第四十一話 聞こえるはずのない声
満たされない食欲に支配された蓮華の体は、深夜の、しかしまだ人の行き交う街中で求めるままに暴走を続けていた。
菜鬼の放った雷撃を餓鬼化した右腕で弾き飛ばす。跳ね返った雷の弾はすぐ後ろにあった歩道橋に着弾。砲撃を受けた歩道橋はひとたまりもなく、中央からへし折れて道路に崩れた。
蓮華の餓鬼化した腕が赤く熱を帯びる。鋭く発達した爪を振り上げると、不可視の熱の波動が飛び、弾道上に赤熱した爪痕が走って行く。川の字の走ったそれは道路や商業ビルの壁面に巨大な傷跡を刻み、菜鬼の胴体にも斜めに切り上げたような焦げ跡を残した。
「フシュルルル……!」
一瞬怯んだ菜鬼は威嚇的な声と共に地面へ両腕を突き四つん這いになった。背中に生えた長いトゲが花開くように広がったかと思うと、周囲へと荒々しい電流を無造作にばらまき始めた。周囲の建物を初め、電線や電柱、信号機など、見境なく電流が迸って火花が散る。しかし、どうやらそれはただの副産物に過ぎなかったらしい。
電流をため込んだのか、菜鬼の背中のトゲが蒼白く眩い光を放つ。次の瞬間、その光が天へと昇り雲を突き抜ける。そして約一秒のタイムラグを置き、周囲を染め上げるほどの蒼雷が降り注いだ。
雷鳴が大地を揺るがす。片側四車線ある幅広い幹線道路に、その道幅一杯のクレーターが空いた。椀状に抉られ地中の土砂が顔を覗くそこには何者の痕跡も残ってはいない。全てが木っ端微塵にされている。そしてそのクレーターの中心地は、蓮華の立っていた位置でもあった。直撃していれば塵も残っていないだろう。
まだ雷鳴の余韻が空気を震わせていた時、菜鬼の前に煙を纏う影が躍り出る。半身を焦げ付かせた蓮華だった。落雷の直前、自身の真横に爆発を起こして自分の体を吹き飛ばし、直撃を免れたのだ。
「ガァアアアァアアアッ!」
野性的な声を上げた蓮華の拳が菜鬼の胸を打ち抜いて殴り飛ばした。車に衝突しながら棒きれのように道路を転がった菜鬼は、痙攣を起こしながらも地を這って起き上がろうとする。その背中を、蓮華は踏みつぶした。さらに、両手で背中のトゲを掴み、強く踏み込んでへし折った。
「フシャアアァアアアアアア!」
折れたトゲから新鮮な赤色をした血がこぼれ落ち、菜鬼が悲鳴を上げた。
蓮華はへし折った菜鬼のトゲにかぶりつく。ばりぼりと固そうな音を立てながらかみ砕き、咀嚼し、飲み込んだ。あっという間に一本のトゲを食い終わると、また次のトゲをへし折り食す。力尽きたのか、菜鬼はされるがままに動かない。捕食されるだけの餌に成り果てていた。
やがて菜鬼の背中に生えた全てのトゲを平らげ、首を掴んで持ち上げる。今度はその体へと牙を剥きだした。
しかしそこで、からころ、とすぐ近くで物音が響く。機敏に反応した蓮華はその音の方へと首を回した。
崩れた建物の脇で、逃げ遅れたのであろう一人の女性が腰を抜かし、涙を浮かべた絶望の瞳で蓮華を見ていた。彼女は右足から流血していた。崩れた瓦礫に巻き込まれ足を負傷してしまったのだろう。
蓮華は菜鬼を投げ捨て、彼女に歩み寄った。口からはぼたぼたと大量のヨダレを滴らせ、捕食者の瞳で彼女を捉えながら。
「ひっ……いや……ぁ……!」
女性は目からこぼれ落ちた恐怖を頬に伝わせ、弱々しく掠れた悲鳴を上げた。全身が震えを起こしている。力が入らないのか、賢明に手足を動かしても立ち上がることはおろか後退ることもできていない。
この世の最後を垣間見たかのように見開かれた女性の瞳に、半分人間半分バケモノの異形の怪物へと成り果てた蓮華が映る。そのバケモノの手が、ゆっくりと女性へと伸ばされた。
だが、その手が女性に届くよりも早く。
突然、どこからともなく巨大な津波が押し寄せ蓮華を飲み込み、道路を洗い流した。その水の濁流は半壊した歩道橋や瓦礫、車など、路上にある全てのものを丸呑みして連れ去っていく。
瓦礫と共に流された先で蓮華は素早く体勢を立て直し体に炎を纏った。だがその瞬間に蓮華の体を水が包み込んだ。
「ウォオオオォオォオオオオオオオ――」
水の繭の中で蓮華は咆哮を上げて憤怒をまき散らした。
その時。
「ダメだよ、蓮華」
〝少女〟の声がこだまする。そして水の中に現われた一人の〝少女〟が蓮華の胸へと寄り添うように手を当て、蓮華の咆哮がピタリと止んだ。
赤黒く生臭い〝何か〟の中を漂っていた。腐った血に沈んだような不快さだった。
全身の肌から染み蝕んでくるその〝何か〟の正体は、深く考えるまでもなくすぐに判明した。それは止めどない空腹であり、渇きであり、それらから発生する醜い食欲そのものだった。
その欲望に自分は飲み込まれてしまったのだと、蓮華は理解した。
底のない空腹が精神を蝕む。潤うことのない渇きが脳を掻き乱す。苦痛と不快が連鎖する。だが、不思議なことに楽だった。抗うことを辞めてしまえば、欲望に身を任せるだけでいいのだから。
そうだ、このまま欲望に身を任せてしまえばいい――そんな悪魔の囁きが聞こえた。それがいい、と蓮華も疑問を持つことなく思う。
体が沈んでいく。欲望に染まった血みどろの底へ。
「――ダメだよ、蓮華」
突然聞こえた、聞こえるはずのない声。
ハッと目を瞠った。意識が覚醒していく。末端まで神経が繋がるように体が感覚を取り戻してく。
「バカなことしてないで、早く戻っておいで」
純白の光が差し、蓮華を飲み込んでいた腐海が霧散する。蓮華の体を覆っていた餓鬼の外殻が砕け散る。気がつけば蓮華は大きな水の塊に包まれていた。その胸に、一人の少女を抱いて。
「……ほの……か……?」
初めは幻覚かと思った。前のように、自分の願望が描き出した夢なのではないかと。
だが、違う。現実だった。胸に伝わる彼女の温度が証明している。懐かしさすら覚えてしまう彼女の温もりが。
「おかえり、蓮華」
涙と共に微笑みを浮かべる彼女の顔が蓮華を見上げた。水の中だというのに不思議と声はクリアに聞こえて、息苦しくもなかった。
「もう……勝手にいなくなんないでよね。バカ」
いつもの調子で彼女はおちゃらけた。目には涙が浮かんでいるものの、心底嬉しそうに。
「どうして……穂花が……?」
蓮華は再会の嬉しさよりも先に混乱が飛び出た。だって、穂花がここにいるはずがない。こんなことはありえない。頭が目の前の現実を否定しようとした。
「話したいことはいっぱいあるよ。言いたいこともいっぱいあるよ。文句だっていっぱいあるよ。でも……今は時間がないや。ごめんね、蓮華」
そう言って、穂花は一歩遠ざかった。
「待ってくれよ……穂花!」
「また会おうね、蓮華」
穂花は水に溶けるように消えていく。そして蓮華を包んでいた水が弾けて、炎に焼かれた街が眼前に広がった。荒れた街に一人立ち尽くした蓮華は、そのまま膝が力なく崩れた。
「ほの……か……」
視界が傾ぎ、全身の力が抜けていく。それは特殊な力による外的な要因ではなく、餓鬼化して際限なく暴れ回った反動による蓄積された疲労だった。そのまま意識が遠のいていき、蓮華は湿った路面に体を打ち付けて倒れ込んだ。
「――蓮華!」
紗良々がそこに追いついたのは、蓮華が気を失い倒れた直後の事だった。
激闘を繰り広げていたはずの菜鬼の姿がなく、街は水浸しになり、蓮華は元の体に戻って倒れている。状況は全く以て理解不能だった。
蓮華に駆け寄り体を抱き起こす。呼吸はあった。どうやら気を失っているだけらしい。
「良かった……」
そう安堵するのもつかの間。けたたましいサイレンと赤い光を散らす無数のパトランプが近づいてきた。空にはヘリコプターが飛び交いサーチライトを照らしつけている。
タイヤを焦がす勢いで車体を滑らせて停車していく何台ものパトカー。甲高いスリップ音が幾重にも重なる。ぞろぞろと降りてきた警官隊が拳銃を構えて陣を取り、あっという間に紗良々を取り囲む包囲網が完成した。さらに濃紺色の移送車が登場し、コンバットスーツに身を包んだ特殊部隊まで現われる始末だ。
「妙なマネをするな! 少しでも動けば発砲する! 繰り返す! 動けば発砲する!」
拡声器による牽制の声が鋭く空気を震わせた。紗良々は小さく舌打ちを零す。状況は何もかもが最悪だった。この先を思うとうんざりするばかりだ。しかし紗良々の懸念するそれは、身の安全が危ぶまれることではない。むしろ東京に関してはより一層身の安全は保証される。頭が痛いのは、街に甚大な被害を出してしまったことと、蓮華の異常のことが〝彼〟にバレてしまうことだ。きっと、彼はすぐに現われる。
「同様に鬼の力を使えば即時発砲する! 繰り返す! 鬼の力を使えば即時発砲する!」
拡声器で牽制をかける特殊部隊の小隊長と思しき男は口走った。緊張した面持ちで〝得体の知れぬバケモノ〟と対峙する警官隊たちとは違い、特殊部隊の面々は冷静沈着な表情で構えていた。
「そのまま両手を頭の後ろに回して――」
威圧的な声で命令が飛んできた、その時だった。
「その必要はない」
厚みのある声がそれを制した。つかつかと毅然とした足取りで現われたのは、ブラックスーツ姿の男だった。
四十代前半ほどの、数々の修羅場を踏んできたことを思わせる険しい顔つき。かっちりとオールバックで固められた髪型は、生真面目な彼の内面を醸し出している。
「彼女は私の知り合いだ。銃を下げろ」
彼の指示に、特殊部隊が一斉に銃を下ろした。その光景に警官隊では混乱が広がりどよめく。
「やっぱり来おったか……」
紗良々は小さくぼやいた。予想通りだった。
「こうして顔を合わせるのは久しぶりだな、紗良々」
「相変わらず猫被っとるみたいやなぁ、貞晴。いつ見ても笑けてまうわ」
貞晴はごまかすようにゴホンと一つ咳払いをした。
「……紗良々。事態は急を要する。君のこの失態……どう取り返すべきか、わかるな?」
「ああ、言われんでもな」
紗良々は人差し指と中指の二本の指を立てて口の前に添えた。
「オン バサラ アラタンノウ オン タラク ソワカ――汝らの記憶、剥奪せん」
呪文を唱え蒼白く発光する指先で『了』の字を描き、最後に腕を真上に振り上げた。それは一筋の光となり天へ昇っていき、打ち上げ花火のように夜空へ光の花を咲かせた。
周囲の巻き込まれた一般市民、及び駆けつけた警官隊は、その光が放たれた瞬間に呆けた顔つきになっていた。まるで自分がどうして怪我をしているのか、どうしてここにいるのかわからないように。これまで怪異に関わりのなかった彼らの、今見た『怪異に纏わる記憶』を書き換えたのだ。
「これでこの騒動を目の当たりにした人間の記憶は消えた。せやけど、写真やら動画やら撮られてもうてる。それはウチにもどうにもできひんで」
「結構。写真等についてはこちらで情報規制をしておこう。しかし紗良々。これは一体どういうことだ?」
「何がや?」
「惚けるな。そこに横たわっている少年のことだ」
貞晴の言うとおり、紗良々は初めから貞晴の言わんとしていることを理解していた。
「彼は無害だと、危険はないと私に報告したのは他でもない君だ。だから私は彼を――緋鬼の鬼人を君に一任した。しかしどうだ。彼は一晩にして街を火の海にしてみせた。この一連の事態について、私は君に詳細な説明を求める。あとで私のところへ来なさい。場合によっては……その少年をこちらで始末することも検討する。以上だ」
有無を言わせず切り捨てるように言って、彼は踵を返す。特殊部隊の隊員たちへ撤退の指示を出し、黒いセダンの車に乗ってその場を去って行った。
紗良々は苛立ちを隠さず顔に出して舌打ちする。一方的な物言いに腹立たしさを覚えていた。
そしてただでさえ混沌とした事態の中で、さらに状況は暗転を迎えた。
「紗良々たん……?」
警察組織の一人と交友のあるようなやり取りを見せた紗良々の、その一部始終を見ていたのだろう。暮木と並んで立つターヤンは、激しく瞳を揺らしていた。