第三十一話 二百年の追想
綾女の『布石』による事態の発展は、まさに冷や汗ものだった。紗良々だけでなく蓮華にまで危機が迫り、危うく丈一郎は手を出すところだった。水を通して見ていた丈一郎は最悪の事態を考慮して自らあの現場に赴き、隠れて監視していたのだ。
綾女の企みが失敗に終わったことは安堵しかない。だが、この失敗によって綾女がさらに暴走しなければいいが……。
そんな不安の芽を感じながら丈一郎は一人ヘルヘイムを歩き、路地へと進んでいく。
「――久しぶりだな、丈一郎」
そこで落ち合ったのは、分厚いコートを羽織った辛気くさい男――暮木だった。
「お久しぶりです、暮木さん。先ほどは災難でしたね。皆さんが無事で何よりです」
「話によると、イエロースネークのボスの記憶がいじられていたそうだが……餓鬼教の仕業か?」
「お察しの通りです。三ヶ月前、そのイエロースネークのボスの蛇塚という男が綾女さんに手を出して、彼女は返り討ちにしたそうです。梶谷さんとのデート中に襲われたため大層ご立腹したようで……殺しかけたのですが、しかしそこで悪巧みを思いついてしまった。梶谷さんの催眠により記憶を改竄し、全て紗良々さんの仕業にしてしまったのです。そうして、復讐の矛先が紗良々さんに向くように仕向けた、というわけです。あなたたちが東京に来てしまったのが運の尽きですね」
「厄介なことをしてくれたもんだ……」
暮木はやれやれと溜め息を吐いた。
「あなたから私に呼びかけがあるなど珍しい。そんな事実確認のためだけではないのでしょう? まあ、用件は察しがついていますが。緋鬼のことですね?」
「ああ、その通りだ」
暮木は瞳を閉じて頷いた。
「お前はアレをどう見る?」
「そう疑問を投げかけるということは、暮木さんも薄々感づいているのでは? アレが本物の緋鬼ではなく、偽物であると」
「……そうだな」
暮木は溜め息交じりに肯定した。
「俺はあの日、確かに緋鬼の腕が蓮華の一撃によって吹き飛んだのを見た。だが、あいつはその腕が何事もなかったように再生していた。俺は文献で読んだ事実しか知らないが、緋鬼は自らの呪いで生み出した鬼人しか喰えないんだろう?」
「ええ、その通りです。それについては二百年前、私がこの目で見ているのですから保証します。緋鬼は他に転がる死肉には目もくれず、兄だけを喰らい、傷を癒やし、力を回復させたのです……」
薄く開いた丈一郎の瞳の奥には、遙か昔、二百年もの歳月を超えた過去の情景が浮かんでいた――
丈一郎は貧しい家柄に生まれた一人っ子だった。
権力もなければ財力もない。食べていくのでさえ精一杯な、そんな貧しい家だ。
満足に食べることもできなかった丈一郎は、それ故に力も弱く、気も弱く、村の同年代の子供たちからは無情にも石を投げられ、無意味になじられ殴られ、イジメの標的にされる日々を送っていた。
そんなある日だ。すでに地獄の縁を歩いていたような丈一郎に、無慈悲にも更なる不幸が降りかかったのは。
丈一郎の両親が病に倒れ、亡くなった。
命の綱が切れた瞬間だった。その時まだ九つだった丈一郎に、まだモラルも社会制度も充分に整っていない江戸の弱肉強食世界を生き抜く術などなかった。
弱き者は死ぬしかない。周りが助けの手を差し伸べることなどない。そもそも丈一郎の生まれ育った貧窮な村では、そんな余裕のある者などいなかった。
しかし、死にたくはなかった。どんなに惨めでも生きていたかった。だから毎日のように隣家を巡って飯をせがみ、残飯を喰らって飢えを凌いで生きた。
当然、そんな生活が長く続くはずもない。周囲からはやっかまれ、イジメはただの暴力に変わり、さらに容赦なく丈一郎を追い詰めた。
そうしていつものように村のいじめっ子たちに囲まれ足蹴にされていた時だった。
「何しとんじゃキサマらぁ~!」
なまった少年の声が空気を切り裂いたかと思うと、丈一郎を囲んでいたいじめっ子たちを腕っ節一本で瞬く間にねじ伏せていく。その中にはケンカ自慢なガタイの良いいじめっ子もいたが、お構いなしだった。結局、その少年はたった一人でいじめっ子八人を圧倒し、撃退してみせた。
「覚えとけ! わしゃあイジメが大嫌いじゃ! わしの前で誰かをいじめてみろ! 千倍返しにしてとっちめてくれるわ!」
それが後に兄となる男――戸賀里義光との出会いだった。
「ったく、なして人は誰かをいじめたがるんじゃ。自分がいじめられたらどう思うか考えられんのじゃろか。情けない話じゃ。……おい、お前。立てるか?」
この村では見ない顔の彼に、丈一郎はきょとんとしつつも差し伸ばされた手を握って立ち上がる。しかし立ち上がった途端、
「こんのバカタレがぁ~!」
頭をひっぱたかれた。
「なして抵抗せんのじゃ!? 男ならやり返せ! それとも金玉ついとらんのかお前!」
衝撃で頭が揺れる。目の前がぐるぐるとした。
「し、しかし……私は力も弱く、とても勝てる相手では……」
「負けるのがわかっても立ち向かわんかい! じゃなきゃ悔しいじゃろがい!」
彼は丈一郎とは正反対に、荒波のような少年だった。
「ったく。いじめも嫌いじゃが、わしは女々しい男も嫌いじゃ。親の顔が見てみたいわい。とっとと帰って母ちゃんのおっぱいでも吸っとれ」
「……親は、いません。病に倒れ、死にました。身寄りも、帰るところも……ありません」
その一言に、彼は打って変わって気まずそうに頭を掻いた。
「……すまんかった。わしも言いすぎたわ。お前、名前は?」
「丈一郎です」
「わしは義光じゃ」
不意に彼から手が差し出され、丈一郎は戸惑った。
「ほれ、和解の握手じゃ。はよ握れ」
丈一郎は恐る恐るその手を握り返す。同じ頃の歳のはずの彼の手は、丈一郎の手よりも数倍力強く、逞しく感じた。
彼は満足そうにニカッと歯茎を見せて太陽のように笑う。
「お前、身寄りがないならわしについてこい。二度といじめられんよう、鍛えたるわ」
そうして半ば強引に丈一郎は村の外に連れ出された。
「わしの家はあの山の向こうの隣町にあるんじゃ」
「え、あの山の向こうって……」
そこに何があるのか、丈一郎は知っていた。丈一郎の住んでいた村の人間など近づくのも恐れ多い、名高い武士の家が集う町だ。
まさかと思ったが、そのまさかだった。義光は武士の家柄の子供だった。
完全に畏縮してしまった丈一郎だったが、しかしやはり義光の父と母も鏡に映したように情に厚い人たちだった。
快く丈一郎を受け入れ、勿体ないほどの衣食住を与えられ、そして特訓の日々が始まった。
月日が流れ、義光は丈一郎を弟のように愛で、丈一郎は義光を兄のように慕い、やがて丈一郎は『戸賀里家』の子として認められ、二人は本物の兄弟になっていた。
そうしていくつもの年が暮れ、切磋琢磨し逞しく成長した二人は幕府に仕える武士へと成り上がる。
だがある日、異変が起きた。それは、城下町での噂がキッカケだった。
町民たちによると、月明かりのない夜になると鬼が現われ、人を攫っていくという。にわかには信じがたい話だったが、事実として行方の知れない町民が何人も出てきているとのことだった。
かくして義光の率いる『討伐隊』が結成されることになり、月明かりのない夜には巡回が行われるようになった。そしてある日の夜――その『討伐隊』の行方が消えたのだ。
屈強な武士の部隊が消えたとあって、たちまち周囲は騒然となり、人々の心に恐怖が染みついた。丈一郎は消えた『討伐隊』の捜索を申し出るものの、恐怖に膝を崩した彼らからはもう誰一人として賛同を名乗り上げる者はいなかった。
丈一郎は一人で捜索を始めた。『討伐隊』が向かったとされる山中を昼夜問わず歩き回り、たった一人で闇雲に彼らを探し回った。その山は、江戸から遙か西へと進んだ先、現代で言うところの東京都と埼玉県、山梨県の県境付近だった。
手掛かりも痕跡も何もない彼らを手探りで探すというのは、先の見えない霧の中を歩くような途方も暮れる方法だった。
そうして二週間が経ち、周りからはもう諦めろと言われ始めた頃。いつものように闇空の下で山中の雑木林を探し回っていた丈一郎は、そこに遭遇した。
おびただしい血痕と共に散らばる『討伐隊』の彼らの食いちぎられた無残な残骸。そしてその中心に立つ、深い闇夜の中でぼんやりと紅い光を放つ単眼の〝鬼〟の姿。
負傷しているのか、左肩から先がない。もう片方の右肩から生えた腕に関しては、肘から先が二本に枝分かれした奇妙な構造の腕をしていた。
そして、そんな鬼と対峙して刀を構える一人の男がいた。義光だった。
「兄様!」
「丈一郎……!? なぜここにおる……ッ! ええい、早よう逃げるのじゃ!」
「何を言っておられるのですか! 私も共に――」
丈一郎も刀を抜きつつ馳せ参じようとした、その時。
「避けろ馬鹿者!」
義光の忠告が鼓膜を揺すったのとほぼ同時、丈一郎の体が強烈な水弾により弾き飛ばされた。
「ぐはっ……!」
樹木に叩きつけられて呻きを上げ、何が起きたのかと前を見る。
そこにいたのは、枝のように細く長い体をしたバケモノだった。
異様に長く細い腕と脚。深い蒼をした体表。三つの瞳。額から突き出る一本の角。カチカチと高速で歯を打ち鳴らす口元――何もかもが奇天烈な鬼のバケモノだった。
蒼い鬼は細長い腕を伸ばし、丈一郎を指さした。その指先に渦巻く水球が出現し、まるで鉄砲玉のように風を切って射出される。丈一郎はわけもわからず、それを呆然と見過ごしていた。
だがそれが丈一郎に届くよりも早く、紅蓮の炎が目の前を通り過ぎる。
義光の振りかざした刀が水球を切り裂き散らしていた。どういうわけか、彼の振るう刀は赤熱し、炎を上げていた。
「あ、兄様……!」
「逃げるのじゃ丈一郎!」
間髪入れずに義光は地面を蹴り、一瞬にして蒼い鬼の懐へと潜り込む。紅蓮の刃を振り上げると、蒼い鬼の枝のような腕を切り落とした。
「キシャァアアァアアア!」
糸を引く唾をまき散らしながらおぞましい悲鳴を上げ、蒼い鬼がよろめき後退る。
――だが、義光の顔に焦燥が刻まれた。
彼の足下が凍り付き、地面に貼り付いていた。さらに、身動きの取れない彼に向けて紅い鬼が牙の生えた大きな口を開き、その口先に火球を生み出していた。
「しま――ッ!」
視界が白み、焼け付くような熱風が吹き荒れる。
再び視界が晴れた頃、目の当たりにした光景に丈一郎は言葉を失った。
「ああ……あああ……! そんな……兄様……!」
義光は、半身が吹き飛び焼け焦げていた。およそ人間では生命を維持することが不可能な状態でありながら、彼は全てを悟ったような虚ろな目で丈一郎を見やる。
「逃げ……ろ……じょういち……ろ……」
魂を振り絞ったような掠れた声。それが、彼の最後の言葉だった。
紅い鬼が彼を摘まみ上げ、胴体から豪快にかぶりつく。ばきぼきと耳にまとわりつくような気味の悪い咀嚼音と共に、彼は鬼の口の中に消えていく。
彼が鬼の中へと消えていく分だけ、紅い鬼の左肩から肉が膨張を始め、失われていた左肩から先の腕が蘇生されていく。
さらに蒼い鬼までもが、散らばった『討伐隊』の彼らの死肉を漁り始めた。紅い鬼と同様に、蒼い鬼の切り落とされた腕が蘇生を始める。
義光が一欠片の肉片も骨も残らず紅い鬼に喰われた頃、二体の鬼は何事もなかったかのような完全復活を遂げていた。
食事を終えた紅い鬼は単眼の瞳で丈一郎を見下ろす。恐怖で凍りつく丈一郎に、紅い鬼は無関心を示し、その場から去って行った。だが、蒼い鬼はニタリと口元を歪め、丈一郎に指をさし伸ばす。
「うぐっ!」
指先から放たれた鉄砲水が丈一郎の脇腹の衣服を破く。強烈な痛みが脇腹を叩いたが、貫かれたわけではなかった。代わりに、そこには不穏な赤い痣が浮かび上がっていた。
それが最後の置き土産のつもりだったのか、蒼い鬼はそれ以上丈一郎に構うことなく、紅い鬼の背中を追って消えていった――
あの時、兄と共に死ねなかった自分を何度悔やんだことか。そして呪いという形で力を得て復讐の機会を得られたことをどれだけ幸福に思ったことか。その複雑な心情は、今も丈一郎の胸の奥で絶えることなく燃えたぎっている。
「とは言っても、後にも先にも、私の兄率いる『討伐隊』以外が緋鬼を負傷させたところなど私は見たことがありませんので、緋鬼が回復したところを見たのもその一度きりなのですがね」
「しかしどの文献にも、緋鬼はその灼熱のせいで己の呪いで造り出した耐火性のある鬼人しか喰えないという記述しか見当たらない。信憑性は高いだろう」
暮木は同調を示しつつも「だが」と続ける。
「そうなればあの腕の再生されていた緋鬼が偽物という確信がさらに強くなってしまう。偽物の緋鬼など、そんな存在があり得るのか?」
「何者かの特殊な鬼の力……という可能性もありますが、私にもわかりません。」
「偽物の緋鬼をつくる鬼の力、か……? そんな鬼の力は聞いたこともないがな」
「ま、例えですよ。餓鬼の持つ鬼の力は時と共にバリエーションも増えていきますから。それに、暮木さんはご存じでしょうか? そもそもなぜ、餓鬼が様々な鬼の力を持っているのか」
「いや、知らんな」
「餓鬼は生まれながらにして『業血』の力を持つ上級の種が存在します。しかし、その『業血』の力すら持たない餓鬼は、代わりに怪異を喰らうことでその怪異の特性を取り込むことができる能力を持っているらしいのです。怪異の数が激減し喰らうことができなくなった今では、ほとんどの餓鬼が他の怪異の力を取り込むこともできず、鬼の力を持たないまま生きているというわけです。ですから新種の怪異が現われれば、その怪異を喰らって新たな鬼の力を得た餓鬼が生まれる。この件も、そんな新たな鬼の力を持つ餓鬼のしわざかもしれません」
この二百年の間、丈一郎は血眼になって餓鬼についての情報をかき集めてきた。おそらくこの時代に自分以上に餓鬼に詳しい者などいない――そう言い切れる自負があった。
「では灰鬼が様々な鬼の力を使えるのは、喰らった怪異や餓鬼、鬼人の力を取り込んだからだとでもいうのか?」
「いえ、灰鬼の場合は少し話が異なります。どうやら特性を取り込めるのは一度限りのようで、特性を取り込んだ餓鬼は通常種の餓鬼よりも体構造を大きく変貌させる『進化』を経て、特性を取り込む能力を失ってしまうのです。灰鬼の場合は他者の特性を取り込んでいるのではなく、『複製』という能力の応用によって他の餓鬼の能力を『コピー』して使うことができるのでしょう」
「つまり、余計タチの悪い能力というわけか」
暮木は重たい息を吐いた。しかし丈一郎はふと笑って見せる。
「そう気に病むことはありません。もうすぐ、この苦しみの世界から抜け出せるのですから」
「『天冠の日』か……」
「ええ。近々、餓鬼教が蓮華くんを奪うために動き出します。きっと、彼は為す術なく餓鬼教に捕らえられてしまうでしょう。しかし、ご安心ください。餓鬼教の思い通りになどなりませんから」
丈一郎は和やかな笑顔を浮かべながらも、目元だけは笑わせず企みに満ちた光を宿していた。