第二十八話 桜木誠
誠が鬼人になったのは約三年前。十九歳の時だった。高校卒業と同時に上京して土木事業関係の仕事に就いていた誠は、社会に出てから一年が経過し、都会での生活にも慣れてきた頃だった。
いつもの仕事帰り。何ら変わらない日常の一幕。夜遅くというほどでもなく、コンビニで夕飯を買ってからアパートへと帰る、いつもの道すがらだった。誠は突然、影に飲まれた。
気を失っていたのか、目が覚めるとヘルヘイムにいて、手の甲に不気味な赤い痣があり、異常な空腹と喉の渇きに襲われていた。コンビニで買っていたパンに無心でかぶりつくと、それは炭になり、お茶は蒸気へと変わった。
ひたすら困惑し、わけもわからず闇の世界をさまよい歩いていた時に偶然出会ったのが、骸門寺だった。だが、それが誠と骸門寺の決定的な出会いというわけではなかった。
骸門寺は餓鬼についてや誠の体に起きていることを落ち着いた声で説明し、元の世界への戻り方に加え、人間への戻り方までも教えてくれた。
「ここはロクな世界じゃない。二度と踏み込まない方がいい」
それだけ言い残して、骸門寺は去って行った。誠もその忠告を胸に、元の世界へと帰った。そして翌日には通常通り出社し、空腹を耐え凌ぎながら日常生活に紛れた。
――だが、誠は数日もせずに完全な鬼人になった。耐えることができなかった。その極限の空腹に。絶え間ない欲求に。
当時、誠には交際している美鈴という女性がいた。半同棲のような状態で、週末のその日、美鈴は誠の家に泊まっていった。自身の体に起きていることは彼女にも隠していた。いきなり宿泊を断っては浮気なども疑われかねないため、いつも通り振る舞うために彼女を泊めた。それが過ちだった。
体調が悪く食欲がないと嘘をつき夕飯を回避して、就寝した。そして、その真夜中。美鈴の悲鳴で誠は目を覚ました。
いや、我に返った。
ベッドに蹲る彼女は腕から血を流していた。強い歯形が残る傷だった。誠の口の中は鉄の味がし、口元は彼女の血で塗れていた。
すぐに、体の細胞が書き換えられていくような違和感に襲われた。
誠はその事実に困惑し、思わずアパートを飛び出した。美鈴はそんな誠へと、恐怖よりも、心配を抱いたのだろう。彼女の呼び止める声が背中にかけられたが、誠はそれを振り切って駆け出した。
暗い路地の奥で蹲って震えた。自分が人を――恋人を喰おうとしてしまった事実が、怖かった。
だがいつまでもそうしていられない。こうなった以上、美鈴には全て説明しなくてはならないだろうと思った。もしかしたらもう逃げ出しているかもしれないという不安を抱えながらも家に帰ると、彼女は腕の傷を押さえながらベッドに腰掛けて待っていて、微笑んで出迎えてくれた。
信じてもらえないかもしれない。頭がおかしいと思われるかもしれない。誰だってこんな話は冗談だと思うに決まっている。そう思いながらも、ありのまま全てを話した。
美鈴は初め、置いてけぼりをくらっているようにきょとんとしていた。だが、証拠として食パンを囓ってみせて、目の前でそれが炭になったのを見て、瞳に驚愕を映し、誠を抱きしめた。
その胸の中で誠は泣いた。もう人間に戻れない。まともに食事も摂れない。一緒に歳を取ることもできない。これからは一緒にいられないかもしれない。そう泣きながら伝えると、それでも美鈴は「一緒にいたい」と言ってくれた。
その彼女の優しさに甘え、誠は交際を続けた。それが、誠の一番の過ちだった。
歳を取らない誠にとって、十年、二十年という長い期間を同じ職場、同じ地域で生活することは難しいだろう。あまりの見た目の変化のなさに違和感を覚える人が出てくるに違いない。だが数年であれば、まずバレることもない。だから誠は鬼人になってからも以前と同じ生活を続けた。十年後の話は、またその時に考えようと思った。
それから一年。問題なく人間の生活に溶け込み過ごしていたある日、その事件は起きた。いつも通り仕事を終えて帰宅しようとしていたところだった。
『誠! 助けて!』
美鈴の声が思念伝達のように、影を伝って聞こえてきた。
誠の鬼の力は『影』。影の中に潜って一定範囲内の任意の影に移動することや、範囲外であっても、鬼の力を込めて触れた相手の影になら移動することができる。ただしその場合、移動先の相手の『承認』が必要になる。
聞こえた美鈴の声は、その『承認』の合図だった。
すぐに美鈴の影へと移動を試みた。――だが、影移動が発動しない。考えられる原因は一つ。彼女が誠と同じ世界に存在しないということだ。
「まさか、ヘルヘイムに……!?」
鬼人に襲われた。そうとしか考えられない。『承認』の声も同じ世界にいなければ聞こえないため、初めは表の世界にいたが、すぐにヘルヘイムに連れ去られたということだろう。
すぐに誠も〝隙間〟からヘルヘイムへと入った。美鈴がヘルヘイムにいるのなら、誠もヘルヘイムへと入れば影移動が可能となる。ヘルヘイムは光のない世界だが、外はぼんやりとした不思議な明かりが保たれており、影ができる。室内の場合は何かしらの明かりがあることが最低条件になるが、相手が屋外にいれば基本的に影移動が可能だった。
影移動を試みると、無事に発動して誠は影に潜り込んだ。だが影から出た時、誠が見たのは絶望だった。
そこはどこかの教会の礼拝堂だった。祭壇に置かれたロウソクの明かりが揺らめいていた。
祭壇の前には大きな十字架が立てられていた。十字架の後ろで揺らめくロウソクの灯によって礼拝堂へと十字架の影が大きく伸びている。誠が出たのは、その影だった。
十字架にはキリストの磔刑のように人が打ち付けられていた。既に目は虚ろで、開いた口からは力なく舌が飛び出し、腹が切り開かれ、多量の血が滴り、臓物が引きずり出されている。その臓物を、一人の男が跪いて啜っていた。
「そんな……嘘だ……」
すぐには信じられなかった。磔にされ腹を切り開かれて喰われていたのは、美鈴だった。
「うわああああああああッ!」
心が音を立てて壊れて、誠はその男に殴りかかった。その男こそが、イエロースネークのボス、蛇塚だった。
蛇塚は体に電流を弾けさせると、次の瞬間には誠の目の前に現われ、軽い蹴りで一蹴した。その蹴りは腹部に直撃し、誠は数回転がってのたうち回った。
「テメェが桜木か……。俺たちのチームに入ることを断ったそうだなぁ。残念だ。断ってなきゃ、せめてテメェの女はこんな目に遭わなくて済んだかもしれねぇのによ」
この事件の起きる数週間前。誠はイエロースネークを名乗る鬼人のカラーギャングの男たちに勧誘を受けていた。彼らは誠の手の痣を見てすぐに鬼人と見抜いたのだろう。だが血みどろな世界になど興味もなければ関わりたくもなかった誠は、当然のように断った。その時に逆恨みを買い襲われかけたが、影移動を使って逃げたという経緯があった。
「お前は、そんな当てつけで美鈴を……!」
「嘘だ」
蛇塚は嘲るように舌を出して笑った。
「テメェを誘ったのは下っ端共の独断だ。俺はテメェがチームに入ろうが関係ねぇ。興味ねぇ。だが、テメェの女は気に入った。だから奪った。それだけだ。テメェが俺のチームに入っていても同じ事をしていた」
まるで世界が自分中心で回っているとでも言いたげな悪魔のようなセリフだった。
「ッざけんじゃねぇえええええええ!」
誠は怒りに任せて蛇塚に殴りかかった。だが、力の差は歴然だった。誠はほとんどサンドバッグのように一方的に殴られ、最後にはステンドグラスを突き破って外に投げ出された。
外には教会を取り囲むように、黄色い衣服を纏ったイエロースネークの下っ端たちが待ち構えていた。このまま彼らによって嬲り殺される未来が容易に想像できた。
影移動を使えば逃げることもできるだろう。だがその選択肢を選ぶ気にはなれなかった。美鈴に背を向けるようなマネをしたくなかった。
一矢報いることもできないのだろうか。そう思うと涙が込み上げてきた。
だが、その時だった。
突然、イエロースネークの下っ端たちが悲鳴を上げ、吹き飛んでいった。見ると、巨大な髑髏がイエロースネークの連中をなぎ払っていた。
肋から上の上半身だけの髑髏が地面から生えているような見た目だった。大きさは三階建ての建物にも匹敵するほど大きい。まさに日本の妖怪として語られる『がしゃどくろ』のような姿。そのおどろおどろしい髑髏が、大きな腕を振り回してイエロースネークの下っ端を蹴散らしていた。
よく見れば、その髑髏の下、ちょうど肋の中には人がいた。血のように赤いベストを着た、鍛え上げられた肉体を持つ大柄な男だった。
それが、誠の骸門寺との再会――決定的な出会いだった。
骸門寺が誠を髑髏の手で掴み上げようとすると、邪魔するように一筋の迅雷が光り、髑髏の腕を吹き飛ばした。蛇塚がオモチャを見つけた子供のような嬉々とした顔で骸門寺を見ていた。
髑髏の腕は瞬時に再生して元通りになり、その拳を蛇塚へと振り落とした。大地がひび割れ、揺れを起こし、砂塵が巻き上がる。その隙に骸門寺は誠を回収し、素早くその場を後にした。
彼の腕に抱えられ、誠はすぐ、彼が一年前に手ほどきしてくれた骸門寺であることに気がついた。
「あなたは……」
「何があったかは大体察しがつく。だが自暴自棄になるな。憎いのなら、生きろ。生きて、一矢報いてみろ」
その言葉に、誠は自分の愚かしさに気がついて、涙を流した。
「すみません……ありがとうございます……! 二度も助けられて、俺、なんて言ったらいいか……!」
「俺は俺のやりたいようにやっているだけだ。気にするな」
あの日にレッドスカルに入ることを決め、あれから二年。蛇塚を殺すことだけを考えて生きてきたが、しかしそれを成し遂げることができぬまま時だけが過ぎていった。
菜鬼の眷属の力を持つ蛇塚は恐ろしく強い。悔しいが、それは揺るぎない事実であり、認めざるを得なかった。骸門寺でさえ「一対一では敵わない」と首を振るほどだった。
また、誠の標的は蛇塚一人だが、敵はそれを許さない。蛇塚を相手取るということは、つまりイエロースネークの全勢力を相手取るということだ。虎の威を借る狐の集まりのような連中で一人ひとりの戦力は高くなく、蛇塚さえ除いてしまえばレッドスカルのメンバーの方が総合的に戦力が上なほどなのだが、数が集まればそれなりに脅威になる。誠一人でどうにかできるわけもない。
「仲間の想いはチームの想いだ。俺たちはいつでも協力する」
「誠のためならいくらでも体張るぜ!」
「そもそも、俺たちだってイエロースネークの奴らはいつかぶっ潰そうと思ってたんだ。遠慮はいらねぇよ」
どうすればイエロースネークの牙城を崩せるだろうかと相談を持ちかけたとき、そんなふうに、骸門寺もチームメンバーも協力的な言葉をくれた。
レッドスカルとしても、東京の各地で幅を利かせるイエロースネークとは衝突が絶えない。小さな争い事は毎日のように繰り返されている。だが、かといって誠の私怨でチームの存亡を賭けた潰し合いの〝全面戦争〟に発展させるなど、誠自身が許せなかった。骸門寺にもチームメンバーにも恩義を感じている。だからこそ、迷惑をかけたくなかった。
だから、踏み切れないでいた。頼れないでいた。――これまでは。
だが今日この日、誠はついに仲間たちを頼ることとなった。
それは日が落ちてしばらくして、表の世界でアジトにしている廃ビルに戻り仲間たちと談笑していた時だった。ヘルヘイムにもアジトとしている拠点はいくつか存在するが、この廃ビルが一番実用的で中心に利用されている場所であり、骸門寺もいつも寝泊まりしている我が家のような場所だった。今の時代、こうした持ち主不在の廃ビルは東京を探せばいくつも点在しており、意外と住む場所に困らない。
そんなアジトへと、イエロースネークの密偵を行っていた仲間が報告に帰ってきた。イエロースネークが妙なマネに出てもすぐに対応できるよう、常に密偵を放って見張りを行わせているのだ。二年前のあの日に骸門寺が誠を助けに現われたのも、その密偵の存在のお陰だった。
密偵が報告に帰還したということは、何かが起きたことを意味する。緊張した空気が走った中、密偵が口にしたのは、浴衣姿の赤髪の少女がイエロースネークのアジトへと攫われたことと、それを追いかけて一人の少年がそのアジトへ入ったこと、他にも彼らの仲間と思しき二人の鬼人が襲われているということだった。
誠はすぐ、その浴衣姿の赤髪の少女というのが、蓮華とともにいたあの少女のことだと察した。あんな特徴的な姿をした少女が他にいるはずがない。
誠はソファーに深く腰を落としていた骸門寺へと振り返った。骸門寺は、静かに頷いた。
誠は意を決して、仲間たちを見渡した。
「たぶんその人たちは、俺を助けてくれた命の恩人だ。……頼む。皆の力を貸してくれ。彼らを助けたい」
それからレッドスカルのメンバーを総動員し、ヘルヘイムへと入って報告のあった場所へと向かった。誠と骸門寺はイエロースネークのアジトにいる蓮華のところへ。その他の人員は半数ずつに分かれ、襲われている蓮華の仲間と思しき二人のところへ。
「骸門寺さん。もし蛇塚と戦うことになったら……その時は〝約束通り〟お願いします」
「……わかった」
骸門寺は逡巡するような躊躇いを見せながらも、頷いた。誠はその全ての想いを受け止めてくれる骸門寺の優しさに笑みがこぼれたが、すぐに前に向き直って顔を引き締めた。
「頼む……蓮華……! 早く『承認』を……!」
蓮華の『承認』の声が訪れぬまま時が過ぎ、件の美術館まで目と鼻の先となった頃。
『……たす、けて……くれ……』
聞こえた。蓮華の『承認』の声が。
「骸門寺さん!」
その呼び声に、骸門寺は全てを理解したように頷いた。誠は影に潜り、一足先に蓮華のもとへとたどり着く。そして蛇塚が蓮華の命を刈り取らんとしたその寸前、間一髪で蛇塚へと不意打ちの蹴りを見舞い、窮地を救うことに成功した。
そして、念願の宿敵である蛇塚を前にして、誠は感謝すら抱く。
ようやくこの時が来た。この時を待ち望んでいた。蛇塚とサシでやり合える、この状況を。