第十九話 冷酷な刃
「――くッ! なぜだ……なぜ緋鬼がここにいるのです……!?」
爆炎に吹き飛ばされた梶谷は一頻り転がった体を立て直しながら現状の理解に苦しみ、悪態をついた。
「そもそも、どうして僕を……!」
緋鬼の口先の火球が煌めいて、梶谷はハッと顔に焦燥を滲ませる。咄嗟に分厚い業血の防壁を築き上げるが、壁の向こうで閃光が瞬いた瞬間、業血の壁は赤く熱を帯びていきはち切れるように爆散。跡形もなく消し飛んだ。
「やむを得ませんね……! 我らが神よ、非礼をお許し下さい!」
梶谷が渾身の力を込めて両手を地面に叩きつけると、ほぼ同時、緋鬼の直下の大地が砕け、巨大な業血の腕が飛び出す。その拳はアッパーの要領で緋鬼の腹へとめり込み、ドンと大気を振るわせるような衝撃音を打ち鳴らして緋鬼の体を僅かに浮かせる。しかし、それだけだった。
「なんて重さと堅さだ……ッ!」
梶谷は顔を苦く噛みつぶす。攻撃を仕掛けたはずの業血の腕の方に亀裂が走っていた。緋鬼の堅牢な外殻と筋骨隆々とした屈強な腹筋を前に、梶谷の鋼のような硬さを持つ業血が押し負けたのだ。
緋鬼は業血の腕を右腕の二本で掴むと、枝をへし折るように簡単に粉砕してみせる。さらに口から火炎がこぼれたかと思うと、
「しま――」
マグマのような炎流が辺りを飲み込んだ。
梶谷は情けなくも為す術なく腕で頭を守る守りの姿勢を取る。しかしまったくもって体が熱くないことを不思議に思い顔を上げ、息を飲んだ。
「これは……!」
流麗と輝く水が梶谷を中心に球状の膜を張り、吹き荒れる火炎の嵐から梶谷を守っていた。そしてその水の膜に手を翳す、濃紺色のスーツを着た紳士の後ろ姿。
「危ないところでしたね、梶谷さん」
「丈一郎様!」
フェルトハットの位置を直しながら言う丈一郎に、梶谷は歓喜の声を上げた。
「来て下さったのですね! なんとお礼を申し上げたら良いか――」
「御託は後です。このままでは二人とも焼き殺されてしまいますよ。さっさと逃げましょう」
丈一郎が軽く浮かせたつま先で地面をとんと踏むと、呼応するように水球の膜が弾けて凍り付く。その氷結現象は水球に留まらず、緋鬼の炎すらも凍結させ辺りを凍てつく銀世界へと様変わりさせた。
さらに丈一郎が緋鬼へと狙いを定めて重ねた両掌を突き伸ばすと、緋鬼を取り囲むように渦巻く水流が発生。渦巻く濁流は次第に凍結を始め、緋鬼を氷の牢へと閉じ込める。
だがそれもつかの間。氷の繭から赤い閃光が迸り、爆発と共に蒸発。数秒の足止めにもならず、緋鬼を解き放ってしまう。
しかし、その数秒に満たない時間で充分だったと言えるだろう。既にその場から丈一郎と梶谷の姿は消えていたのだから。
件の現場から必要以上に距離を取った丈一郎と梶谷は、薄暗い路地に息を潜めた。
「……どうやら追っては来ないようですね」
物陰から外を見回す丈一郎の一言に梶谷は心底安堵し、どっと息を吐く。
「丈一郎様……どうして緋鬼が東京におられるのですか……? それに、なぜ緋鬼の鬼人であるあの少年ではなく、僕を狙って……」
「わかりません。……が、今回の件ではっきりと違和感を覚えました。アレは、本物の緋鬼ではありません」
「本物の緋鬼ではない……?」
「ええ。この目で見て確信しました。確かに気配は緋鬼そのものでしたが、緋鬼を前にした時のあの独特の、心臓を凍らせるような寒気が感じられなかったんです。それどころか、私は本能的に勝機すら覚えてしまいました。本物の緋鬼を前にしては、そんなことはありえません。腕が再生していたことから考えても、もしかしたら灰鬼のような『分身』かもしれませんね」
「しかし灰鬼が分身を造れるのは灰鬼が『複製』という鬼の力を有しているからであって、炎の力しか持たない緋鬼にそのような真似はできないはずでは……」
「……そうですね。では『コピー』と似たような力を持つ餓鬼か、あるいはその鬼人が緋鬼に似せた存在を造って操っている――などという仮説も立てられますが、まあ今はどうでもいいでしょう。そんなことより……梶谷さん。私はあなたに一つ忠告をしなければならないようです」
梶谷の首元にひやりとした冷気が漂う。違和感なく自然な所作で振るわれた丈一郎の腕。手にはいつの間にか氷刀が握られ、その刃が梶谷の横首に添えられていた。
冷徹さそのもののような冷気が梶谷を凍りつかせ、ごくりと喉を鳴らして生唾を飲み込む。
「申し訳ありませんが、私は一部始終を見ていたのですよ。望月麗が彼らに奪われてからあなたがでしゃばったマネをしたところをね。私はあなたが出張るようなことになるなど聞いていませんでしたし、そもそもなぜ蓮華くんにまで危害を加えるようなマネをしたのでしょう? 『天冠の日』のために彼がどれほど大切な存在か……まさかあなたが失念するはずがないとは思いますが」
「も、申し訳ありません……。〝サンプル〟を取り返そうと思ったら、つい興奮して見境がつかなくなってしまって……」
「趣味に没頭するあまり周りが見えなくなってしまうのはあなたの悪い癖です。あなたとはもう長い付き合いになりますし、今まであなたの趣味を咎めるつもりもありませんでしたが……今回ばかりは看過できませんね。少々反省して頂きましょうか」
丈一郎の温度のない冷酷な眼差しが鋭く細められ、氷の刃が梶谷の首を薄く裂く。熱と錯覚してしまうほどの冷温が傷口から体内へと侵入し、それは次第に梶谷を体の内側から凍結させていく。
「じょ、丈一郎様……! おっ……ゆるしを……ッ!」
急激に熱を奪われた梶谷は痙攣するように体を震わせ、がちがちと歯を鳴らしながら許しを請う。やがて氷の刃が収められ、梶谷は力なくその場に膝から崩れた。
「次はありません。望月麗のことは諦めなさい。あなたには他にやらなければならないことがあるはずです。そうでしょう?」
梶谷が見上げると、逆らうことの許されない絶対零度の双眸が見下ろしていた。
骨の髄まで染み渡った恐怖に震え、梶谷は畏怖して頭を垂れる。
「はい――丈一郎様」