第二十一話 崩れゆく雲のような
形を崩しながら空を泳ぐ雲のようにもどかしい時間が流れた。
それは子供の頃に家族で大型ショッピングモールに出かけて迷子になりかけた時の気持ちに似ていた。
今まで住んでいた世界から一人だけ切り離されてしまったかのような孤独。もしかしたらこのまま戻れないんじゃないかという不安――たかが同じ建物内で迷子になっただけなのに、子供の頃はそんな大袈裟な恐怖を抱いたものだ。ふとそんなことを、蓮華は思い出す。
今、それと似た恐怖を感じていた。
いつものヘルヘイムのマンションの、紗良々の部屋。そのベッドで、部屋の主は安らかな寝息を立てて眠りについている。蓮華はそれをただ、見守っていた。
そうして時が過ぎ、紗良々が気を失ってからもう十数時間あまりが経とうとしていた。表の世界では日が昇って落ちて、再び夜が訪れている。彼女が目を覚ます気配は、一向にない。
「紗良々……」
蓮華は彼女の手を包むように握り、不安そのものが吐露してしまったような声を零す。その手は彼女をベッドで寝かせてからずっと離さず握っていた。
というのも、紗良々の手はまるで死人のように温度がなかったのだ。布団を掛けようとして彼女の手に触れたとき、その異様な冷たさに酷く驚いた。だからこうして手を取り、鬼の力を使い適度な温度を送って紗良々の体を温め続けている。
今の蓮華には、これくらいしか出来ない。彼女を温め、見守るしかできない。それがとてつもなくもどかしい。
対処法がわからない。そもそも、どういう現状なのかもわからない。わからないから、怖いのだ。未知は、恐怖を駆り立てて際限なく膨らませてくる。
ずっとそんな緊張状態でいるからだろうか。あるいは、ずっと鬼の力を使い続けているからだろうか。海の底に沈むような眠気が蓮華の瞼を重くする。
そうしてうとうとしかけていたとき、部屋のドアが開いた。入ってきたのは、ターヤンだった。
「紗良々たんの様子はドウ?」
「相変わらずだよ。ぐっすり眠ってる」
「そうカ……」
目に見えて落胆した息を吐いて、ターヤンはベッドの横に腰を落とした。
「蓮華もそろそろ疲れたダロ。少しは休んだらどうダ?」
「……そうだな。ちょっと休憩させてもらうよ」
蓮華は自分の親指を軽く噛み切る。その傷口から小さな宝石のように滲み出た血を使い、紗良々の手の甲に「一」の字を描く。それに文字としての意味はない。要は、血を塗ったのだ。
紗良々が操られた麗との戦闘中に流血を用いて雷の力を使ったように、流れ出た『血』でも鬼の力を行使することができる。蓮華としては初の試みだったが、蓮華が紗良々から手を離してからも、蓮華の塗った血によって鬼の力は継続して発動し、彼女の体を温め続けていた。どうやらうまくいったらしい。
これで休憩中も安心だろう。蓮華は肩の力を抜いて立ち上がり、凝り固まった体をほぐすように思いっきり伸びをする。
「ボクも紗良々たんを温めてあげたいケド、ボクは物理的に温めることしかできないからナァ……。……ハッ! もしやこれハ、紗良々たんと添い寝するチャンス!? 紗良々たんを抱きしめてボクの体温で温めてあげるしカ!」
「やめろ。紗良々が潰れる」
それにターヤンが息を荒げながら紗良々と添い寝している絵面はそれだけで犯罪的だ。
「それで、そっちの様子はどうなんだ?」
気を取り直して、蓮華は問いかける。
「こっちも相変わらずダヨ」
ターヤンは両手を上げて首を横に振る。
紗良々と同じように、リビングでは麗を寝かせていたのだ。またいつ梶谷が襲ってくるかもわからない。さらに緋鬼の件もある。だから麗の経過を見守るついでに匿う意味も込めて、彼らをこのマンションに招き入れていた。しかし、麗もまだ起きる様子はないらしい。
「外の方は?」
「アア、まさにそのことで話をしようと思って呼びに来たんダ。さっきくれっきーが帰ってきたところでネ。蓮華もリビングに来てくレ」
ターヤンと一緒にリビングに戻ると、ソファーで静かに眠る麗と、それを不安そうに見守る浩太郎たち、そして腕を組んで壁際に立つ暮木がいた。
「サア、くれっきー。状況を聞かせてもらおうカ」
ターヤンに促された暮木は、静かに口を開いた。
「……結論から言うと、緋鬼はいなかった。前回と同じだ。忽然と気配が消えている。愛奈にも協力してもらったが……」
「近くにあの赤い餓鬼の生体反応はありませんでした」
愛奈は暮木の言葉の続きを代弁した。ターヤンは重々しく溜め息を吐く。
「前回あれだけ探しても見つからなかったはずなの二……気配もなく現われテ、また消えタ。ワケがわからないネ」
「それに、確かに蓮華の吹き飛ばしたはずの腕が元通りになっていた。信じられんことばかりだ」
暮木は驚きを露わにしつつも、あの一瞬で抜かりなく緋鬼を考察していたようだ。蓮華は戸惑いのあまり細部まで確認は出来ていなかったが、しかしあの緋鬼が以前に蓮華と紗良々の前に現われた緋鬼なのだろうことはなんとなく察しがついていた。
「あんなに強いあんたらが必死になって逃げるレベルって……あの赤い餓鬼、そんなにヤバいのか?」
浩太郎は、その存在を知らぬが故の疑問を口にした。
「アレは餓鬼の王と呼ばれる存在ダ。まともにやり合ったらボクらなんか虫けら以下の扱いで殺されちゃうヨ」
「餓鬼の王……。そんな存在がいたのか……」
息の詰まるような暗澹とした空気流れ始めた――その時。
「ぐあ!」
「なんだ、これ……!?」
各々が呻き声を上げ、耳を押さえた。突然、三半規管を揺さぶるような微細な空気の振動が部屋に響き渡ったのだ。不快なその振動は次第に勢いを増していき、建物全体を揺らし、ついには次々と窓ガラスが割れていく。だが長くは続かず、やがて地震が収まるように震動は遠退いて消えた。
「何だったんダ、今ノ?」
不可解な現象にターヤンは困惑して首を傾げた。蓮華も初めはそれを地震のような『現象』だと勝手に思い込んでいた。だが、すぐに気がつく。自然災害など発生しないヘルヘイムでは、それはあり得ない。
それは空気の振動というより、音波のようだった。それが共鳴を起こし、建物が揺れ、ガラスが砕けたような。
そこで、蓮華はハッとする。
――音波……? まさか……!
自然災害ではないのなら、考えられるのは餓鬼や鬼人の襲撃しかない。そして、蓮華には一人心当たりがある。嫌な予感が背筋を撫でた。
すぐに紗良々の眠る寝室へと駆け戻る。ドアを荒々しく開け放つと、そこには窓の割れた無残な寝室と、誰もいないベッドがあった。
「紗良々……!」
紗良々の姿が、ない。