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そして僕はバケモノになった  作者: 夢見 裕
第一章 始まりの一週間
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第五話 信じるものがわからない

 もうどれだけ走ったかわからない。

 お腹が空いた。喉が渇いた。もう走りたくない。動きたくない。


 紗良々が追ってきている気配は感じられなかった。だからさっさと家に帰ればいい話なのだが……でも、おかしい。どれだけ走っても〝この世界〟から抜け出せない。

 どこまで行っても無音で、光のない、そして人の気配のない世界が続いている。

 いつもなら街灯のついている国道も、二十四時間営業のはずのコンビニさえも、電気が消えている。そして人っ子一人いないのだ。

 せめてこの妙な世界を抜け出してから家に帰ろう、と蓮華は思っていたのだが、出方がわからない。そもそも、出入りするという概念が通用する問題の話なのかすらわからなかった。


「くそ……! わけわかんねぇよ……」


 どうすれば……と大きな国道のど真ん中を歩いて彷徨っていた時。唐突に見つけた。

 国道のど真ん中。前方に蹲る黒い影。黒い背広を着た男の後ろ姿だった。

 安堵から感極まるほど気が緩んで、蓮華は思わず駆け寄る。


「あのっ、すみま――」


 呼びかけた声は、しかし途中で固まった。

 その声に男がぴくりと体を反応させ、ゆっくりと立ち上がる。そして振り返った男は、オールバックに整えられた黒髪の凜々しい中年だった。気の良さそうな、ごく普通のサラリーマンといった見た目だろう。――ただ一点、口元が血塗られていることを除けば。


 蓮華の立ち止まった理由はまさにそれだった。屈んでいる男の足下に人が転がっていて、血溜まりができているのが目に入ってしまったのだ。彼が立ち上がったことで露わになったそれは、瞳孔が開ききり、腹が裂け内臓が飛び出した女性の惨殺体だった。

 喰っていたのだ。この男は、人間を。

 恐怖と動揺で声も出ず、呼吸が荒くなり、体が固まってしまった。そんな蓮華を男はじっと見据える。重く鋭い眼光だった。


「……なんだね君は。人の()()()に」


 男は丁寧な動きでポケットからハンカチーフを取り出すと、口元を拭って血を落とした。

 食事中――平然とそう言ってのける男に蓮華は恐ろしいほどの『常習性』を感じ、身が震える。


「お、お前……なに、して……」

「なに、とは、何かね? どこかに不思議が?」


 何も問題などないとでも言いたげに男は言う。


「この世界にいるということは、君も鬼人だろう? 何を戸惑っているんだ? 我々鬼人にとって、こんなものはただの〝日常〟じゃないか」


 鬼人。やはり、鬼人だった。つまり――バケモノ。


「……狂ってる……頭おかしいって……お前……!」

「おかしなことを言う。弱肉強食の鬼人の世界では当たり前の光景じゃないか。……ああ、それとも君は、もしかして鬼人になったばかりなのか? だとしたらすまなかった。嫌な光景を見せてしまったね」


 機械のように極めて平坦で抑揚のない声で言って、男は掌を胸の前に出した。


「怖かったろう。絶望したろう。そうだ。この先に待っているのは、こんな絶望の連続だ。果てしない地獄だ。可哀想に……だからせめて――今ここで安らかに眠るといい」


 冷徹で押しつけがましい物言いの直後、彼は胸の前に出した掌で何かを握るような手を形作ると、その掌から血としか思えないような赤黒い液体が滲み出てきた。まるで、あの餓鬼の操っていた血の触手と同じような――

 その血は沸騰するようにぼこぼことざわめき、さらには増殖を始め、何かを形成していく。最終的にできあがったそれは血で形作られたナイフだった。


「なんだよ……それ……!」

「初めて見るかね? 〝業血(ごうけつ)〟と言う、〝鬼の力〟の中では一番メジャーな力だよ」


 何を言っているのか、何が起きているのか、理解出来ない。理解出来ようがなかった。蓮華の持つ常識の範疇を軽く超えていた。


「大人しくしていなさい。そうすれば、すぐに楽になれる」


 男は踏み込むと同時、ナイフを横一閃に振り抜いてきて蓮華は咄嗟にその場に屈む。頭上すれすれをナイフが通り過ぎていった直後、ぱらぱらと何本か蓮華の髪が舞った。

 本物のナイフ同様――いや、それ以上の凄まじい切れ味。当たったら致命傷は免れないことは必至だ。


「く……っ!」


 蓮華は這いつくばるように駆け出して逃走を試みる。だが、


「逃がさないさ」


 男の足下から新たに不気味な血が沸き立ったかと思うと、猛烈な速度で蛇のように地を這い、蓮華の足を絡め取って倒れさせた。さらに、流動する血は蓮華の首を捕らえて締め付ける。


「無駄な抵抗はやめた方がいい。恐怖と苦しみが長くなるだけだ」

「う……ぐうっ……!」


 振り(ほど)こうにも、血に似たそれは鋼鉄のように硬く微塵も動かない。硬さまで自在に変幻させられるのか、流動的に動いていたとは思えないほどの強度を持っていた。

 血のナイフを持つ男が悠然とした足取りで歩み寄ってくる。その姿は命を刈り取る鎌を持った死に神そのものだった。恐怖が腹の奥から込み上げる。


「クソッ……!」


 逃げ出したい――その一心で、必死で、無我夢中だった。自然と、首を絞める業血とやらを握る手に力がこもる。


 刹那。


 蓮華の手から炎が迸り、男の操る業血を焼いた。その炎は首を締め付けていた業血をマグマのように溶解させると、そのまま導火線のように燃え上がり、血を操る主へと遡って火が走る。


「なっ!?」


 男の目が驚きに見開かれ、防衛本能の働きか、咄嗟に腕で体を庇っていた。炎は男の足下まで引火すると、火焔を巻き上げて爆発。男を吹き飛ばす。


「ぐあッ! ああぁああぁああ! 熱い! 熱いぃいいぃい!」


 爆発した火焔は男の頬を焼いたらしく、彼は顔を押さえてのたうち回っていた。


「な、なんだ……今の……?」


 蓮華は自分でも理解のできない力の発現に動揺して両手を見つめた。無我夢中だったため、どうやったのかは理解出来ていない。しかし、自分の起こした力だということだけはわかった。炎が出た瞬間、疲労が溜まるような倦怠感が体を襲ったのだ。


「ぐあぁああ……! 顔が……顔がぁああ!」


 男は顔を押さえながらよろよろと力ない足で立ち上がった。


「君も鬼の力が使えたのか……! 油断した……治さねば……喰って治さねば……!」


 男の目が欲望にギラつく。


「なッ――!?」


 彼の言葉の意味を理解する暇もなく蓮華は四肢の自由を奪われた。男が業血を触手のように伸ばし、蓮華の両手足を縛ったのだ。


「さあ……私の血となり肉となるがいい!」


 槍のように尖った業血の触手が生み出され、蓮華の胸を狙って放たれた。もう一度あの炎を出せればとは思っても出し方がわからない。蓮華は固く目を閉じるしかなかった。


 だが、その直後。


「ぐあッ!」


 悲鳴を上げたのは男の方だった。同時に手足を縛っていた業血が緩み、蓮華は地に降り立つ。見れば、男は吹き飛んで民家の塀に背を打ち付けていた。そして男の立っていた場所には、下駄を履いた白く細い足を持ち上げたあの関西弁赤髪幼女、紗良々が立っていた。どうやら彼女の強烈な蹴りが男に見舞われたということらしい。


「バカ者が。不用意に鬼人に近づきおって」


 呆れるように言って、紗良々は足を下ろした。


「助けて……くれたのか……?」

「はあ? 助ける? 自惚れんなや小僧」


 紗良々は心底不愉快そうに吐き捨てた。


「ウチはウチの『務め』を全うしにきた。ただそれだけや」

「務め……?」


 その疑問に紗良々が答えるよりも早く、男が起き上がる。怒りの宿る双眸で紗良々を睨み据えると、業血のナイフの切っ先を紗良々へと向けた。直後、彼の周囲から決壊したダムのように赤黒い血が飛び出した。

 膨大な量の業血が濁流となり紗良々を襲う。だが、紗良々は腕を組んで見届けるばかりで一歩たりとも動かない。おそらくそれは、積んだ経験のなせる〝余裕〟の表われだった。

 彼女は動くことはなかった。だが、彼女の周囲に迸る蒼白い電撃が、矛や刃へと千変万化して襲い来る業血の五月雨をことごとく粉砕し、一撃たりとも彼女に近づけさせなかったのだ。


 粉砕され周囲に飛散した業血は、じゅう、と音を立てて蒸発していく。やがて男の放った全ての業血が蒸発しきった頃、そこに男はいなかった。怒涛の業血を目眩ましに利用し、紗良々を斬り込める間合いまで潜り込んでいたのだ。

 男の振るったナイフの一太刀目を紗良々は軽く後ろに飛んで回避。次いで大きく振りかぶって上から振り下ろされた二太刀目は、男の腕を流れるようにいなし、掴み、男の懐に潜り込む。そして空いたもう片方の掌を男の胸に突き当てた。軽い掌打のように見えた。だがその見た目の衝撃に反して男の体が激しく吹き飛ぶ。紗良々の突き出した掌にはちりちりと電流が跳ねていた。


 再び民家の塀へと背中を打ち付けた男は喀血してその場に倒れ込み、動かなくなった。電気ショックのようなものを当てられ気絶したのだろう。


 格の違いが顕著に表れていた。勝敗は明らかに決していた。だが、倒れる男に紗良々は歩み寄る。そしてその頭を掴んで乱雑に持ち上げたかと思うと、空いている右手を矛のように構えた。その右手にはまた鋭く弾ける蒼白い電流を纏っていた。


「何を――」


 何をするつもりだ、と問いかける前に、紗良々の右手が男の胸を貫いた。血が噴き出し、男は目を見開いて声にならないうめき声を上げ、そのまま絶命。紗良々が腕を引き抜くと、彼は人形のように地面に転がった。


「お前……なにして……」

「鬼人の世界やって、なにも無法地帯っちゅうわけやない。ウチらだって〝元〟人間。倫理観は人間と同じなんや。せやから、倫理から外れた行動を犯した(もん)を、見過ごすわけにはいかへん。無闇に人を襲うような鬼人は生かしておけん。きっちりと〝罰〟を与える。それがウチの『務め』や」


 冷たく言い放って、彼女は腕に染みついた鮮血をぺろりと舐める。


「鬼人を閉じ込めておく牢屋なんてあらへん。人間の世界みたいに、そんな施設が整っとるわけやないんや。それに、鬼の力を持っとる鬼人やったら牢屋なんて意味あらへんからな。せやから、その場で殺すのが一番っちゅうわけや」

「殺すって……なんで、平然とそんなことできるんだよ……。そいつも、お前も……鬼人って、皆そんななのか……? そうやって、簡単に人を殺して、喰って……」

「せやなぁ。なんせウチらはただの……バケモノ、やしな」


 そう言う紗良々の顔は自虐的な悲しみに満ちていた――ように見えた。

 どう判断すべきか蓮華は戸惑う。

 彼女はそのつもりはなかったと言うが、結果的に助けられたのは事実だ。だが、彼女はこんなにも平然と人を殺す〝バケモノ〟。

 どうしても仲間とは思えない。彼女に関われば――いや、鬼人に関われば、いつか自分もこんなふうに殺されるのではないか……そんな疑心を抱かずにはいられなかった。

 怖い。ただただ、彼女が怖い。


「……なんや、来るな言うたんに」


 突然、紗良々は空虚を見て呟いた。


「は? 何言って……」

「ウチの仲間が集まって来てもうたんよ」

「なか……ま……?」


 その響きに蓮華は一層怯えた。

 紗良々の仲間。こんなにも冷徹で、残虐で、バケモノの、仲間。


 静寂の積もる夜道に足音が近づいてきた。左右から一つずつ、蓮華と紗良々を挟むように。

 右を見る。闇から徐々に姿を現したのは、やつれた中年男だった。

 目は虚ろで、髪はぼさぼさで、無精髭を生やし、夏だというのに焦げ茶色のコートに身を包む異様な姿。ただこちらに歩いてくるだけなのに言いしれぬ威圧感が押し寄せ、蓮華は数歩後退する。すると、なぜか柔らかいものにぶつかった。

 後ろにはいつの間にか恰幅のいい男がいた。

 七三分けの髪にオーバーオールのズボン、さらには蝶ネクタイ……特徴に事欠かないデブがポテチをむさぼり食っている。

 どこを見ているのかわからない鋭い糸目が常に不気味に笑っているように見えた。

 そして、右手の甲に赤い痣……こいつも鬼人だ。だとしたら、このむさぼり食っているポテチはきっと人間の肉を加工した何かに違いない。


「へぇー……。こいつが例の男の子かイ? 紗良々たん」


 蝶ネクタイデブは蓮華を頭のてっぺんからつま先まで、値踏みするようにじろじろと注視した。息がかかりそうなほど顔が近い。


「フーン……なるほどネー……」


 なにやら呟いたかと思えば、デブは急に蓮華の首を掴み、片腕でその体を持ち上げた。


「ぐ――ッ!」


 息が苦しい。強力な力で首を締め付けてきて、指が首に食い込んでくる。


「ウン、喰い殺したくなるようなムカつく顔してるネ」


 甚だしい言いがかりを吹っかけて、蝶ネクタイデブは蓮華を民家の塀に叩きつけた。

 背中に鈍痛が走り、ただでさえ足りない空気が肺から押し出される。


「ボクはキミが嫌いダ。お前のせいデ……ふざけやがっテ……ふざけやがっテふざけやがっテ!」


 つばを飛ばす勢いでデブは蓮華に怒りをぶつけ始めた。その身に覚えのない叱責に蓮華は困惑するしかない。


「おいおい、落ち着けや。二人してどないしたんや? 来るな言うといたやろ」

「それが、そうも言ってられなくなってな」


 中年の男が渋い声を漏らして答えた。


「はあ? 何やねんそれ」

「ごめんネ、紗良々たん。ボクたちヘマしちゃったみたいだヨ」


 蝶ネクタイデブはまるで別人のように打って変わって妙に明るい声色で答える。

 その時、蓮華は見た。蝶ネクタイデブの背後に龍のようにうねる巨大な水が現れるのを。

 その水は鞭のように体をしならせると、ふぉん、と風を切る音を唸らせ、


「ぐふぅッ!」


 蝶ネクタイデブを弾き飛ばした。

 巨体が猛烈な速度で飛んでいき、電柱をなぎ倒し、塀を突き破って民家に墜落。もうもうと砂煙を立ち上らせて姿が見えなくなる。


「けほっ……けほっ……!」


 ようやく解放された蓮華はその場に跪き、咳き込みながらも新鮮な空気を肺に取り入れる。意識は鮮明に戻ったが、何が起きたのかわけがわからなかった。


「……まさか……!」


 何かの事態を察知したらしい紗良々が眉をぴくりと揺らす。


 次の瞬間。


 デブをはじき飛ばした巨大な水柱が今度は蓮華の体へと飛びつかんとしてうねった。咄嗟に反応した紗良々が電撃を纏わせた手刀でそれを両断すると、水柱は破裂するように形を崩し、ただの水飛沫へと変わる。だが、それとは別にいつの間にか蓮華の足下からもう一つの水柱が発生し、蓮華の体に巻き付いた。

 およそ水を表すとしてはあり得ない表現だが、しかしそれはひんやりと冷たく、流動的で波紋を広げており、疑いようもなく水だった。どこからともなく発生したその水が大蛇のようにうねり、蓮華の体をらせん状に縛ったのだ。


「しまっ――!」


 紗良々が顔を苦く噛みつぶす。


「な、なんだよこれ! ――うあああぁあああぁああ!」


 蓮華はわけもわからぬまま情けない悲鳴を上げると、そのままその水に引っ張られて宙に投げ飛ばされた。

 鋭角な放物線を描きながら上空を飛び、全ての運動エネルギーが位置エネルギーへと変換を終えると、あとは位置エネルギーの消費――落下が始まる。

 アスファルトの地面が急速に近づいてきて、蓮華は本日何度目かわからない死の気配を感じ取る。

 どうしようもなくなって固く目を瞑りその時を待ったが、しかし地面すれすれというところで落下が急停止。内臓を持って行かれそうになるような慣性が蓮華の体を貫く。

 蓮華の足がまたあの大蛇のような水に捕まっていた。

 壮絶なアトラクションのせいで目が回って頭がくらくらする。

 足を掴んでいた水はゆっくりと優しく、蓮華を地面へと降ろした。


「乱暴な真似をしてすみません。大丈夫ですか?」


 知らない声。紳士的で厚みのある声だった。

 顔を上げると、深青色のスーツに同色のフェルトハットを被った、爽やかだけれどもどこか胡散臭さが漂う男が蓮華に手を差し伸べていた。


「あ、ありがとう……ございます……」


 今度は誰だと訝しみながらも、助けてくれたらしいことは理解して蓮華は男の手を借りる。

 状況から判断するに、この人物が水を操っていたのだろう。既に紗良々の雷の力や突然襲ってきた黒い背広姿の男の業血を見ている蓮華は特別驚くこともなかった。むしろ、早くもこの状況に順応し始めている自分に驚くくらいだった。


「くっソー……油断しちゃっタ……」


 蝶ネクタイデブが体をこきこき鳴らしながら戻ってきた。家を破壊するほどの大事故だったというのに怪我一つないらしい。


「お久しぶりです、鬼殺し(オーガキラー )の皆さん。こうして皆さん揃ってお会いするのは何年振りでしょうか。私はあなた方の顔に懐かしさすら感じる思いです」


 スーツの男は営業マンのような丁寧な口調と笑顔で紗良々たちを見ながら言った。


戸賀里(とがり)丈一郎(じょういちろう)……キサマ……ッ!」


 紗良々の目が変わった。

 蓮華を睨んだ時とは次元が違う。蓮華に向けた怒りは仮初めのものだったのではないかと疑うほどに、底知れぬ憎悪と憤怒が混濁した目だった。さらに体の周囲にはビリビリとした攻撃的な電流が弾けている。

 この男と紗良々の間に何か深い因縁があるのであろうことは明白だった。


「おやおや、相変わらず怖い顔をする。せっかくの美しいお顔が台無しですよ? 女性はおしとやかで可憐でなければいけません」

「黙れやペテン野郎。そんな月並みな御託いらんわ。はよそいつを返せ」

「返せとはこれまた傲慢な。いつこの少年はあなたのものになったのでしょう? それに、私の目にはあなた方が彼をいじめているようにしか映りませんでした。そんなあなた方にこの少年を渡すわけにはいきません。そしてもう一つ言うなれば、私はこの少年を攫っていくようなマネをするつもりもありません。ただ、逃げ場のない彼に逃げ道を作ってあげただけですよ。何か問題があるのでしょうか?」


 紗良々は押し黙った。何も言い返せず、喉で言葉をつっかえさせているようだった。


「どうやらご理解頂けたようで。それでは、この場は私の顔に免じて全員お引き取り頂くとしましょう」


 彼は優雅に掌を差し出すと、見えない壁を撫でるように横に滑らせた。すると、紗良々たちとこちらとを隔てるように、パキパキと清涼な音を立てながら地面から分厚い氷の壁が築き上げられていく。


「ご安心下さい。私はあなたのように嘘はつきませんし、大根役者も演じません。私はありのままの私を見せるだけです。それでは」


 氷壁の向こうへ消えゆく紗良々たちへと男は礼儀正しく一礼すると、くるりと踵を返し、そして蓮華の肩を叩いて『ついてきなさい』とでも言うように指先をくいくいと曲げて招いて歩き出した。


 蓮華はどうするべきか悩みあぐねた。だって、蓮華にとってはここにいる誰も信用できないのだから。

 でも蓮華はこの妙な世界の出方を知らない。だから誰かに頼るしかない。

 現状では、胡散臭さが気になるが、どうやらあのスーツの男を頼るしかないらしい。蝶ネクタイデブには明確な敵意を向けられた。それに、頭数が三人もいては明らかに分が悪い。それよりはスーツ男の方がマシそうだと、そう判断してのことだった。そもそも、氷壁に阻まれているため紗良々たちとは合流ができない。


 蓮華はスーツの男の後を追いかける。途中、後ろ髪を引かれるような思いが心に残って振り返る。そこには白い冷気を漂わせる無情な氷壁が反り建っているだけだった。


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