第四十六話 彼の中のバケモノ
「――予想通りだったナ」
深い闇の微睡みに落ちかけた意識の中、空から舞い降りたターヤンの声と着地による地響きが遠く彼方にあるような鼓膜を揺すった。その隣で軽やかな着地を遂げたのは暮木だった。
蓮華も、この状況に何も疑いを持たなかったわけではない。本当は初めから最悪が頭を過ぎっていた。
――人間がヘルヘイムに入るには鬼人の手引きが必要。じゃあ誰が穂花を手引きした?
穂花と蓮華の関係を知っていて、穂花と蓮華を引き合わせることまで手引きできる鬼人――そんなもの、丈一郎しか、餓鬼教しかいない。
だから蓮華は家を出る前、ターヤンたちに密かに同行してもらうよう頼んでいた。それは、もしも最悪の事態となった場合、冷静でいられる自信がなかったからだ。
その時から酷い動悸がしていて、心は隙だらけだったのだろう。そしてやはりその最悪が現実として目の前に現われて――心を砕かれたのだ。
思い過ごしであって欲しかった。拍子抜けするような結末が欲しかった。だから穂花に、どうしてここにいて、誰に何を聞いたのか、わかっていながら訊ねた。救いが欲しくて、現実から逃げたくて――
「ショージキそれどころじゃないシ、今はボクたちのことを放っておいて欲しいところなんだケド……つくづく邪魔をしてくる連中ダネ、餓鬼教ってのハ」
「これはこれは、オーガキラーのお二方まで。あなた方はお呼びではないのでお引き取り願いたいのですが……聞き入れて頂けそうにはありませんね」
「今すぐ帰ってふて寝したいくらい気分は最悪ダヨ。デモ、こんな状況で仲間を見捨てるほど腐ってるつもりもナイ。それ二、その女の子は何の罪もない一般人ダ。見過ごすわけにはいかないネ!」
ターヤンは全身に力を込めて弛んだ体を鋼の筋肉を纏うマッスルモードへと変え、隣で暮木も業血により大剣を生み出して構えた。
「無駄なことを。もう蓮華さんは僕の術に嵌まっています。それに、いいんですか? こちらには蓮華さんの大事な幼馴染みの人質がいるんですよ?」
梶谷は貼り付けたような笑みを浮かべると、穂花へと触手のような業血を忍ばせてその体に巻き付けた。
「……蓮華。そんな催眠に負けるナ。意思を強く持テ。そんなんジャ、護りたいものも護れないゾ」
「そこで情けなく膝を崩しているのがお前の役目か? 大切な人の危機を目の前にして、お前はそれでいいのか?」
その言葉は、闇へと引きずり込もうとする魔の手から蓮華の意識を引きずり上げた。
――そうだ。ショックを受けている場合じゃない。今は、穂花を助けなきゃ――
糸の切れた人形のようにへたり込んでいた蓮華は歯を食いしばり、顔を上げた。だが、すぐに強烈な催眠の力が深い眠りに誘う微睡みのように蓮華の意識を引きずり込もうとしてきた。梶谷の目が一際深い赤い光を宿している。催眠の力を強めたのだろう。
このままではもっていかれる――
「――っくっそぉおおおおおお!」
蓮華は右手に炎のナイフを生み出し、自らの太ももに突き刺した。激しい痛みが足を襲う。だが、眠りに誘う催眠の魔の手は炎に焼かれるように打ち消された。
「……はぁ、はぁ……!」
蓮華は憔悴しきった、しかしその奥に確かな闘志の宿った双眸で梶谷を睨み据えた。渡さない。穂花だけは、絶対に――
「……あの状態から僕の催眠を退けますか。正直驚きました。……まだ足りない、ということですね」
穂花の体に巻き付いていた業血が鋭い刃を宿し、穂花の胸元へと矛先を向けた。
「させない……ッ!」
蓮華が一層強く眼力を込めると、穂花の周囲に火焔が迸る。紅蓮の業火は一瞬穂花を包むものの、梶谷の業血だけを焼き払った。
人質の解放されたその隙を突いて、暮木が業血により穂花を絡め取って引き寄せ、同時にターヤンが梶谷へと拳を叩き込む。梶谷は表情を変えることなく自身の周囲に強靱な業血の殻を築いてそれを受け止めた。だが、ターヤンも先の戦闘で自分の力ではその業血の殻を破れないことを身に染みていた。だから破るのではなく、破れないことを承知で、拳が壊れる覚悟で業血の殻ごと梶谷を押し飛ばした。
「暮木さん! 穂花は……!?」
「ああ、無事――」
そう答えかけた暮木の首に穂花の手が突き出され、あろうことか、穂花はその華奢な体で暮木の首を掴んで投げ飛ばした。
「だから言っているのに……無駄なことだ、と」
梶谷が体の埃を叩き落としながら立ち上がった。
「穂花……!?」
穂花は朧気な赤い目で空虚を見ていた。――そうだ。穂花の催眠を解かないことには救えない。身柄を救出するだけでは意味がない。
「もう紗良々さんに催眠を解かれるようなヘマをするつもりはありません。まあ、そもそも、今はその紗良々さんがご不在のようですがね」
神経を逆撫でるような笑みを浮かべる梶谷に、ターヤンは苛立ちを募らせて舌打ちを零した。
「それに、あなたたちはまだ自分の置かれている状況を理解できていないようだ」
梶谷はメガネを押し上げて雄弁と語る。
「蓮華さんの確保は我々にとって最重要任務。ここにいるのが僕だけだとでも?」
直後、空から猛烈な勢いで迫る殺意。ターヤンが顔を上げた時には、憤怒に顔を歪めた美女――綾女が手に業血の爪を纏い、襲いかかって来ていた。
「梶谷さまに、汚ぇ手で触んじゃねぇええええ!」
彼女の振り下ろす爪は、しかし体勢を立て直した暮木がカバーに入り業血の大剣で受け止めることで難を逃れた。
だがそのすぐ横に、闇から忍び寄っていた褐色の大男――ガフタスが現われ、拳を振り上げる。それを入れ替わるようにターヤンがカバーに入り、叩き込まれた拳をガードする。しかし鬼の力で筋力を増強された強烈な一撃によりターヤンは弾かれ、暮木を巻き込んで転がった。
奇襲に息を呑んでいた蓮華は、さらに上空に気配を察知して上を見上げた。視界に広がったのは矢のように降り注がんとする無数の氷の刃だった。
蓮華はすぐに手を振り払い、上空へ火焔を放つ。氷の刃は瞬く間に溶け、周囲に雨のように水を降らせた。
「お久しぶりですね、蓮華くん」
雨の向こう、教会の屋根の上に立つのは、見る者全てを騙す爽やかな笑みを浮かべた青いスーツの紳士――丈一郎。彼はハットを押さえながら優雅に飛び降り、梶谷の隣に降り立った。
「これでわかったでしょう? あなたたちはもうすでに、袋のネズミなのですよ」
餓鬼教の幹部と思しき連中に取り囲まれたこの状況は、梶谷の言葉通り、窮地という他なかった。
だが、蓮華の中には震えるような怒りが走っていた。
「やっぱりお前が……お前がやったのか、丈一郎!」
「ええ、お察しの通りです」
全てを汲み取ったように答える丈一郎に、蓮華は怒りのあまり総毛立った。
「いい加減にしろよ……どうしてお前は、僕の大切なものばかり……! 穂花は、穂花だけはッ!」
蓮華はカッと目を瞠った。その眼前に火球が生まれ、レーザーのような熱線が放たれる。
丈一郎と、そして隣に立つ梶谷も驚きに目を見開いた。その放たれた熱線に内在するエネルギーを第六感で感じ取ったのだろう。瞬時に梶谷は丈一郎の前に躍り出て業血の壁を築き、さらに丈一郎はその内側に分厚い氷の壁を張った。
業血の防壁と熱線が衝突すると、苛烈な爆炎が巻き起こった。業血の壁には、欠けた月のように溶解して穴が空いていた。氷の壁も蒸気へと昇華して水も残っていない。この氷の壁がなければ、二人は蒸気のように消滅していただろう。
蓮華は拳に炎を纏わせ、足の痛みなど忘れて二人に飛びかかった。
「てめぇ、梶谷さまに何して――」
横から蓮華を叩こうと繰り出した綾女は、しかし業血に絡め取られて体を地面に打ち付けられた。暮木の走らせた業血だった。
「綾女様!」
ガフタスが援護に入るように暮木に拳を向ける。その横っ面に、ターヤンの渾身の拳が叩き込まれてガフタスは突き飛ばされていった。
「お前の相手はボクだヨ、黒豚野郎」
蓮華は丈一郎と梶谷へと飛びかかると、その拳で地面を殴りつけた。燃え盛る拳は爆発を生み、二人を爆風により吹き飛ばす。二人は宙で身を翻して受け身を取り、まず梶谷が地面に手を着いて大蛇のような業血を走らせ、足下から蓮華を狙う。次いで両腕を広げた丈一郎が二本の水流を放って挟み込むように蓮華を攻撃した。
蓮華は自身の周囲に炎の渦を巻き起こす。その炎の嵐は蓮華が力を込めると破裂するように勢いを増し、業血も水流もまとめて霧散させた。さらにその炎の渦からは二本の腕を模した火焔が伸び、なぎ払うように丈一郎と梶谷を襲った。
「くっ……!」
梶谷は咄嗟に業血の壁を形成したものの、火焔の腕はその防壁を容易く破って梶谷を教会の外壁まで弾いた。
だが、丈一郎は膨大な水流を発生させ火焔の腕を飲み込むと、それを凍結させ、威力を無効化していた。
丈一郎は反撃に転じ、地面を軽く踏み込むと、クリスタルのように輝く氷の結晶を走らせた。刃となって襲い来るそれに蓮華は飛び上がって回避すると、空中で両掌の間に火球を作って投げつける。丈一郎は素早く水の渦でそれを飲み込むと、水球内で爆発が生じて膨張。しかし直ちに収縮して威力を吸収した。
蓮華が着地と同時に地面を火の海に変えて足下から攻撃を試みるも、丈一郎から発せられた氷によって瞬く間に大地が凍りつき有効打になりえない。
ならばと炎剣を創造し接近戦に持ち込む。丈一郎も対抗して氷刀を手にし、燃え盛る剣と凍てつく刀の鍔迫り合いにもつれ込んだ。灼熱と絶対零度が鬩ぎ合い、刃の間に連続して小爆発が巻き起こる。
「驚きました……強くなりましたね、蓮華くん」
「ふざけてんじゃねぇ!」
強者の余裕を見せる丈一郎に怒りを助長され、蓮華は迫り合っていた刀を弾く。すかさず隙のできた胴体へと蹴りを見舞うが、すぐに氷の鎧が丈一郎の腹部を覆い、威力を殺された。
「くそっ!」
がむしゃらに剣を振る。丈一郎はその全てを弾き、いなしてくる。そしてまた鍔迫り合いに。両者の力が均衡しているのか、それとも遊ばれているのか――丈一郎の余裕の浮かぶ表情を見る限り、後者であることは明白だった。
何か策を練らなければ勝てない――そう思考を巡らせていた時。
ぐしゃり、と、柔らかい何かを潰したような、貫いたような、そんな音が響き渡った。
ガフタスと組み合っていたターヤンも、綾女の稲妻を迸らせる業血と剣戟を繰り広げていた暮木も、動きを止めた。
全ての音が止む。まるで時間が止まったかのように。
蓮華も、ただ呆然とそれを見ていた。
倒れながらも勝機に酔った笑みを浮かべる梶谷と、その手から伸びた業血の牙により胸を貫かれた、穂花の姿を。
「……うそ……だろ……?」
炎剣が消滅する。丈一郎も、全てが決したと言うように氷刀を収めた。
業血の牙が胸から引き抜かれ、穂花の体は力なくその場に倒れた。
「穂花!」
蓮華は駆け寄ってその身を抱き起こした。だが、虚ろな彼女の目は定まらず、胸に空いた穴からは止めどない血が溢れ出て蓮華の手を赤く染めていく。
「くくく。できましたね、心に大きな隙が!」
梶谷の目が赤く光を放つ。すると蓮華の瞳にも同様の赤い光が灯された。
梶谷のそれは、蓮華の心に隙をつくるための一手だったのだろう。だがそれは、大きな過ちだった。
蓮華は、催眠により意識を蝕まれることもなかった。既に意識が崩壊していたから。
梶谷のそれは、蓮華の心に隙をつくるのではなく、心を壊してしまっていた。
解き放ってしまったのだ。蓮華の中のバケモノを。
「あ……ああ……。――ッああぁああああああああ!」
その叫びは大気を震わせ、熱の波動が周囲に波紋した。そして、蓮華の体は緋鬼を思わせる真紅の甲殻に覆われていった。