第十五話 届かない声
「ここやな」
紗良々は件の刑務所のゲートを見上げて呟く。
静寂と闇が支配するヘルヘイムでは、刑務所という役割以上に物々しい雰囲気がそこから垂れ流れていた。
「愛奈。まだ麗っちゅう小娘はここから動いとらんのか?」
「すみません、わかりません……。もう血が足りなくて鬼の力が使えなくて……」
ターヤンの背中の上で愛奈は申し訳なさそうに小さな声で答えた。今にも倒れそうなほど弱った彼女を見かねてターヤンが背負って連れてきたのだ。
「チッ、しゃーないやっちゃなぁ。ほれ、食べんさい」
紗良々は浴衣の帯の中から紙包みを取り出して愛奈へと投げ渡す。
受け取った愛奈はその中身――人間の肉の干物を見て、目を丸くさせた。
「こ、こんな貴重なもの、頂けません……!」
「うっさいわ。黙って食わんかい。今のままのアンタやと迷惑でしかないんやっちゅうの」
乱暴な口振りで言う紗良々に、愛奈はぐっと人肉の干物を握り締める。
「……すみません。では、頂きます」
意を決したように唾を飲み込んでから、干物肉にがっついてぺろりと平らげる。
そしてすぐ、念じるように瞳を閉じた。探知の鬼の力を使っているのだろう。
「――いました。麗ちゃんはまだここから動いて――えっ……? なにこれ……!?」
彼女は瞳を大きく開いたかと思うと、動揺を口にする。
「なんや? どうしたんや」
「この先に、無数の生体反応が蠢いています……! 数は……軽く三十以上……!」
「三十以上も?」
蓮華は思わず聞き返す。
「それ全部が餓鬼教の教徒ってことか? それとも餓鬼がこの中に?」
「いえ、餓鬼ではない……と思います。餓鬼は独特の生体反応をしているので、それ以外と区別がつきますから。でも……鬼人でもありません。こんな生体反応、初めてです……」
愛奈は生体反応を感知しただけで恐怖を感じとったのか、微かに震えていた。
「餓鬼でも鬼人でもないって……まさか怪異か?」
「怪異がそんなぎょうさんおるわけないやろ。まあなんでもええわ。襲ってきたら始末する。それだけや。ほな行くで」
紗良々は軽い調子で言って、刑務所の重厚な鋼鉄のゲートへ向けて腕を伸ばす。その手でデコピンの構えを取り中指を弾くと、その指先から矢の如き迅雷が迸り、門を大胆に吹き飛ばした。
十分な警戒と共に敷地内に踏み入り、建物の中に侵入を果たす。
そしてそこに広がっていた光景に、蓮華は瞳を揺らした。
「なんだよ……これ……!?」
牢屋と思しき部屋に詰め込まれた、無残な遺体たち。どれも異形の姿に変貌した不気味な死に様だった。酷い血臭と腐敗臭が充満している。
「一体ここで何が……!」
「……さあの。知りたくもあらへんし、知ったところで胸くそ悪くなるだけやろ」
冷たく吐き捨てた紗良々だったが、その声には明らかな憤怒が見え隠れしていた。
それから血みどろの施設内を進み、コンクリートの壁に囲まれた中庭のような場所に出てた時。
「プヒヒ! まるでいらっしゃませとでも言いたげやなぁ」
紗良々は皮肉を全面に押し出すように口元を歪めた。
その中庭の中央には、闇から絞り出して創ったような漆黒のローブを纏った少女が立って待ち構えていた。
「麗ちゃん……!」
その少女を見て、愛奈はターヤンの背中から飛び降り、叫ぶ。
「麗ちゃん! 私だよ! 迎えに来たんだよ! 麗ちゃん!」
「無駄や。今のあの小娘にはどんな声も届かん」
「そんな……! どうして、麗ちゃん……!」
愛奈は明らかな絶望を顔に滲ませた。
「……どういうことだよ、紗良々? どんな声も届かないって……あの子は今、そんなに強い洗脳状態にあるのか?」
紗良々の言い回しを不審に思って訊ねた蓮華に、紗良々は「プヒヒ」といつもの笑いを浮かべ、
「ただの洗脳やったら楽なんやけどなぁ。まあ任しとき。アンタらは手ぇ出さんでええで」
一人で麗へと歩み寄り始めた。
「おい、紗良々。何を――」
「蓮華」
ターヤンが蓮華の肩を掴む。
「紗良々が任せろと言っているンダ。信じロ」
「……わかった」
今日の紗良々の一連の行動は気になるところが多かった。それだけに、蓮華は紗良々を心配していた。だが、紗良々を信頼もしている。だからこそ、蓮華はそれ以上追求せず、大人しく引き下がって見守りに徹することにした。
堂々とした立ち振る舞いで紗良々が麗の前に立つ。
「また会ったなぁ。アンタ、麗っちゅう名前なんやってな。ウチは紗良々や。よろしゅう」
紗良々の語りかけに、麗は何も答えない。無感情な双眸で、ただ紗良々を見つめ返していた。
「挨拶くらいせぇや。無愛想なやっちゃなぁ。ま、無理もあらへんのやろうけど」
紗良々は目を細め、慈愛に満ちたような笑みを零す。
「安心せぇ。今助けたる」
その一言に、麗の瞳の奥が微かに揺れる。だが、それも一瞬のことだった。
次の瞬間に麗の瞳が赤く染まり、再度、感情が排斥される。まるでお面を貼り付けたような顔になった麗は両手を広げると、濁流のような膨大な血をその足下から噴き出させた。
噴き出た業血は無数の鋭い矛に姿を変えて紗良々を狙う。紗良々は微動だにしない。
だが紗良々の手の届くほどの範囲に業血の矛が迫った、その刹那、バチリと電流が弾けたかと思うと、それを皮切りに嵐のような稲妻が周囲にばらまかれた。
闇空を明るく照らすほどの雷が止めどなく迸り、大気を震わせ、麗の業血を容易く塵に変える。
雷鳴が鳴り止んだ頃、麗の生み出した業血は全て霧散し、姿を消していた。
そこで麗は業血による遠距離攻撃は無意味と悟ったのか、その手に鎌のような刃を業血により生み出し、強く大地を蹴って紗良々に接近を開始。
瞬く間に紗良々の懐に潜り込んだ麗は、まず業血の鎌を紗良々の首元に振り抜く。だがその刃が紗良々に届くことはない。紗良々が軽く手を挙げただけで、強烈な雷が鎌を無に帰した。
麗は続けて流れるように足を振り上げ、回し蹴りの要領で紗良々に攻撃を仕掛ける。その足は業血によりコーティングが施され、鋭利な刃が宿っていた。
紗良々はすぐさま飛び退いて回避。だが、僅かに刃が右腕を掠め、血が滴る。血は腕を伝って指先から地面へとこぼれ落ち、染みをつくる。
追い打ちをかけるように、麗はまたしても足下から業血を生み出し、鞭のようにしならせて紗良々を襲う。さらに、麗はいつの間にか紗良々の背後にも業血を忍ばせ、紗良々を挟み撃ちする。
再び大気を揺るがす迅雷により、全ての業血は消し飛んだ。
麗は続けざまに業血を生み出し攻撃を仕掛けるが、まるで紗良々の周りに電流の膜でも張られているかのように、一切の業血を寄せ付けない。ことごとく塵に変えていく。
その光景を、蓮華は不思議に思った。
「どうして紗良々は防戦一方なんだ……?」
紗良々ならば容易にケリがつく戦いだ。あの雷の力を使えば麗を無闇に傷つけず、気絶させることも可能だろう。だがどうしてか、紗良々は一向に攻撃に転じない。むしろ、攻撃を誘っているようにも見える戦い方だった。
そもそも、どうやって紗良々が麗の洗脳を解くのか疑問だ。
「紗良々に何か考えがあるのだろう。まあ見ていろ」
「そうダヨ。紗良々たんが無鉄砲に戦うわけナイ」
暮木とターヤンのその言葉には、絶対的な信頼が垣間見えていた。
そしてその言葉通り、いよいよ防戦一方だった紗良々の顔に笑みが浮く。
「血を使いすぎたんやないか? ご自慢の業血がスッカスカやで」
業血の『強度』が落ちているのか、もう紗良々が強烈な稲妻を放つまでもなく、手に纏わせた電流で軽く受け流すだけで麗の業血が脆く崩れていく。
図星なのだろう。麗は息が上がり、無感情な顔に疲労が浮き彫りになっていた。
「ほんなら、そろそろええか」
紗良々が傷を受けた右腕を振り上げる。すると指先から滴っていた血の滴が飛沫となって飛び散り、麗の体に数滴降りかかる。
その瞬間。
「――うぁあああぁああッッッ!」
麗の脳天からつま先までを凄まじい電流が迸り、麗は絶叫を上げながら体を硬直させた。
「ちょいと大人しくしときや」
紗良々は未だに痺れで体を打ち震わせる麗の首を掴み、もう片方の手で人差し指と中指の二本を立て、唇の前に添える。呪術の構えだ。
「オン バサラ アラタンノウ オン タラク――」
そして指に力を吹き込むように呪文を唱え始めた、しかしその時。
「やめろォ!」
空から響き渡る少年の声。そびえるコンクリートの塀を跳び越えて落ちてくる二人の人影。
それは、浩太郎と天助だった。
降下しながら、浩太郎は手を振りかざす。すると鋭い疾風が巻き起こり、風の刃が放たれる。
紗良々は呪文の詠唱を中断。麗から手を離しバックステップ。紗良々と麗を分断するように風の刃が通り抜け、大地に深い斬撃痕を刻んだ。
「コウちゃん!? テンちゃん!?」
愛奈が驚きに満ちた声を上げる。
浩太郎と天助は麗を背に庇うように割り込み、中でも浩太郎は、紗良々をキツく睨んだ。
「てめぇら……麗に何しやがる!?」
その目は、完全に紗良々たちを敵視していた。
「二人とも、どうしてここに……!?」
「お前が急にどっか消えるからだろバカヤロウ! 変な稲妻が見えて駆けつけてみりゃ……これはどういうことだ!? まさか、お前がコイツらにこれを頼んだのか!?」
「そうだよ! この人たちは麗ちゃんを助けてくれようと――」
「バカ言うんじゃねぇ!」
浩太郎の怒声が愛奈の声をかき消す。
「明らかに危害を加えようとしてたじゃねぇか! まさか愛奈……コイツらを盲信したのか!? 忘れたのかよ! この世界に信用できる人間なんていねぇってことを!」
「でもコウちゃん、私たちだけじゃもう……!」
「うっせぇ!」
頭に血が上っているのか、浩太郎に愛奈の言葉が届かない。
「もうなんでもいい。麗が一人ならオレたちだけでも逃げられる。このままオレたちで麗を連れ帰ればいい」
「違うのコウちゃん! 今の麗ちゃんは――」
説得を試みようとする愛奈の声を、紗良々が手を挙げて制する。
「浩太郎とかいう小僧。はよそこをどけ」
「ふざけんじゃねぇ! 麗に何するつもりだ!?」
「ええからはよそこを離れろ!」
紗良々の気迫のこもった一喝が空気をビリビリと震わせた。
その威圧で畏縮したのか、あるいは頭に上っていた血が引いて冷静になったのか、浩太郎は緊張していた顔を解き、眉をひそめる。
「離れろって、どういう――」
浩太郎が疑惑を口に出しかけた、その時だった。
獲物を捕食する猛獣のように、麗が浩太郎の背後から首筋へと噛みついた。