第六話 青の紳士
「大変でしたね。いきなりこんな世界に放り込まれてあんな目に遭うなんて。それでも、命があるだけ幸運な方ですが」
「……さっきは僕を助けてくれたんですよね? ありがとうございました」
「どういたしまして。私は戸賀里丈一郎と言います。丈一郎でいいですよ。君は?」
「あ、僕は白崎蓮華です」
「蓮華くんですか。よろしくお願いしますね」
常に笑顔を浮かべる爽やかな人だった。それに整った顔つきをしている。かなりのイケメンだ。
「元の世界への戻り方がわからないのでしょう? 案内しますよ。家はこの方角ですか?」
「あ、はい……そうです。ありがとうございます」
彼は全てを見透かしているような口振りで、蓮華は戸惑いを隠せなかった。
果たして信用していいのだろうか。
あの黒い背広の男の時のように、いつ襲われるかわからない。細心の警戒を払い、逃走の心構えは常にしておくべきかもしれない。
そんな疑心からか、蓮華はしばらく言葉が出ず、無言のまま歩く時間が続いた。しかし丈一郎はにこやかなままで、襲ってくる気配などなければ敵意も微塵も感じられない。
少しだけ蓮華の警戒レベルが下がった。というよりも、今のうちに必要な情報をこの男から聞き出すべきだと判断した。
「あの……丈一郎さん。歩きながらでいいんで、訊きたいことが山ほどあるんですが……」
「いいですよ。何でもお答えしましょう」
「じゃあまず、ここは何なんですか? 妙に暗いし、静かだし……」
「ここは、普段の世界とは少しだけ軸がズレた『人あらざる者の世界』です。我々は『ヘルヘイム』と呼んでいます。北欧神話に登場する死者の国の名ですね」
「ヘルヘイム……」
「バケモノしか立ち入ることのできない、世界の裏側のような場所です。こちらの世界には太陽も月もその他の星々も存在しない。だから表の世界が昼間だろうと、月明かりの眩しい夜だろうと、この世界は常に暗闇に包まれている。元々はバケモノたちの住まう世界だったらしいのですが、大昔、餓鬼が他のバケモノたちを食い過ぎて、ほとんどが絶滅してしまったと言われています。だから今ではこんなにも閑散としていて静かなんです」
それは紗良々の言っていた話と合致した。餓鬼が食い尽くしていなければこの不気味な世界にバケモノが溢れかえっていたのかと思うと、それはそれでゾッとする。
「こちらの世界には人間が存在しない、というより、普通は入れません。でも私たち鬼人なら、世界の至る所に生じている〝隙間〟からこちらへ出入りすることができますよ」
「隙間……?」
「そう、隙間。世界と世界の間に生じた亀裂と言ってもいい。その隙間は人には見ることができません。鬼人である私たちにははっきり見えるんですが……おっと、そういえば蓮華くんは鬼人もどきでしたね。今の蓮華くんでも、注意深く見ればわかるはずですよ」
「へぇ……」
存外、この世界は想像を超えたファンタジーで満ちあふれているのかもしれない。
と、そんな話を繰り広げていた矢先だった。丈一郎が手を挙げて制止を促し、足を止める。前方を見れば、道路のど真ん中に二匹のバケモノが佇んでこちらを見据え、牙の生えた大きな口からヨダレを滴らせていた。
「が、餓鬼……!」
「安心してください。彼らの狙いは私です。彼らは鬼人もどきの蓮華くんを食べることができませんから」
バケモノを前にし、自分が狙われていると自覚しておきながら、冷静でいて朗らかに丈一郎は言った。その言動には余裕があり、微塵の動揺も緊張も見られない。それどころか変わらず笑みを貼り付けている。そんな彼を見ていると不思議と大丈夫な気がしてきて、蓮華の心も落ち着いていった。
「逃げなくて大丈夫なんですか……?」
「ええ。あれは〝鬼の力〟を持たない低級な餓鬼……雑魚の部類です。まあ見ててください」
言いながら、丈一郎はすくい上げるように腕を振り上げた。その軌道に合わせて地面に氷結が走って行く。それはカーブを描き、並んだ餓鬼二体の足下を素早く通過すると瞬く間に餓鬼が凍りつく。さらに全身に霜を付けて凍結した二体の餓鬼は、丈一郎が掌を握り締めると同時に砕けて散った。
「おっと」
丈一郎は唐突に背後に振り返り腕を伸ばす。その手は背後に忍び寄り襲いかかってきていた餓鬼の頭を掴み取っていた。バケモノたちは挟み撃ちする算段で襲いかかってきていたらしい。蓮華はそんな気配など微塵も感じ取れなかったため、ただただ目を丸くして驚くしかなかった。
丈一郎に頭を鷲掴みされた餓鬼は瞬時に凍結して固まると、ガラス細工のように崩れて残骸に変わり果てる。しかしその餓鬼の背後にもう一体、餓鬼が潜んでいた。好機とばかりに飛びかかったその餓鬼に、しかし丈一郎は顔色一つ変えず、体を半回転捻り蹴りを叩き込む。流れるように華麗で、静謐で、しかし風を切って鋭く振る舞われたその蹴りは、飛びかかってきた餓鬼の腹を的確に捉えて弾き飛ばす。電信柱へと衝突した餓鬼は、その瞬間に氷の破片となって飛び散った。
「さ、行きましょうか」
丈一郎は何でもないようにけろりと言って再び歩き始めた。まるで準備運動にも満たないとでも言いたげな様子だが、蓮華にとっては紛れもなく〝激闘〟の光景で、住む世界の違いを思い知らされた気分だった。
呆気にとられて立ち尽くし、危うく置いていかれそうになって慌てて丈一郎を追いかける。
「あの……さっきから使ってるその不思議な力は何なんですか……?」
「あれは〝鬼の力〟です。餓鬼はこの世に多種多様な個体が存在していましてね。中には不思議な力を有している個体がいるんです。鬼人になるということは、つまりその餓鬼に近づくということ。私に呪いをかけた餓鬼は、水を操る力を持っていた。だから私も同じく、水を操る鬼の力を使うことができるんです」
だからそれぞれ違う力を使っていたということだろう。一度だけだが蓮華が炎を操ることができたのも、呪いをかけてきたあの紅い餓鬼の力を受け継いでいるということだったわけだ。
「その使い方とかって、教えてもらえたりは……」
「おや、鬼の力に興味がおありですか?」
「興味というか、使い方を心得ておきたいなと……」
蓮華も背広の男に襲われた際に偶然に発動した鬼の力。今回はその偶然によって命拾いしたから結果オーライと言えるが、しかし場合によっては危険な事故を引き起こしかねない。日常生活の中で勝手に炎が出ては大惨事だ。だから、興味以前に使い方を知っておきたかった。もちろん、魔法のような力には中二心をくすぐられるし、興味が無いと言うと嘘になるが。
「そうですねぇ。今の蓮華くんは鬼人もどきですから、鬼の力は扱い難いかと。鬼人もどきの状態だと、うまく鬼の力をコントロールできないんです。鬼人になると簡単に使えるんですけどね。しかし、その使い方と訊かれると、少々困ってしまいますね……。例えば蓮華くんは、どうやって腕を動かしているかと訊かれて答えられますか?」
「いや、それは……」
「でしょう? それと同じです。昔は強く意識しなければ鬼の力を使えませんでしたが、今では手足を動かすように自然と使えます。大昔過ぎて、鬼人になりたての頃の感覚なんて忘れてしまいました」
言いながら、丈一郎は掌の上に氷の花を造形した。細部まで作り込まれた繊細な出来だった。
しかしそのずいぶんと大仰な言い方に蓮華は疑問を抱く。
「大昔って……丈一郎さんっていくつなんですか?」
「さあ。もう正確な数字は数えていません。でも二百年以上は生きてます」
「に……っ!? えっと……江戸時代から!?」
「ええ。元は家康公に仕える名もなき武士でした」
丈一郎の見た目は三十代前半といったところだろうか。老け過ぎてもおらず、若過ぎもしない大人の顔立ちだ。当然だが、とても二百歳には見えない。
紗良々が餓鬼に呪われると体の時間が止まるとは言っていたが、まさか二百年も生きる人が存在するとは思ってもいなかったため驚きを隠せなかった。生きる歴史の証人だ。
「どうです、鬼人になるのも悪くないでしょう?」
「えっ!? いやまさか……。べつに永遠の命なんてものにも興味はないですし……」
バケモノになんてなりたいわけないだろ、と内心吐き捨てる。永遠の命だとか若さだとかに興味がないのもそうだが、そもそもその代償が大きすぎる。バケモノの餌として狙われる毎日と尽きることのない飢餓感だなんて、あまりにも見合っていない代償だ。
「ということは、蓮華くんは人間に戻るつもりなんですね?」
「ええ、まあ……」
人間に戻る、という表現がまだ現実味を帯びず、曖昧な返答になった。半信半疑、というべきか、自分に起こっていることが未だに信じられない状況なのだ。しかし現実として何も食べられない体になっていて、異様な空腹と喉の渇きに襲われている。もう普通の人間ではない。バケモノ、なのだ。
「そうですか……残念です」
それは聞き逃してしまいそうなほど小さな声だった。不思議に思って丈一郎を見ると、彼はまたにこやかに微笑んだ。蓮華はどこかゾワリとするような寒気を感じたが、すぐに彼は前を向いて何でもないように歩き出して、気のせいだったのだろうかと自分を疑った。
「人間に戻りたいなら、もう鬼人と関わるべきではありませんね。命がいくつあっても足りませんから。特に……今日の蓮華くんの行動は褒められません。不用意に鬼人に近づいてはいけませんよ」
「あ、はい……すいません……」
それは紗良々にも咎められたことだった。
しかし、そこで疑問を抱く。
「どうしてそのことを……? 丈一郎さん、どこかで見てたんですか?」
それも、ずいぶんと初めから。
「ええ。私、身を潜めるのが特技でして。階段下に隠れて女子高生のおパンツを覗き見るのが私の日課です」
「爽やかな笑顔でぶっ飛んだ冗談言わないでください」
緊迫感すら感じて訊ねたというのに、返ってきた答えが女子高生のおパンツの話なのだから拍子抜けだった。そもそも、この爽やかイケメンからそんな話が飛び出すことに戸惑いすら覚えて、蓮華の肩の力が一気に抜けてしまった。ギャップが凄い。この人は警戒に値しない人物かもしれないとすら思った。いや、冗談ではなく事実だとしたらある意味危険人物だが。
「ところで、もう結構歩きましたが蓮華くんの家はまだ遠いのですか?」
言われて気がつけば、蓮華が初めて餓鬼に出遭った工業団地と蓮華の家のちょうど中間地点辺りまで来ていた。
「もう目と鼻の先、って感じです」
「そうでしたか。ではちょうどすぐそこに〝隙間〟があるので、一先ず元の世界に戻りましょう」
そう言って、丈一郎は指をさす。その先にあるのは歩道の横に建てられた電柱だった。
「……どこに〝隙間〟が……?」
近くに寄って電柱をくまなく見てみたが……わからない。何の変哲もない電柱にしか見えなかった。
「違います違います。こっちですよ。ほら、ここ」
丈一郎は電柱――ではなく、その横の空間、ちょうど歩道のど真ん中を縦に指先でなぞった。
その指先を凝視していると――
「ほんとだ……あった……」
ガラスのひび割れのような亀裂が空中を縦に走っていた。どうやらそれが世界の〝隙間〟と呼ばれるものらしい。
それに、この歩道は確かに蓮華があの工業団地に行くときに通る道だった。
「そこを通ってごらん」
言われるがまま、蓮華はその亀裂に体を重ねるように足を進める。境界に触れた途端、水面を突き抜けるかのような抵抗感。それを抜けると――騒々しいほどの命の歌声が聞こえてきた。
違う……今までが静かすぎたのだ。そのせいで虫や蛙の鳴き声がオーケストラの劇場にいるかのように聞こえてくる。
空には星々が瞬いている。月明かりがこちらを照らしている。
戻ってきた……帰ってきたのだ。元の世界に。
普段は気にも留めない虫の喧噪が、星々の煌めきが、とても安心できる。
「さて……こっちの世界に戻ればもう安心でしょうかね。いくら空腹の鬼人でも、人目のあるところで騒ぎを起こしはしないでしょう。あとは一人で帰れますね?」
「あ、はい! すいません、ありがとうございました」
本当に無事に送り届けてくれた丈一郎に蓮華は疑心を捨て、素直に礼を言う。この人はあの人殺しどもとは違いそうだ――そんな信頼すら抱いた。
そんな蓮華に、丈一郎はハットを少し浮かせて軽く会釈して返す。
「またご縁があればお会いすることでしょう。あるいは……近々私から会いに行くかもしれません。その時はどうぞよろしくお願いします」
「え? あ、はい」
「それでは、私はこの辺で。ごきげんよう」
そう言って丈一郎は後ろ足で下がり、水に溶け込むように〝隙間〟に消えた。
蓮華はなんだかどっと疲れが押し寄せてきて、息を吐く。
餓鬼、鬼人、世界の隙間、世界の裏側――
鬼の力とやらには正直胸の高鳴りを禁じ得ない。中二心がくすぐられてしょうがなかった。しかしあんな危険な橋を渡って生きていく気には到底なれない。今日の体験だけでももうお腹いっぱい。こりごりだ。
平穏に、無事に、そして安らかに生きていきたい。そう切に願いながら、蓮華は日常へと戻る道を静かに進むのだった。