第三十五話 黄色い悪魔
「――人間を……諦める……? 何を言って……」
「魂がすり減っとるなら、いっそのこと全部売っ払ってまえばええんや」
緊迫した蓮華とは裏腹に、紗良々はあっけらかんと簡単そうに言ってのけた。
「〝怪異墜ち〟言うてな、人間が魂と引き替えに怪異と取引きをして、怪異に成り下がることを言うねん。これでウチが怪異として生まれ変われば、一旦は延命できる。怪異として、やけどな」
「怪異として、って……もう僕たち鬼人は怪異みたいなもんなんだろ? これ以上どうなるっていうんだよ……?」
聞かずともそれが〝良からぬこと〟なのは簡単に予感できることだった。しかし『やめろ』だなんて無責任なことも言えなかった。紗良々は言っていたのだ。『もうこれしか道がない』と。だからせめて、希望が欲しかった。怪異になったところで今と大した変化はない――そんな拍子抜けするようなオチが。
「鬼人は完全な怪異やない。半分人間、半分怪異の、狭間にあるような存在や。共食いの範疇に人間が含まれとんのも、まだ人間の体が残っとる証拠みたいなもんやろ。そんな存在がさらに怪異墜ちした前例なんてあらへん。せやからどうなるかなんてウチにもわからんわ。……せやけど、これだけは言える。完全な怪異になってもうたら、もう緋鬼を倒したところで人間には戻れへん」
「そんな……」
蓮華は動揺を隠せなかった。
「だってお前は、ずっと人間に戻るために緋鬼と戦ってきたんだろ!? それなのに……!」
「死んだら元も子もあらへんやろ」
全ての望みを切り捨てるような一言だった。蓮華は口を開けたまま言葉に詰まる。その極論に何も言い返せない。一筋の光明を見出すことすら、できない。
「魂は生命の原動力や。魂がなくなれば、体は機能を停止する。おそらく、ウチはこのままやとそのうち心臓が止まってまう。せやから、もうしかたないねん」
「なんで……どうして今まで、そこまでして呪術を使ってたんだよ! あの梶谷って男の時だって……!」
「皆を護りたかったんや。梶谷を……殺したかったんや。ウチのオトンとオカンを殺した、アイツを、この手で……っ!」
俯き震える紗良々の頬を、無念と怒りの結晶のような光の粒が伝った。
彼女の悲痛な姿が、蓮華の胸を容赦なく締め付ける。共鳴を起こすように、彼女の感情がそのまま流れ込んでくる。思わず蓮華まで涙が込み上げそうになって、キツく唇を噛みしめた。
これは理屈じゃない――蓮華にはそれが痛いほどわかった。他人が簡単に口を出していいはずがない。それは彼女の思いを踏みにじるのと同じだ。だから、蓮華はこれ以上彼女を咎めることなどできず、慰めることもできず、ただ隣で彼女の嗚咽を聞いているしかできなかった。
「――ほな、始めるで」
「ああ」
例の地下の祭壇から影無を持ち出してきた紗良々は、凜とした姿で本堂の正面に立ち、鞘に収めたままの影無を水平に構える。
「オン アビラ ウンケン ソワカ――我が境界に、我を閉ざせ」
彼女の唱える呪文に呼応し、影無が蒼白い光を帯びていく。
「天地蒼翠――境結の界」
影無を素早く四分の三回転させ垂直にし、鞘の先端を地面に向ける。そしてそのまま足下の大地を軽く小突くと、蒼白い波紋と共に幾何学的な魔法陣が広がった。これまで紗良々が見せてきた巨大な結界とは違い、手を広げるほどの広さしかない小さな結界。それはまるで、彼女を閉じ込める檻のようだった。
「何があってもウチをここから出したらアカンで」
「……わかった」
紗良々は鞘から影無を引き抜く。露わになった蒼白く発光する刀身は、何やら呪文のような文字が刻まれていた。
彼女は次いでその刃で軽く親指を切ると、血の流れ出たその親指を呪文の刻まれた刀身へとなぞるように一直線に這わせた。
「我が名は御牧サラ。汝、我が声に応えよ」
彼女の魂の欠片とでも言うべき赤き血が掠れつつも影無の刀身を朱に染めた、その刹那――瘴気のような黒い煙が影無から吹き出した。
禍々しいその黒煙は紗良々の張った結界の外には出られないのか、小さな結界の中で嵐のようにせめぎ合いながら天へと昇っていく。
「プヒヒ。久しぶりやなぁ、影無。いきなりでスマンけども、契約破棄や。代わりに取引きしよか。ウチはアンタの力を求める。見返りは……ウチの魂全部や」
紗良々の要求に応えるかのごとく、黒煙は突如流れを変え、紗良々の全身を包むように乱気流を生む。
「プヒヒ……! こりゃ……えげつないなぁ……!」
吹き荒れる黒煙の中で紗良々は引きつった笑みを浮かべた。それが、彼女の見せた最後の余裕だった。
黒煙にあてられた彼女の顔が、腕が、メッキを剥がすように崩れていく。
「ぅぐぁあ……ッ! ――っがぁあああぁああああああぁああッッッ!」
おぞましい絶叫が大気を震わせた。激痛を伴うのか、あるいは症状以上の苦痛が彼女を襲っているのか、紗良々は影無を落して膝から崩れ、のたうち回る。
剥がれ落ちた彼女の顔や腕は、瞬く間に自己再生をして元通りになっていく。そしてまた崩れては再生し、目まぐるしく繰り返される崩壊と再生――それは、肉体の再構築を行っているかのようだった。
「紗良々……!」
黒煙の中で悲鳴を上げながらのたうち回る紗良々のむごたらしい光景の前に、蓮華は平静を保つことなどできなかった。本当にこのままでいいのか、これは正しい現象なのか――そんな不安が付きまとう。
――だが、蓮華には紗良々を案ずる暇さえ与えられなかった。
唐突に、ぞくりと背筋を悪寒が襲う。
空気が変わった。冷たく、ピンと張った糸のように張り詰めている。その感覚を、蓮華はよく知っている。
木の葉の擦れる囁きのような無数のざわめき。それは次第に大きく、近くなってくる。
「そんな……どうして……!」
困惑するしかなかった。それは、木の葉が風に揺られて擦れる音ではない。無数の足音だ。
そして、そいつらは深い森の影からぞろぞろと姿を現した。蓮華たちを取り囲むように、餓鬼の群れが。その光景は、まるで餓鬼の巣に足を踏み入れたときのそれだった。
「ここは表側の世界なのに……!」
空には今も星が瞬いている。ヘルヘイムではなく、間違いなく表の世界だ。しかしすぐにハッとした。今日は月がない。
それだけではない。紗良々の持つ妖刀――影無。刀と言えど、怪異だ。怪異の匂いや気配に敏感な餓鬼がその気配におびき寄せられたのかもしれない。特にあの瘴気のような黒煙が原因のようにも思える。でなければ、これほどの餓鬼が表の世界にまでおびき寄せられるなど不可解だ。
「クソッ!」
今、紗良々を守れるのは自分しかいない――蓮華は果敢にバケモノの群れへと攻撃を仕掛ける。
まずは一匹目。素早く懐に潜り込み、渾身の力を込めて鋭く拳を放つ。骨が軋むほど握り締めた拳が餓鬼の腹の硬質な外殻を打ち砕き、吹き飛ばす。反動でびりびりと拳が痺れるが、鬼人の強化された肉体のお陰か、耐えられないことはない。
続いて二匹目。糸を引くヨダレを垂らした餓鬼が大きく口を開けて食い掛かってくる。蓮華は片足を軸に体を捻り、その大きな口を開いた餓鬼の顔面目掛けて上段蹴りを見舞う。綺麗な弧を描いた蓮華の脚は、的確に餓鬼の顎を捉え、首の骨をへし折りながら突き飛ばす。
さらに背後から爪を振り下ろしてきた三匹目。蓮華が身を屈めると、頭上すれすれを餓鬼の刃のような爪が通り過ぎていく。そのまま蓮華は地面に両手を着き、逆立ちのような要領で後ろ足を蹴り上げ、餓鬼の首へと両足で掴みかかる。首を絡め取った両足を捻り、締め上げ、最後に全身のバネを駆使して餓鬼を投げ飛ばす。
今ここで〝発作〟を起こすわけにはいかない。だからこそ肉弾戦に挑んだのだが……結果は上々。緋鬼の鬼人となり並外れて飛躍した身体能力を活かせば、鬼の力に頼らずとも戦える。
蓮華は勝機を確信して再び拳を握り締め、餓鬼の群れへと突撃を繰り返す。戦術の知恵も知識もないバケモノどもは、ただ野性的に、無造作に爪を振り下ろし、大口を開けて噛みついてくる。そんな奴らの振り下ろされた腕を回避してへし折り投げ飛ばし、時に顔面を横から殴り飛ばして砕き、時に隙だらけの土手っ腹を蹴り抜き粉砕し、一匹ずつ確実に仕留めていく。いたずらに跳ね回るボールのような蓮華の身軽な動きは、餓鬼の群れを翻弄し続けた。
だが、四方からうねりながら飛び出してきた赤黒い業血が両手足に巻き付き蓮華の動きを止める。蓮華を囲むように四角く陣を取った一際大きな体躯の餓鬼が業血を放っていた。どうやら鬼の力を持つ餓鬼も混ざっているらしい。
「く……ッ!」
やむを得ない。鬼の力を解放して手足を縛る業血を導火線のように燃やし、本体の餓鬼を発破。周囲が爆炎により紅蓮に染まる。
その爆破音の直後、金属を引っ掻くような歯がゆい音が鳴り響いた。見れば、紗良々の結界に何匹かの餓鬼が群がり、こじ開けようと鋭い爪で引っ掻き回していた。
「くそっ!」
すかさず駆け出し、一匹の餓鬼の脇腹へと掌を押し当て、火炎を放射。凄まじい熱風を吹き荒れさせ、弾道にいた数匹を纏めて灰に変える。討ち漏らした一匹の餓鬼が標的を蓮華へと変えて襲い来るものの、素早く投げ技を極めて地面へとねじ伏せ、その頭部を押さえつけて最小限の力でゼロ距離爆破。爆竹のような破裂音を鳴らし、餓鬼の頭が吹き飛ぶ。
「紗良々! 無事――」
無事か、と声をかけようとして、言葉が出なくなる。
「ゥウウウァアアアアアァアアアアッッッ!」
紗良々はおぞましい叫び声を上げながら、がむしゃらに結界へと体当たりを繰り返していた。いや、苦しみのあまり暴れ回っているのだ。未だに崩壊と再生を繰り返す体からはデタラメな稲妻が迸り、結界の中で踊るように電流が跳ね回っている。
さらに、紗良々の目は黒く変色していた。白目がなく、眼球全てが黒一色に染まっているのだ。まるで悪魔にでも取り憑かれたように。
「本当に大丈夫なのかよ……紗良々……!」
紗良々の状態が気がかりでしょうがない。が、気を散らしている場合でもない。あれほど蹴散らしたはずなのに、周囲にはまた餓鬼の群れが出来ている。倒したそばから際限なくわらわらと湧いて出てくるのだ。どこか近くに隙間があるのだろう。
「ちくしょう……!」
キリがない。でも――やるしかない。
蓮華は力を込めた人差し指と中指の指先で地面に弧を描く。その指先の後を追うように赤く揺らめく焔が上がり、次いで蓮華は力強く地面に両手をつく。描かれた弧状の炎は業火と化し、激しく波打つ水面のように大地を這って放射線状に広がっていく。一瞬にして周囲を火の海に変えた蓮華の炎は餓鬼の群れを丸呑みし、一網打尽にして焼き尽くした。
「はあ……はあ……ッ!」
血の消耗よりも肉弾戦による疲労が激しい。脚も拳も悲鳴を上げていた。
もう湧いてこないでくれ――とささやかな希望を持って願望を抱いた時。しかしそれは訪れた。
脊髄を下から上へと、電流の走るような悪寒が走る。とてつもなく邪悪な気配。それは、初めて緋鬼と邂逅したあの夜と似ていた。
蓮華は目を瞠ってその気配のする森の方へと視線を移す。そいつは深い影の中から溶け出すように現われた。たった一匹の〝黄色い餓鬼〟が。
六つの目が整然と並んだ長細い顔。かぎ爪のように長い指。背中からは牙のような湾曲した幾本ものトゲが突き出し、さらにそのトゲの間で常に蒼白い電流が弾けている奇天烈な体格構造。そして中でもやはり特筆すべきは、その体色だろう。その餓鬼は、菜の花のような鮮やかな黄色い体に黒い斑点模様が浮かんでいた。
一般的な餓鬼とはかけ離れて異質な形態、体色、気配。そして――電流。蓮華はすぐに直感する。
「菜鬼……!」
餓鬼の中でも特に強い力を持つとされている三色鬼。その一匹である雷を操る餓鬼――菜鬼。蓮華は見たことがあるわけでも、それどころかどんな姿をしているかを聞いたことがあるわけでもない。だが、確信できた。コイツが菜鬼だ――と。
手に汗の滲む緊張感を覚え、何が起きても対応できるよう体勢を整える。しかしその時、蒼白い光の残像が目に焼き付く。そして次の瞬間、
「な――ッ!?」
目の前には既に菜鬼がいた。充分以上に警戒していたつもりだった。なのに、まるで目が追いつかなかった。蛇塚と同じ動きだ。迅すぎる。
菜鬼が雷を纏う腕を振り払ったところで蓮華は辛うじて反応が追いつき、腕を構えてガードを固め、胴体への直撃を免れる。だが、
「ぐぁッ!」
鉛の塊でも飛んできたのだろうかという衝撃が腕に突き抜け、ガードごと弾き飛ばされた。
地面を三回ほど転がったあと、なんとか体勢を立て直す。腕には先ほどの衝撃に加え、ビリビリと筋繊維を刺すような痺れる痛みも蝕んでいた。恐らく、菜鬼の腕全体に纏っていた電流のせいだろう。つまり、触れるだけでダメージを受けるということだ。
蓮華の額に冷や汗の伝う中、菜鬼の周囲にまるで雷鼓のように六つの電流の球が浮かび、ゆっくりと回転を始める。それらはカッと眩い光を放つと、蓮華に向けて怒涛の雷を落とした。
「く……ッ!」
もう発作を恐れて出し惜しみをしている場合ではない。蓮華はマシンガンの如く降り注ぐ雷撃に対し横に走り抜けて回避しつつ、避けきれないものに火球で応戦し相殺していく。雷撃と火球の衝突する度に爆音と爆風が吹き荒れ、闇を打ち払うほどの閃光が辺りを包む。
何度目かの相殺で爆炎によりお互いの姿が隠れた、その時。蓮華は右手に炎剣を造り出し、菜鬼の周りを回るように走っていた脚を九十度旋回させ、爆炎の中を潜り抜けて中心へ飛び込む。そして爆炎を抜け菜鬼の前に飛び出した瞬間、
「はあッ!」
菜鬼の胴体へと渾身の力でもってそれを振り抜いた。
爆炎の中からの完全な奇襲。捉えた――と確信を得た。だが、それは慢心だった。
蓮華の振るった炎剣は何の感触も伝えないまま風を裂く。切っていたのは、蒼白い残像だった。菜鬼は蓮華の間合いの外、もう半歩ほど先にいる。恐るべき反応速度と素早さで斬撃を回避していた。
そして、再び菜鬼の周囲に漂う電流の球が煌めき、雷鳴が轟く。それは炎剣を握る蓮華の右腕に直撃し、肉の欠片も残さず木っ端微塵にして吹き飛ばした。