第七話 伝わらない気持ち
人を騙すのって意外と簡単だ。それが、ここ数日で得た蓮華の教訓だった。
朝食はいつも食べないから問題ない。昼飯のお弁当は、母に申し訳ないとは思いつつも中身はトイレのゴミ箱に捨てた。夕飯は「友達と勉強会」とか理由をつけて家に帰らず、外食してきたことにする。これで『食事というイベントからどう逃げるか』という最大の難関を突破できる。
鬼人もどきになり、何も食べられず、何も飲めず――そんな状態で人間の生活に紛れ込めるのだろうかと不安に思っていた蓮華だったが、やりようはいくらでもあるのだと知った。
悲しいことに、案外、人は嘘を見抜けない。
きっとそれは、良いことなのだろう。だって、つまりそれは人を疑っていないということなのだから。蓮華は前向きに、そう思う。
でもだからといって、人を騙すのはやっぱり気分が良いものではない。子供の頃の苦い薬を飲むときの感覚に似ている。自分のために飲まなくてはならないから頑張って飲むのだが、やっぱり苦くてまずいのだ。
また、鬼の力の使い方についても練習を重ね、会得した。初めは暗い部屋に引きこもり、右手を見つめて意識を集中させることから始めた。炎をイメージして力を込めると、ぼぅっ、と音を立てて右掌が燃え上がった。ちりちりとした熱は感じるものの、しかし不思議と熱いとは思わない。それは鬼の力で出した炎に限らず、試しにライターの炎で自分の手を炙ってみたところ、同じように熱は感じても苦しくなく、火傷を負うようなことはなかった。どうやら熱に耐性のある体になっているらしい。
また、ティッシュを摘まんで目の前に掲げ、凝視してみた。眼力を込めて炎をイメージすると、ティッシュに丸く焦げ穴が開き、次の瞬間に燃え上がって消し炭となった。どうやらこの力は体から炎を出すだけでなく、任意の物体を発火させることも可能なようだった。
しかし多用は禁物だ。この力を使うと酷い倦怠感に襲われる。息切れし、目眩がして、立ちくらみまで起こしたこともあった。貧血の症状によく似ている。しばらくすると体調は安定するのだが、明らかに完治はせず、その後もずっと倦怠感に襲われたままだった。走れば体力を消耗するように、何かしらのエネルギーを使っているのだろう。そしてそのエネルギーは、どうやら休めば勝手に回復するというものでもないらしい。得体が知れないため、やはりこれ以上使うべきではない。そもそもこんな危険な力を多用するつもりもないが。
そうしてやり過ごすこと、鬼人もどき四日目。
今朝も目が覚めるとやはりお腹は空いていて、喉はからからで、蓮華は鬼人もどきのままだった。いつか朝起きたとき全てが夢になっていやしないかと期待しているのだが、どうやら期待するだけ無駄らしい。
しかし不思議だった。蓮華は日を追うごとに空腹感や喉の渇きが増していくものだとばかり思っていたのだが……違ったのだ。むしろ、初日より症状が軽い。もちろんお腹は常に空いているし、喉も渇いているのだが、別に耐えられないほどではない。目の前にフルコース料理を置かれたとしても、自我を保ち、ヨダレを垂らさない自信があった。その程度の空腹感。二日目の朝からずっとこんな調子なのだ。お陰様でこれまでなんとか学校でも支障を来すことなく生活できている。唯一、鬼の力を使ったせいで体に蓄積された倦怠感だけは残っているが。
慣れ……だろうか。それならそれで好都合。この調子なら、一週間耐え抜く程度余裕だ。
光明が見え出した気がして嬉しく思いながら、蓮華はいつも通りに一階に降りて洗面所で顔を洗い、リビングに顔を出す。
「おはよー」
「おはよう」
「おう」
母はキッチンで食器を洗いながら、父はテーブルで新聞から目を離さずに返した。
「あ、そうそう。蓮華、最近お友達と一緒にお勉強してから帰ってくるけど、それって街中のファミレスかどっかでやってるの? それともお友達のお家?」
「あー、えっと……駅の近くのファミレスで……」
もちろん嘘だ。
だがそんなその場しのぎで出任せでしかない蓮華の嘘に、母は大げさに驚いた顔をする。
「あら! じゃあ気をつけなさい? 昨晩、駅近の街中で事件があったらしいわよ」
「え? 事件?」
「ほら、今もニュースやってるから、見て見て」
言われてテレビに目を移すと、朝のニュース番組が流れていた。
『――昨夜未明、長野県上田市の商店街のガラスや壁が無残にも破壊されるという事件が起きました。ご覧下さい。まるで嵐が通り過ぎたかのように、この通りに面する全てのお店の外壁や窓ガラスが無造作に破壊されています。今のところ盗難の被害はないとのことで、警察は愉快犯の可能性を視野に入れて捜査をしているとのことですが、防犯カメラに犯人の姿は映っておらず、また目撃者もいないことから捜査は難航を――』
生中継でリポーターが賢明に状況を伝えている。
その背景に映っていたのは、紛れもなく蓮華の住む街の商店街の風景だった。
ガラス片が道路一面にぶちまけられ、看板や植木がそこら中にとっちらかり、壁に穴の開いている建物まである。まるで竜巻でも通ったのではないかというような惨状だ。
すぐには信じられなかった。蓮華はいつも、テレビで流れているニュースはどこか他人事で、遠い別世界の出来事のように感じていた。テレビという箱の中の、自分には関係のない世界での出来事なんじゃないかと。
だからこんな身近で全国版のニュース番組に取り上げられるほどの事件が起きていることを実感できずにいた。
◆ ◆ ◆
学校に着くと、朝の教室はニュースの話題で持ちきりだった。
「なあなあニュース見たか?」「やべーよな」「誰がやったんだろ」「怖くて駅の方行きたくないんだけど」「こんな田舎なのに物騒な話だよな」「早く犯人捕まりゃいいのに」
四方八方から男女様々な言葉が飛び交っている。
蓮華の通う高校は駅から近い学校で、つまり、事件のあった商店街ともかなり近い場所に位置する。皆の関心が異様に傾くのも無理はない話だった。
しかし、そんな沸騰中の話題を差し置いて時折聞こえてくる別の声。
「――佐藤くんのこと、もう誘った?」「それが、実はまだ……」「えー! まだなの!?」「もう明日だよ? 早くしなきゃ!」「でも、恥ずかしくて……」「大丈夫だってー。ガツンといっちゃえ!」
そんな浮き足だった女子の桃色な会話。
蓮華は胸の奥が乾くような感覚を覚えながらも関心を逸らす。
自分には関係のない話だ――と、見て見ぬ振りをして。
「――おい、お前は漆戸さん誘ったのか?」「バッカお前そんな簡単にいくわけねぇだろ」「早くしねぇと取られちまうぞ?」「漆戸さん人気だもんなあ」「お前が誘わないなら俺が誘っちゃおっかなー」
喩え、男子たちのそんな会話が聞こえてこようとも。
――そう思っていたのに。
「ねぇ、蓮華。明日の夜、暇?」
それは昼休みの屋上で唐突に繰り広げられた。
蓮華の目の前では穂花が眩しいくらいの太陽光を惜しみもなく浴びて、涼しげな風に長い髪を遊ばせながら邪気のない笑顔を浮かべている。
蓮華は人前では穂花と話さない。穂花と幼馴染みという空気を出さない。仲良さそうになんてしない。そう決めていた。
『人目を気にする』から。穂花にはその理由をそう説明している。だから穂花も、わざわざ蓮華をメールで屋上まで呼び出してきた。
「暇だけど……。お前は暇じゃねーだろ」
少しぶっきらぼうに、蓮華は言う。
「え? なんで?」
「なんでって……」
白々しい穂花の態度に蓮華は苛立ちを募らせた。そしてそんな身の程知らずな苛立ちを覚えてしまった自分自身にもまた、苛立った。
「もう何人もの男子に誘われてんだろ? 明日の花火大会」
そう、明日は土曜日――この田舎町で学生にとってはビッグイベントであるところの花火大会が行われる。約一万発の花火が打ち上げられる、田舎にしてはそこそこ大きな祭りだ。
『友達と行って、恋人と帰った』とかいかにも青春臭いキャッチフレーズが使われてしまうくらいに重要な恋愛イベント。だから恋する男女は思い切って勇気を振り絞り、想い人を誘うのだ。
穂花は人気がある。女子にも、そして男子にも。
黒よりも黒く艶のあるストレートの髪。整った顔立ち。血色の良い肌。モデル体型とまではいかないが、スタイルもそこそこ。さらにおしゃべりで陽気で、誰にでも分け隔てなく接するサッパリとした性格。女子からはお姉さん的な存在として慕われ、男子からはモテモテ、というほどではないにしろ、密かな人気を集めている。
朝の教室での会話でもあった通り、そんな穂花を男子が放っておくはずがない。
しかし、穂花は「だから?」とビー玉みたいな瞳であっけらかんと言い放つ。
「それが何? 全部断ったけど」
「はあ!? 何でだよ!」
蓮華が聞き耳を立ててこっそり聞いていた限りでは、イケメンで女子に人気のあるサッカー部の山本も穂花を誘うつもりだという内容の話をしていた。まさかそれも断ったというのか。
「だって、私が花火大会に行くのは蓮華と、っていう決まりだもん」
「はああ!? そんなのいつ決まったんだよ!」
「えー忘れたの? 小学生の時に約束したじゃない。毎年一緒に花火大会行こうね、って」
「それは……っ! なんていうか、約束っていうほどのものでも……」
確かに、蓮華は小学生の頃に初めて穂花と見に行った花火大会でそんな口約束を交わした。忘れもしない。でも、それは子供の頃の話。そんなもの、おままごとのようなものだ。
だから、まさか穂花がそんな約束を覚えていたとは思わなかった。
「じゃあ去年とかはどうしたんだよ?」
「行ってないよ?」
初耳だった。てっきり誰かしらと行っていたものだと思い込んでいたのに。
「ねぇ、蓮華。最後に私と花火大会行ったのいつか、覚えてる?」
「……知らねーよ、そんなの」
「中学二年の時だよ。中三の時は受験勉強を理由に断られちゃった。去年は何も断る理由はないはずだし、今度はもしかしたら誘ってくれるかなとか期待して待ってたんだけど、結局誘ってくれなかった。だから今年も私から誘うことにしたの」
「…………」
もちろん蓮華もちゃんと覚えていた。穂花との思い出を、人生の恩人との思い出を、忘れるわけなどない。
中二の時に行った最後の花火大会も穂花から誘われた。その前の、中一の時も。
思えば蓮華は、自分から誘ったことなんて一度もなかった。
「ね、今年は一緒に行ってくれる?」
「……なんで僕なんだよ」
「なんでって、約束だし」
「だから、そんな約束、もうどうだっていいだろ。ガキの頃の約束だぞ? 忘れろよ」
穂花は、良い奴だ。優しくて、気が利いて、人を思いやることのできる、本当に天使のような女だ。
だからこそ、蓮華は申し訳なく思ってしまう。
「もう無理して僕に付き合わなくたっていいんだって。お前はお前の好きな奴と行けよ」
穂花が蓮華を花火大会に誘うようになったのは小六の時。つまり約束をしたのも小六の時。
――そう、五年前、蓮華の兄が死んだ年からだ。
穂花はそれから中三までの間、毎年蓮華を誘うようになった。何かと蓮華に付きまとうようになった。蓮華を励まそうと、少しでも元気付けようと、蓮華を一人にしないように……と、そんな気遣いがあったに違いない。少なくとも、蓮華は穂花の行動原理をそう捉えていた。
でも、それが申し訳なくて、蓮華は穂花を突き放すことに決めたのだ。
「お前は優し過ぎんだよ。僕のこと心配し過ぎなんだよ」
穂花は、本当は別の誰かと花火を見に行きたかったのかもしれない。僕がいるせいで気を遣って、他の誰かといたい時間を僕に割いているのかもしれない――中三の時にそう気づいてしまって、以来、蓮華は穂花を遠ざけるようになった。
穂花の人生を自分のせいで台無しになんてしたくないから。
穂花の優しさが蓮華には重かった。いや、穂花に〝白崎蓮華〟という重りを鎖で繋いでしまっているような気がしていた。
「もうお前に世話焼いてもらうほど僕は弱くない。幼馴染みだからって、そんな義務感で僕を無理して誘わなくていいんだって。だから僕にそんな気を遣わずに、好きな男とでも一緒に――」
「なにそれ」
真夜中にしんしんと降り積もる雪のように冷たい声だった。穂花は俯いていて、顔が見えない。
「義務とかそんなの、考えたことないよ……。私は、優しくなんて……ないよ……」
声が震えている。頬には一生懸命に存在を訴える一筋の光の粒が見えた。
「お、おい漆戸――」
「もういいよ、バカ蓮華」
穂花は俯いて蓮華に顔を見せないまま走り去って、屋上から消えてしまった。蓮華はその背中に手を伸ばすが、しかしそれだけで、追いかけることはできなかった。
遠くの空でセミが鳴いている。
なぜだろう。心に、穴が空いた。胸が、痛い。
「今のはいただけませんねぇ、蓮華くん」
「うぇっ!?」
誰もいないはずの屋上で聞こえた、聞き覚えのある声。
「じょ、丈一郎さん!?」
「ふふふ。お久しぶりですね蓮華くん」
彼はなぜか、蓮華の足下で体育座りをしていた。蓮華を見上げる顔には以前と同様、朝日を追いかけるひまわりのような眩しい笑顔が貼り付いていた。
「ど、どうしてここに丈一郎さんが……? ここ、僕の学校ですよ? てか、いつの間に……」
「言ったでしょう? 私は身を潜めるのが上手いって。女の子のおパンツなんて覗き放題です」
「だから爽やかな笑顔でさらっと変態発言するのやめてください」
そうは言っても、まるで気配を感じなかっただけに忍者か何かかと疑いたくなる。
「ま、実のところを言うと、この屋上に〝隙間〟があっただけのことなんですけどね。ほらここ」
そう言って立ち上がって、丈一郎はすぐ近くの空間を指でなぞる。注意深く凝視してみると、確かに、そこには水晶に入った一筋のヒビみたいなものが見えた。
「こんなところにもあったのか……」
「至る所にありますよ。それはそうと……蓮華くん。今のはなんですか? 女性を泣かせるなんて、男として恥を知るべきです。今の君に彼女のおパンツを見る資格はありません」
「そんな資格誰にもねーよ!」
度重なるおパンツ発言に、いよいよ本物の変態疑惑が浮上する。
「それに、そんなこと言われても……。あいつが何で急に泣いたのか意味がわかんねーし……」
「本当にわからないんですか? だとしたら君はかなり鈍感なんですね。まるでラノベの主人公みたいだ」
「なんですかそれ……」
そもそも丈一郎がラノベを読むことに蓮華は内心驚く。
「じゃあ丈一郎さんはあいつが泣いた理由がわかるとでも?」
「ええ、わかります。伊達に二百年以上生きてませんからね。人という生き物を、私は誰よりも深く理解しているつもりです」
そうか――とハッとした。彼は二百年以上もの間、人と出会い、語り合い、そして別れてきたのだ。どんな偉人の言葉よりも、きっと彼の言葉にはどうしようもない重みがある。
「しかし……私が彼女の気持ちを代弁するのは野暮というものでしょう。ですからここは一つ、私からヒントです」
丈一郎は人差し指を立てて、横に揺らした。
「気遣いし過ぎなのは、多分君の方だ、蓮華くん。遠慮は、時として人を傷つけてしまうものなんです。例えば君が、ちょっとレアでお値段の張る映画のチケットを二枚持っているとしましょう。それを友達に『一緒に見に行かないか』と誘うとする。けれどその友達に『もったいないから別の人と行きなよ』と言われたら、君はどう思うかな?」
「……遠回しに断られているのかな、と……」
「そういうこと。その友達は本当に遠慮しているだけかもしれませんが、君は『僕と映画行きたくないのかな。もしかしたら本当は嫌われているのかも』と、そんなことを考えてしまうのではないですか?」
「そんなっ、僕は別にあいつのことを嫌ってなんか……!」
「君がどう思っていようと、彼女にはその気持ちが誤解して伝わっているかもしれません。時には直接言葉にしなければ、本当の気持ちは伝わらないものなんですよ。だから、たまには自分の気持ちを素直に伝えてみてはいかがですか?」