第十話 悪魔の右手
目の前には自分自身がいた。
癖のある黒髪。濃いクマの刻まれた目元。不幸面をした、紛う事なき蓮華が。
黒くて何もない、光すらもない空間。しかし蓮華の頭のてっぺんからつま先まで全てはっきりと浮かび上がって見えている。
「どうして否定する? どうして拒む?」
蓮華が喋る。脳味噌を揺さぶるような、頭の中に直接響く声だった。
「腹が減ったなら喰えばいい。ただそれだけのことだ。我慢する必要なんてない。本能のままに喰らえ。喰らい尽くせ」
蓮華の口元が不吉にぐにゃりと歪んだ。
「そして最後は僕に喰われるんだ――」
ハッと目が覚めた。
呼吸が苦しい。息が上がっている。
蓮華はベッドで寝ていたはずだった。だが、目覚めたそこはベッドの上ではなかった。
薄暗い闇の漂う街中で蓮華は立っている。感覚的にヘルヘイム側であることはすぐにわかった。
でもどうして自分が外にいるのか、まったく理解できない。
ふと、蓮華は自分が何かを握り締めていることに気がつく。持ち上げてみると、それはバケモノの――餓鬼の引きちぎられた首だった。そして足下には首のない餓鬼の死体が転がり、おびただしい血溜まりができている。
何が起きているのかわけがわからなかった。
餓鬼の首は白目を剥いて今もドロドロと新鮮な血を垂れ流している。そしてその首を持つ自分自身の右手をそこで初めて視認して、蓮華は呼吸を忘れそうになった。
「なんだよ……これ……!」
蓮華の右手が赤黒く変色していた。いや、変色ではなく、変質というべきかもしれない。頑丈な殻で覆われ、悪魔のように禍々しく、鋭い爪まで携えている。
いや、違う。悪魔の手などではない。それは、餓鬼の手にそっくりだった。
背後で小さな息づかいが聞こえ、蓮華は振り返る。
二人の少年少女が腰を抜かしてへたり込み、愕然として蓮華を見上げていた。
その少年の方は見たばかりの顔だった。餓鬼の巣で蓮華と暮木が助けた少年――天助だった。
――一体何がどうなって……。この状況はなんだ? この手はなんだ? 僕は暮木さんと一緒に餓鬼の巣を潰してから帰ってきて、その後ベッドで寝たはずだ。なのにどうして……。
思考が追いつかない。パニックになりかけている。
天助と少女の蓮華を見上げる瞳は蓮華に対する恐怖一色に染まっている。蓮華を完全にバケモノとして見ている目だった。
「二人から離れやがれ!」
聞き覚えのある野蛮な声がして、直後、砲弾のように重い気弾が蓮華を弾き飛ばした。
蓮華は道路を一頻り転がり、困惑しながらも起き上がる。
「愛奈! 天助! 大丈夫か!?」
愛奈と呼ばれた少女と天助に駆け寄っていったのは、やはりあの口の悪いコウという少年だった。
「……化けの皮を剥がしやがったな、バケモノめ……ッ!」
「ち、違う……! これは……!」
何か弁明しなければと必死に言葉を思い浮かべながら右手を見て、しかし蓮華はただただ驚きに声を詰まらせた。
右手は何の変哲もない手に戻っていた。鬼人の証である痣はあるものの、肌色をした、人間と変わりない手だ。違和感なく蓮華の思い通りに動く。どこも異常は見られない。
「言い訳すんじゃねぇ! さっきの手はなんだ!? まるっきりバケモノじゃねぇか! オレたちを喰いに来たのか!?」
「違う! 気がついたら……ここにいた……。正直、僕にも何が起きているのかわからない」
「ふざけた寝言言ってんじゃねぇ! もう一遍ぶっ飛ばすぞ!」
蓮華は何を言っても無駄だと悟った。コウは完全に蓮華を〝敵〟と認識している。明確な答えを持たない蓮華の言葉は、コウの神経をいたずらに逆撫でするだけだ。
酷い動悸がする。混乱と、それ以上の不可解な恐怖が蓮華の胸の中で暴れ回っていた。
絡み合って解けない糸のように思考が混線している。まるで頭が働かない。状況の理解ができない。
「ずいぶんご機嫌のよろしゅう小僧やなぁ」
困惑の最中、今度は耳に馴染みのある関西弁が上から降ってきたかと思うと、蓮華の目の前に綿毛が落ちるように紗良々が落ちてきて、軽々と着地した。
そして挟み込むように、コウたちの背後に暮木とターヤンまでもが降って現われた。
「な、なんだテメェらは!? そのバケモノの仲間か!?」
「バケモン呼ばわりは酷いんやないか? その腰抜かし小僧と小娘の命の恩人やぞ?」
「は……? 何言って……」
「そこの二人が餓鬼に襲われとったんや。それをこのお兄ちゃんが助けてあげたんやで」
「……そうなのか?」
未だに腰を抜かしたままの天助と愛奈にコウが確認すると、二人は頷いた。
「たぶん、俺のせいだ……。餓鬼の巣の生き残りがいて、後をつけられてたんだと思う……。反対側で見張りをしていた愛奈の悲鳴が聞こえて……」
「テンちゃんが助けに来てくれたんだけど、私たちじゃ手に負えなくて……! そしたら、あの人が……」
事の成り行きを聞いたコウは、しかしまだ疑い深い視線で蓮華を睨んでいた。
蓮華は現状が理解出来ず、紗良々を見る。
「……なあ、紗良々……。これはどういうことなんだ? 何が起きてるんだ?」
「ウチが知るわけないやろ。アンタが突然窓ガラス割って外に飛び出して行きおったんやないか。寝とると思っとったんに……ビックリしたでホンマに。後をつけてったら、あの二人が餓鬼に襲われとるところに行き会って、それをアンタが助けた。いや……助けたっちゅうよりも、アンタはただ餓鬼を殺しとった。まさに鬼気迫る様子で餓鬼を引き裂いてな」
「そんな……」
全て無意識だ。だからこそ恐ろしかった。
蓮華はもう一度手を見つめる。変わりない人間としての手を。でも、震えていた。
怖い。自分が、知らない何かになり始めている。そんな気がした。
「そんじゃ、小僧ども。まずは自己紹介からいこか。ウチは紗良々や。そんでアンタらの後ろに突っ立っとるんがターヤンと暮木。バケモン呼ばわりされとったこのお兄ちゃんが蓮華や。ウチらは別に危ない集団やないで。アンタらに危害を加えることはあらへんから安心せぇ」
「……テメェ、ガキのくせに偉そうだな」
「こっちが丁寧に自己紹介しとるっちゅうのに、第一声がそれか? ナメとんのかこのクソガキ。一遍シメたろか?」
ブチギレて周囲に電流を弾けさせる紗良々を「まあまあ紗良々たん」とターヤンが対岸から止めに入る。
「こう見えても彼女は大人ダヨ。少なくともボクより年上ダ」
「うぇっ!? マジかよロリババァ!?」
「おいクソガキてめぇ今なんて言った喰い殺すぞ」
止めに入ったはずのターヤンがガチギレモードになっていた。
「二人ともその辺にしておけ。話が進まん。俺たちはお前たちと話しがしたいだけだ。名前くらい教えてくれてもいいだろう。紗良々の言っていたように、何も危害を加えるつもりはない」
今度は暮木が割って入る。さすが最長年と言うべきか、年季の入ったその諭すような口調は彼らの警戒心を緩めさせたらしい。コウが渋々と口を開く。
「……オレは藤倉浩太郎だ」
恐らく、この口の悪い浩太郎が彼らのリーダー的な存在なのだろう。浩太郎を皮切りに、「門眞天助です……」「私は雨里愛奈です」と、後の二人も続けて名乗った。
「それで、浩太郎。お前たちはこの辺りで暮らして――」
「勘違いすんじゃねぇよ」
暮木は、まずは当たり障りのないことから訊こうとしたのだろう。だが、そんな暮木の質問すらもぶった切って、浩太郎は声を張る。
「天助と愛奈を助けてくれたことには礼を言う。だがオレは何も答えるつもりはねぇ。オレたちはあんたらを信用したわけじゃない。オレたちは……誰も信用しねぇ」
「……うーむ……」
浩太郎のあまりの警戒心の強さに、暮木はまいったといったように頭を掻いた。
「もうええわ暮木。こんな奴らに話しを訊くのもアホらしいわ。解散や解散。帰るで」
紗良々は彼らに拘る様子もなく、さらりと踵を返し歩いて行く。ターヤンも暮木も、そんな紗良々の後を追ってあっさりと身を引いた。
それを見た浩太郎は天助と愛奈の手を引いて立ち上がらせ、三人並んで反対方向へと去って行く。その去り際に一瞬だけ、愛奈が蓮華たちを振り返った。その時見えた彼女の目は、まるで助けを求めるような、そんな儚さを孕んでいた。