第十六話 二つの呪い
「――ぐぁあぁあああああッッッ!」
痛々しい悲鳴を上げ、浩太郎はその場に倒れ込む。首筋の肉は食いちぎられ、おびただしい血飛沫を上げていた。
「コウちゃん!」
愛奈の切羽詰まった悲鳴にも似た呼び声が響く。
「そんな、どうして……麗!? まさか……!」
信じたくない――そんな色の滲む天助の見開く瞳が、麗を見る。
麗は変わらず無表情のまま、くちゃくちゃと生々しい音を立てながら浩太郎の生肉を咀嚼し、飲み込んだ。そしてその背に、無情な殺意にギラついた赤黒い業血の翼を生み出す。
「チィッ! これだからガキンチョは……!」
紗良々は一つ舌打ちをこぼし、素早く雷撃を放つ。
その雷撃は麗の振り下ろした業血の翼を打ち砕き、麗もろとも吹き飛ばす。
「暮木!」
「ああ」
名前を呼んだだけの紗良々の合図で全てを汲み取ったのか、暮木は地面に手をつくと業血を走らせ、倒れた浩太郎と戸惑う天助を絡め取り、安全圏であるこちら側に引っ張り込む。
そしてすぐにコートのポケットから人間の干物肉を取り出すと、
「喰え」
小さくちぎって浩太郎の口へと無理矢理放り込んだ。
浩太郎が痛みに呻きながらもなんとかそれを飲み込むと、喰いちぎられた首の肉が増殖するように再生を初め、傷がみるみる塞がっていく。瞬く間に傷を完治させた浩太郎は、乱れた呼吸でハッと目を開き起き上がる。
「嘘だろ……? 麗……?」
「コウちゃん……。麗ちゃんは、もう……」
愛奈の紡ぎかけた答えが全てを物語り、浩太郎は、さらに天助も、言葉を失う。
そして業血の能力を駆使して紗良々と激闘を繰り広げる麗の姿が何よりもの逃げられない現実として、彼らにトドメを刺したのだろう。二人の顔に色濃く絶望の影が落ちる。
「でも、どうして麗があんなこと……! コウちゃんを襲うなんて、そんな……!」
未だに信じられないように天助は疑問をこぼす。
「わかんない……。蓮華さんと紗良々さんは洗脳がどうとか言ってたけど……」
不確かさを孕む愛奈の返答に、ターヤンが「アレは洗脳なんて生易しいもんじゃないヨ」と割って入った。
「恐らくアレは催眠ダ。彼女は今、自分の意思では動いていナイ。操られているんダヨ」
「催眠だって……?」
驚きのあまり口を開いたのは蓮華だ。
「脅されてるとか、何か吹き込まれてるとか、そういう話じゃないのか?」
「違うだろうネ。餓鬼教がどんな手口で教徒を増やしてるか前にボクが話したことあるノ、蓮華は覚えてるカ?」
「どんな手口……? ああ、確か家族を殺して、身寄りをなくさせて……」
「そうダ。そうして餓鬼教は鬼人の心の隙につけ込んで洗脳シ、教徒を増やス。デモ、あの子の場合はどうダ? あの子に親はいナイ。家族と呼べる仲間はいてもこうして生きてるシ、捕らわれて人質にされてるわけでもナイ。つまりあの子は奪われたものも脅される要素もないんダ。そんな子をあんな殺戮マシーンみたいに洗脳できると思うカ? そんなの残忍な拷問をしたって無理だろうネ。せいぜい抜け殻が出来上がるだけダ」
「確かに……」
弱みも隙もない彼女をたった二週間足らずで、人を躊躇いもなく殺そうとするほど洗脳することなど、普通では考えられないことだろう。それに、今の彼女は脅されているという様子でもない。まさに動かされている機械のようだ。
「でも、催眠なんてインチキ臭いこと本当にあり得るのかよ?」
「もちろんテレビでやってるような紛いモンじゃナイ。そういう鬼の力……つまり本物ダ。ボクも詳しくは知らないし操られた人を見るのは初めてだケド、餓鬼教に催眠の鬼の力を持つ男がいると紗良々たんから聞いたことがアル。恐らくそいつの仕業ダ」
「だったら止めてくれよ!」
浩太郎がターヤンの胸倉に掴みかかった。
「アレが麗の意思じゃないってわかってるなら、あの女を止めてくれよ! 麗はあんな奴じゃないんだ! いつも笑顔を振りまいてて、誰にでも優しくて、人を思いやれる奴なんだ……! だから頼む! これ以上麗を傷つけないでくれ! 麗を……殺さないでくれ……! 頼むから……頼むから……!」
彼の叫びは、最後に星の瞬きのような儚い懇願へと変わっていく。
「キミは何か勘違いしているようだナ」
ターヤンは呆れたように言う。
「紗良々たんがあの子を殺そうとしているように見えるカ? ボクにはまったくそうは見えナイ。反撃をしても静電気みたいな電撃ダケ。それもほとんどあの子の業血にしか当ててナイ。あの子を傷つけないヨウ、まるでガラス細工を扱うように戦っているじゃないカ。そもそモ、紗良々たんが殺そうと思ってたらあんな子瞬殺ダヨ」
「……じゃあ、あんたたちは本当に麗を助けるために……? でも、あいつは麗に何をしようと――」
「アイツじゃナイ。紗良々たんダ。いヤ、キミみたいなクソガキは敬意を払いつつ一定の距離を保って『紗良々さん』と呼ベ。じゃないと許さナイ」
ずいっと浩太郎の顔を覗き込んでターヤンは凄む。こんな時でもいつも通り揺るぎない紗良々への忠誠心だった。
ターヤンから刃向かってはならない何かを感じ取ったのだろう。反抗的な態度ばかりだった浩太郎も今回ばかりは大人しく「はい……」と二つ返事で従った。
「……それで、紗良々さんは麗に何をしようとしてんだよ?」
「さア、それはボクにもわからナイ。でも紗良々たんがあの子を助けると言ったんダ。彼女に二言はないヨ。きっと何か秘策があるんじゃないカナ」
「ずいぶんと信頼してんだな、あんなちっこいのを」
「当然ダ。確かに紗良々たんは見た目こそ小さいかもしれナイ。デモ、ボクは彼女ほど大きい女を知らないヨ。強がりでイジワルで憎たらしく見えるかもしれないケド、全て彼女の優しさの裏返しデ、いつだって彼女は自分以外の誰かのことを想ってイル。だからボクらも同じ分だけ彼女を想って信じれるンダ」
ターヤンの真っ直ぐに語る言葉たちに、蓮華は思わず笑みがこぼれる。
「ターヤンの言う通りだ。紗良々はその優しさで僕を救ってくれた。だから僕も自信を持って言える。紗良々を信じろ。あいつならきっとどうにかしてくれる」
麗の業血を雷撃によって打ち砕き、未だに麗に傷一つつけることなく応戦を続ける紗良々を見て、蓮華は断言する。彼女ならどんな苦境も彼女の色で塗り替えてくれる。そんな安心感があった。
――だが。
「チィッ!」
紗良々が顔を苦く噛み潰す。
それと同時、蓮華たちも驚きに目を瞠った。
突如として、激闘を繰り広げていたはずの麗の姿が消えたのだ。
「なんだ……? 何が起きた?」
困惑はそれだけに留まらない。
「うぐッ!」
突然、紗良々が短いうめき声を上げて横に突き飛ばされ、コンクリートの塀へと体を打ち付けた。
「紗良々!?」
何が起きたのかわけもわからず蓮華は叫ぶ。紗良々はまるで何かに弾かれたようだった。だが、その〝何か〟は見えなかった。ただ突然に、紗良々が吹き飛んだのだ。
紗良々は苦しげに呼吸を吐きながら立ち上がる。何もない周囲を警戒するように睨みながら。
「麗だ……。きっと、麗の〝二つ目〟の鬼の力だ……」
困惑に苛まされる中、しかし天助は崖っぷちに立たされたみたいに顔色を悪くして震えた声を出した。
「二つ目の……?」
その不可思議な単語に蓮華は眉をひそめる。そう言えばそれは、天助たちと初めて会った時に聞きそびれたことだった。
「どういうことだ? あの子は業血の力以外にも、姿を見えなくする鬼の力も持ってるってのか?」
天助は恐る恐るといった様子で「たぶん」と頷く。
「俺、前に見たことがあるんです。餓鬼教のローブを纏った女の人が、業血の力と雷を操る力……その二つの鬼の力を同時に使って、餓鬼の群れを一瞬で壊滅させたところを。それも、周囲の街ごと消し去るくらいの凄まじい威力でした。その人は、両手に餓鬼の呪いの痣があったんです」
「つまり、一体の餓鬼の呪いによる鬼の力じゃなくて、二体分の呪いを……?」
「たぶん、そういうことだと思います……。それに、さっきコウちゃんを襲った麗に振り返った時、俺、見たんです。麗の両手に、餓鬼の呪いの痣があったのを」
それが異例の出来事なのか、一般的にあり得る出来事なのか、蓮華にはわからなかった。だから、ターヤンと暮木を見て目で疑問を訴える。二人は渋い顔をして首を傾げた。
「俺は聞いたこともないな」
「ボクも。でも餓鬼教のことダ、なにか裏があるのかもしれナイ」
紗良々は今も見えない何か――不可視化した麗の業血に襲われ、突然浴衣を裂かれるような現象に見舞われながら、腕や脚に薄い裂傷をつくっていく。致命傷に至っていないのは、紗良々が自身の体表に電流を纏っているからだろう。物に触れようとした時に静電気が弾けるのと同じように、見えない業血が紗良々に近づいた途端、電流が弾けて業血の威力を殺し、あるいは軌道を逸らしているのだ。その証拠に、紗良々の周囲の地面や背後のコンクリート塀が次々と粉砕されていく。軌道を外された業血による仕業だろう。
しかし、このままでは一方的ななぶり殺しになる。
「紗良々――」
「来んな!」
加勢に向かおうとした蓮華を、しかし紗良々は強く声を張って拒絶した。
「何言ってんだよ! このままじゃ、お前……!」
「プヒヒ。ご機嫌よろしゅうなぁ。このままじゃ……なんやねん? 今近づかれたらむしろ邪魔やわ」
「邪魔って何を――」
意義を唱えようとした蓮華は、しかし次の瞬間に言葉を飲み込む。
空を白く染め上げるほどの放電。それが紗良々を中心に解き放たれ、デタラメな電流が周囲にぶちまけられたかと思うと、
「――ッああぁああぁああああッッッ!」
一人の絶叫が響き渡る。そして的を捉えた電流が一気にその絶叫の主へと収束を始め、何もない空間から麗を浮き彫りにした。
「プヒヒ! 二つ目の鬼の力やらなんやら知らんけど、見えんくなったからなんやねん。こないな子供だましでウチを欺ける思たら大間違いやぞバカタレが」
再び唇の前で二本の指を構えた紗良々は、姿を現した麗へと電流を浴びせかけながらゆっくり歩み寄っていく。
「オン バサラ アラタンノウ オン タラク ソワカ――汝の記憶、剥奪せん」
紗良々は蒼白い光を帯びたその指先を麗の額へと伸ばし、『了』の文字を描く。
「痛くしてスマンかったな」
そして最後にちょこんと優しく麗の額を指先で小突くと、迸らせていた電流を収めた。
それまでの喧騒とは打って変わって静けさが舞い降り、静かに瞳を閉じた麗がその場に倒れる。その顔は、憑き物が落ちたように安らかだった。
「麗……? 麗!」「麗ちゃん!」
浩太郎たち三人が一目散に麗へと駆け寄っていき、蓮華たちもそれを追いかける。
「麗! おい、麗! しっかりしろ!」
浩太郎のうるさいほどの呼びかけにも麗は目を開けない。
「あの……紗良々さん。麗ちゃんは……?」
「安心せぇ。眠っとるだけや。催眠も解いた。もう餓鬼教に操られることもあらへん」
それを聞き、愛奈を始めとした三人は緊迫していた顔を緩ませた。
「一体何をしたんだ、紗良々?」
何が起きたのかさっぱりわからなかった蓮華は訊ねてみる。
「『明浄剥離の術』っちゅう、まあ簡単に言うたら催眠術みたいな呪術を使うて催眠を上書きしたんや」
「そんな呪術もあるのか……」
「怪異やら裏の世界やら、『見てはいけないもの』を見た人間に使うて記憶を書き換えるための術やな。昔から表と裏は棲み分けがされとったっちゅうわけや」
紗良々からそんな説明がなされていた時だった。
この場において場違いな拍手がどこからともなく響いてくる。
「まさか僕の催眠が解かれるとは……恐れ入りました」
そして刑務所の建物の屋上から飛び降りてきた、一人の人物。清潔的な黒い祭服に身を包み、丸メガネの奥で常に目元を笑わせるその男を見て、紗良々の纏う空気が刃物のように鋭くピリつく。
「やっぱりアンタやったか……梶谷壮士……ッ!」