第六.五話 秘術
反り立つ氷壁を前にして紗良々はしばらく怒りに歯噛みした。
最悪の男と引き合わせてしまった。このままではまず間違いなく、蓮華はバケモノにされる。
「……暮木」
「ああ」
暮木は紗良々に呼ばれただけで全てを理解したように、虚ろな顔を頷かせてヘルヘイムの闇の中へと飛び込んでいき、丈一郎と蓮華の後を追った。
「まさか、もう〝餓鬼教〟が感づいとったなんて……!」
あまりに早すぎる。もしかしたら彼らは、ずっと待っていたのかもしれない。この時を。
「ごめんヨ、紗良々たん……。気がついたらもう丈一郎に潜り込まれてテ……」
「事前に気付いたところで無理やろ。アイツは正真正銘の……バケモンや。あんたらに止められるわけもあらへん」
バケモノの世界を二百年以上も生き抜いた、バケモノの中のバケモノ。あの男は、紗良々でさえも太刀打ちできない。ターヤンたちには尚更どうにかできる相手ではない。
「この先は最優先で丈一郎を警戒する。あの小僧は一先ず放置や。〝この術〟が発動しとる限り、あの小僧が人を喰うことはあらへん。……プヒヒ。長い正念場になりそうやなぁ……」
紗良々は強情に笑みを浮かべたが、その額には脂汗が滲み、ついにはその場に膝を崩した。
「紗良々たん!」
ターヤンが駆け寄る。紗良々は腹部を押さえ、荒く呼吸を乱していた。
その痛ましい姿を見て、今度はターヤンが歯を食いしばった。
「やっぱりボクはあのクソガキが嫌いダヨ。こんなに尽くしている紗良々たんに向かっテ、バケモノだなんテ……!」
「それで怒っとったんか……。プヒヒ。あの小僧にしたら、知ったこっちゃないっちゅう話やろ。ウチが勝手にやっとることなんやから」
紗良々はターヤンの肩を借りて立ち上がった。そして俯きながら、自信を喪失したような弱々しい声を吐いた。
「……ターヤン。もしウチが暴走したら……そん時は頼むで。殺してでも止めてくれや。人を喰い殺すなんて……絶対に嫌や……!」
路面に涙の雫が落ちるのを見てターヤンは瞳を丸くし、しかしすぐに力強く微笑んだ。
「……安心しテ。絶対に殺さないシ、人も襲わせないヨ」