話 ボクらのヒーロー
「――っくっそがぁあぁああああ!」
綾女は汚らしく言葉をまき散らしながら自らの体を業血で覆うと、全身を包んでいた炎を打ち消した。そのまま焼け死ねば良かったのに――と内心で悪態を吐きながらも、そう簡単に事が運ぶ相手ではないことくらいターヤンもわかっていた。
「てめぇらはどいつもこいつも梶谷さまの邪魔ばかりしやがって……。ぶっ殺す! てめぇら二人ともぶっ殺して、あのクソチビの前に生首を晒してやる!」
背中から蜘蛛の足のように展開した業血をざわざわと波打たせて綾女は殺意を剥き出した。
「何言ってんのかわからないケド、取り敢えずキミがトチ狂った女だってことはわかったヨ。あんな生ゴミにキスした方がよっぽどマシなくらいのクソ男を『さま』呼ばわりして慕っているなんてサ。どうかしてるヨ」
ざわりと強く波打った綾女の業血に電流が弾けた。駆け抜けた閃光がターヤンを狙う。だがそれは暮木の振るった大剣により弾かれ、綾女は苛立たしげに口元を歪めた。
業血と雷の、二つの鬼の力。まともにやり合っては敵う相手ではない。少しでも冷静さを失わせ、隙を作りつつ戦わなければ――
それに、それだけでも厄介だと言うのに、相手はまだもう二人もいる。あまりに分が悪い状況だった。不幸中の幸いなのは、自分が手を出すまでもないと思っているのか、梶谷が後ろ手を組んで傍観していることだ。あるいは、冷静に戦況を見極め臨機応変に動けるよう距離を保っているのかもしれない。前者であることを願うばかりだが、後者だとしたら状況は詰みに近い。できることならば、梶谷が手を出していない二対二のこの状況の内にケリを付けたいところだ。
「くれっきー、その女は頼んだヨ!」
「ああ」
暮木が大剣を振りかざして前に出る。その行く手を阻まんと動きかけたガフタスにターヤンが飛び込み、組み合って巨大な肉団子となって転がった。
こんなところで時間を浪費している場合じゃない。ただでさえ蓮華の状況が気がかりだというのに――
馬乗りになって力の限りに拳を振り下ろし、ガフタスの顔面を二発殴打する。しかし三回目に拳を取られ、さらに腕をへし折るようにねじ曲げられたため、ターヤンは咄嗟にその捻り方向に体を転がらせ、腕を折られることを防いだ。
そこで形勢が逆転し、ガフタスの起き上がり様の蹴りが首を捉え、派手に横に転倒。すぐに体勢を立て直して立ち上がるものの、その瞬間に側頭部に衝撃が走り視界がちらつく。続け様にガフタスの拳が逆側頭部にヒットし、意識が飛びかけたところにトドメの鳩尾。堪らず血塊を口から零して蹲る。ガフタスはそのターヤンの頭を乱雑に掴み上げると、まるでボールのように投げ飛ばす。筋肉の塊となった巨体が軽々と宙を舞い、教会を囲っていた塀を破って転がった。
霞みかける意識の中、東の空からまるで雷鳴のような轟音が響き、鼓膜を薄く揺すった。蓮華が戦っているのだ。
早く……助けに向かわなきゃ――ターヤンは軋む体を奮い立たせて立ち上がる。崩落した塀の向こうでガフタスが憐れむような視線を向けていた。
「……貴殿とてわかっているであろう。足掻いても無駄だということを。あの少年はどんな手を使ってでも我々が捕らえる。我々の力は……武力は圧倒的だ。貴殿らでは到底抗えぬ。それでも……足掻くつもりか」
「当然ダ。そこに迷いなんてナイ。諦めてだってナイ。蓮華は渡さないヨ」
「その掛け替えのない命を張るほど大事か。あの少年が」
「……そうダネ。大事ダ。大事な――仲間なんダ」
今になって初めて気がついた。今の自分が、蓮華のために動いていることに。
これまでは全て紗良々のためだった。蓮華は紗良々の大切なものだから、蓮華に何かあれば紗良々が悲しむから、蓮華の窮地を助けてきた。でも、今は違う。蓮華を思って、蓮華のために動いている。
いつの間にか、それくらい大切な仲間になっていたんだ。
「そんなに長い時間を共にしたわけじゃナイ。デモ、あいつのことはまるで旧友みたい二、どんな奴かわかるんダ。甘ったれデ、考えが足りなくテ、頑固デ……デモ、自分を犠牲にしてでも誰かを助けちゃうくらい底なしに優しくテ、強イ」
初めはその甘さが嫌いだったのに、いつの間にかその甘さに突き動かされている自分がいた。今ではその甘さも、悪くないと思えてきた。
「そんなあいつをボクは気に入ってイル。あんな良い奴が傷ついて欲しくないと思ってイル。デモ、あいつは不幸を連れて歩いているような男でネ。いつも厄介事に巻き込まれるんダ。救えない男だケド、デモ、もしあいつが窮地に陥っていたらどこだろうと駆けつけてやるサ。あいつの不幸の半分を背負ってやってもイイ。それくらい大事な仲間なんダ。それこソ、家族といっていいくらいにネ」
「家族……」
ガフタスは自らにも問いかけるようにそれを復唱した。その瞳には儚い喪失が浮いていた。
ターヤンが駆け出し再び攻勢に出て拳を振り上げると、しかしガフタスはそれを目にしながら動くことをしなかった。受け入れるようにその拳に頬を打ちのめされ、教会の庭園を転がった。
「さっきまでの威勢はどうしタ? 同情でもしてくれたのカ? だったらこのまま見逃して欲しいんだけどネ」
ガフタスはゆっくりと立ち上がり、両拳を握り締め、顔を伏せた。
「……私めは……私めは……!」
涙さえ流し、禁じられた何かを飲み込むように、言葉を飲み込んでいた。
「お二人とも、何をしているのですか?」
そのガフタスに、そして暮木と苛烈な業血の剣戟を繰り広げていた綾女に、緊張が走った。
「さっさと殺してしまいなさい。遊んでいる場合ではありませんよ」
二人の様子は、まるで恐怖に支配されているかのようでもあった。
綾女は自身に纏わせる攻撃的な電流を一層強め、背後に展開した触手のような業血の尾の先からデタラメな雷撃を乱射する。暮木は業血の防壁を築いたが、苛烈な連撃に絶えきれず業血が崩壊し、一発の雷撃をまともに浴びてはね飛ばされた。
ガフタスも、先ほどまでの躊躇いなど感じさせぬ動きで飛び出してターヤンに殴りかかった。ターヤンは既に悲鳴を上げている体ではまともな反応ができず、腕でそれをガードするしかなかった。が、ガフタスの拳はそのガードも容易く破り、ターヤンは無残に地面を転がる。さらにガフタスは空高く飛び上がると、両拳をハンマーの如く握り合わせて振り落とした。ターヤンは咄嗟に転がって回避し、地面を叩いたガフタスの拳は地響きを起こしながらクレーターのような陥没を生じさせた。身に受けていればひとたまりもない威力だった。
起き上がり体勢を立て直すものの、すぐにガフタスの猛攻が押し寄せる。一手目の拳を何とか受け流しても、二手目の拳が頬を叩き脳が揺らぐ。三手目の拳を何とか受け止めても四手目の拳が腹にめり込む。全快だったならば互角程度には渡り合えたかもしれない。だが今はダメージが大きすぎて思うように動けず、手数で負けている。対処が間に合わない。一発受け流しては一発殴られ、一発受け止めては一発殴られ――その繰り返しでダメージは蓄積されていく一方だった。
もう何度目かわからない拳を顔面に受けた時、ターヤンは立っていることもままならなくなり後ろに倒れた。そこへ馬乗りになったガフタスの容赦ない鉄拳のラッシュがさらに顔面を左右に殴りつける。
暮木もまた、綾女の雷撃の嵐に打つ手なく打ちのめされていた。これまでの業血を主力にした戦いから一転して雷撃中心の攻撃に変わり、近づくこともできずに一方的な暴力に晒されていた。すでに雷撃を三発受け、体は痺れを起こしていた。業血の大剣を杖のように支えにして起き上がると、また眩い青い光が煌めき、業血の大剣が砕けて体が弾かれる。地面に体を打ち付けられながら転がり、腕を動かす事さえできず、そのまま地面に伏せ込んだ。
血が枯渇しているのか、綾女の息は乱れていた。これまで消耗の激しい雷の鬼の力の使用を避けていたのはそのためだったのだろう。
「あっはははは……! ったく、しぶといんだから。梶谷さまに愛想尽かされたらどうしてくれんだよ。さっさと死ね!」
綾女は鋭い尾のような業血を暮木に向け、その先に電流を弾けさせた。
ガフタスはターヤンの顔を殴り続けながら、その実、自らの顔を涙で濡らしていた。そしてもうほとんど動かなくなったターヤンを見て拳を止め、その手をターヤンの首元へと持っていった。
大きな手が首元を包んだかと思うと、次第に締め付けが強く、苦しくなっていく。だがその手はどこか、優しさに溢れているような――暗くなりかけた意識の中で、ターヤンはそんなことを感じた。
「ああ、神よ、お許し下さい……! 私めは、このか弱き命を奪わなければならない……! 深く……深く陳謝致します! ああ、陳謝、陳謝、陳謝……!」
締め付けが増し、喉が潰れそうになった。意識が遠くなり、何も考えられなくなる。空っぽになった頭の中で、しかし最後に浮かんだのは、やはり彼女だった。
「……さ、らら……」
血みどろの顔で、虫の鳴くような掠れた声を絞り出す。なぜ今彼女の名を呼んだのか、意図は自分でもわからなかった。でもきっと、助けを求めたかったのだろう。少なくとも、こんな別れ方は嫌だと、そんな思いが滲み出ていた。
綾女の業血から苛烈な稲妻が放たれ、暮木へと線を結ぶ。視界が暗転してターヤンの意識が飛びかける。
――だが、その時。
雷光の如き神速で現われた黒い影がガフタスの横っ腹を蹴り抜いて弾き飛ばし、さらに白刃の雷撃が綾女の稲妻を横から撃ち抜いて相殺した。
綾女は驚愕と怒りを混濁させたように目を瞠り、梶谷は待ち望んでいたように口角をつり上げ、ガフタスは転がり込んだ瓦礫の中から起き上がる。
酸素を取り入れて意識を取り戻したターヤンは、回復した視界でその赤髪の天使を見つけ、ボロボロになった顔に笑みを宿した。
「……やっぱリ、紗良々たんは紗良々たんなんだナ……。まるでヒーローだヨ」
憂いなんて吹き飛んで、彼女の偉大さを、尊さを、改めて噛みしめる。疑うことなどない。ただ、信じればいい。彼女は、それに応えてくれる。
紗良々はターヤンを見下ろして、ちょっと悲しげに、でもそれを晴らすような晴天の笑みを浮かべた。
「プヒヒ……。遅くなってホンマにすまんな。ヒーロー参上や」