第九話 もう一人の声
「終わったな」
後方担当の暮木が戻ってきた。負傷もなく無事に終えたようだ。グラウンドは見る影もなく荒れ果て、餓鬼の死骸で埋め尽くされている。
「蓮華……また今日も喰っていくのか?」
「まあ……使った分くらいは回復してかないと困るしな」
蓮華は足下に転がっていた餓鬼の肉片を拾い上げ――かぶりつく。
初めは吐き気がするほどマズかった餓鬼の肉も、最近では味に慣れてきたのかそれほどマズく感じることもなくなっていた。
恐らくほどよく焼けているお陰もあるのだろう。生で喰うよりはずいぶんマシな味に仕上がっている。塩こしょうなんかで味付けしたら美味いかもしれない。
「な……何喰ってんだよあんた……!」
餓鬼の肉を平らげる蓮華を見て、コウは驚愕し、あるいは恐怖すら顔に刻みつけて、声を震わせた。そのコウの後ろで腰を抜かしっぱなしの天助も、バケモノを見る目で蓮華を見ている。
まるで紗良々が人肉を喰っていると知った時の自分と同じだ、と蓮華は思った。
異質で、自らの持つ物差しでは測れない存在。自らの持つ価値観から大きく外れた存在。そんな存在は、誰だって怖い。だから、それは仕方のないことなのだろう。
「……さっき『人間の肉を喰わずにどうやって鬼の力を使っているのか』って訊いただろ。これがその答えだ」
「馬鹿じゃねぇのか!? 餓鬼を喰うなんて正気じゃねぇ! イカレてるぞあんた!」
「お前には関係ねぇだろ。ほっとけ」
「このバケモノめ……! やっぱりあんたは信用ならねぇ!」
「コウちゃん……! 助けてくれたのに、バケモノだなんて……!」
コウと違い、天助は怯えながらも恩義は感じているらしい。コウの暴言を咎めようとしていた。しかし、天助のその態度にコウはさらに怒りを爆発させる。
「そもそもお前のせいでこんなことになってんだぞ!? わかってんのか馬鹿!」
「だって……俺は何の力も持たないただの鬼人だ。こんなんじゃ麗は助けられない! 俺だって麗を助けたいんだ! 力になりたいんだ! 足手まといは嫌なんだよ! だからもう一度、今度はコウちゃんみたいに鬼の力を持つ餓鬼に呪われれば……!」
「だから既に鬼人のオレたちに餓鬼がもう一度呪いをかけるわけねぇだろ! そのまま喰われちまうだけだ!」
「でも、俺は見たんだ! 両手に痣があって、二種類の鬼の力を使う人を! だからできるはずなんだ!」
「なんだろうと無理なもんは無理だ! そんな下らねぇことで無駄死にすんじゃねぇ!」
「だって、じゃないと麗が……麗が……!」
天助の目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれていく。なにやら彼らは彼らでワケありということらしい。
しかし、そんな彼らの涙の事情よりも、蓮華は聞こえてきた気になるワードに眉を顰める。
二種類の鬼の力を使う――そんな鬼人の存在は紗良々からも聞いたことがない。
「おい、『二種類の鬼の力を使う人』って――」
険悪なムードに割って入って問いかけようとした時。ずん、と大地が揺れて蓮華は口を噤む。
グラウンドに一匹の餓鬼が降ってきたのだ。大きさは二メートル強。黒い体皮に四本の脚。腕にはカマキリのように鋭い刃が生えている。そしてなんと言っても一番の特徴は、その顔だろう。頭部には口より上全てに無数の目が敷き詰められている。ギョロギョロと不規則に動き回る数え切れない眼球たちが不気味だ。
蓮華は空気が緊張したのを肌で感じた。雑魚の部類の餓鬼とは明らかに気配が違う。鬼の力を持つタイプの餓鬼だろう。
「この巣の親玉か……?」
「かもな。どうする、二人で仕留めるか?」
「……いや、僕一人でやる。もし他にも餓鬼がいたらこの二人が危険だ。暮木さんはここにいてくれ」
「そうか……わかった。無理はするなよ」
蓮華は炎剣を造り出して構え、走り出す。
まずはどんな力を持っているのか探る必要がある。無闇矢鱈と炎を出して視界を遮ってしまうのは得策ではないと考えた。
蓮華が炎剣を振りかざして斬りかかると、餓鬼は鎌のような腕で応戦してきた。炎剣と鎌がぶつかる度にまるで金属同士が衝突したような甲高い音が奏でられ、火花が散る。
大きく振り下ろしてきた餓鬼の鎌を弾き飛ばし、蓮華はがら空きとなった餓鬼の胴体を横一線に斬りつけてみる。
しかし刃が肉を裂くことはなく、火花を散らして薄く表面を傷つけるだけに終わった。
硬い。緋鬼ほどではないにしろ、かなり強固な外殻を持っている。
餓鬼の無数の目が一斉にギョロリと動いた。すると突然、まるで深い水の底に落とされたように蓮華の体が何倍にも重くなり、さらに蓮華の周囲の地面が丸く切り取ったように陥没した。
餓鬼の振るう鎌が横から迫る。普段の蓮華なら容易に回避できるはずのそれが、思うように体が動かず、避けきれない。間一髪で炎剣を滑り込ませてガードし直撃を免れたものの、威力を殺しきるに至らず蓮華は突き飛ばされる。
飛ばされたことによって餓鬼から離れると、今度は体が軽くなった。蓮華は思い通りに動く体を駆使して受け身を取り、体勢を立て直す。
餓鬼の周囲に見えない力が働いていた。いや、と言うよりも、地面が陥没した範囲からして蓮華の周囲だけに力が働いたとみるべきだろう。
――レオのような念力の能力か?
でも、レオの念力とは感触が違った。念力は体全体を圧迫されるような力の働き方だったが、さっきのはただ単に体が重くなった感じだった。ということは、重力を操作する類いの能力かもしれない。
またギョロリと餓鬼の目が蠢く。すると何かに押し潰されたように、次々とグラウンドに円形の陥没が生じていく。
一つ一つの加重範囲はそれほど広くない。もし捕まってもすぐに抜け出せばいい。それほど恐れる必要もないだろう。
蓮華は陥没部分を避けて縫うように駆け抜け、餓鬼に攻撃を仕掛ける。
躊躇なく迫る蓮華に対し餓鬼は得意の鎌を振り回してきたが、蓮華は一本目の鎌を身を捩って回避し、二本目の鎌を炎剣により受け流す。そして懐へと潜り込み餓鬼の脇腹辺りに手を押しつけ、ゼロ距離爆破。
稲妻のような爆炎が大気を飲み込み、餓鬼の巨体を吹き飛ばす。砲弾のごとく飛んでいった餓鬼はそのまま校舎へと衝突し、一棟を丸々崩壊させて瓦礫に埋もれた。
さらに蓮華はいくつかの炎弾を上空に打ち上げる。火炎の弾は流星のように空を駆け、崩壊した校舎へ次々に爆撃を開始。怒涛の火柱が校舎を一瞬にして火の海へと変える。
「グォオオォオオオオオオォオオオオオオオッッッ!」
だが、奴はまだ生きていた。
不気味な咆哮が空気を振動させたかと思うと、燃えさかる瓦礫が重力に逆らい浮いていく。その炎の海の中で、餓鬼は立っていた。
脇腹は抉れていて、目がいくつか潰れ、前足が一本吹き飛んでいる。
「しぶといな……」
蓮華は炎剣を構え、燃えさかる校舎に向けて突っ走る。土手を駆け上がり、最後にジャンプ。上空から餓鬼へと斬りかかる。目玉の敷き詰められた頭部ならば他よりも柔らかいはずだと踏んだのだ。
だが、餓鬼へと斬りかかる寸前。ドクリ、と蓮華の心臓が強く脈打つ。
――オナカスイタ。
頭の中で知らない声が反響する。直後、喉の奥を突き上げるような、情欲にも似た食欲が蓮華を襲った。
「ぐぅ……っ!」
意識が混濁し炎剣を振るうこともできず、蓮華は胸を押さえて餓鬼へと向かって落ちていく。そんな蓮華は、餓鬼にとって迫り来る的でしかない。虫でも払いのけるように餓鬼の鎌が蓮華を打ちのめす。どうにか炎剣で受け止められたが、蓮華は強烈な勢いで弾き飛ばされて瓦礫の上を転がった。
「なんだ……これ……」
蓮華はふらつく足を鞭打ってなんとか立ち上がり、餓鬼と対峙する。だが焦点が定まらない。視界が歪んでいる。そして何よりも……目の前の餓鬼を喰いたくて仕方がなかった。
――タベタイ。タベタイ。
また知らない声が蓮華の頭の中で幾重にも響き渡る。いや違う。知らない声じゃない。それは蓮華自身の声だった。
心臓が暴れている。呼吸が落ち着かない。まるで何かの発作のようだった。
――タベタイ。タベタイ。
ダメだ。この食欲に身を任せてしまったら、自分は自分でなくなる。きっと戻れなくなる。直感的にそんな気がした。
気がつけば眼前に餓鬼がいて鎌を振り上げていた。蓮華はすんでの所で身を転がして振り下ろされた鎌を回避する。鎌は瓦礫を砕きながら地面に突き刺さる。
――オナカスイタ。タベタイ。
「くそ……っ!」
自我を保つことで精一杯だった。こんな状態ではまともに戦えない。
それどころか、蓮華は屈んだ状態から起き上がることすらできなかった。体が異様に重い。蓮華の周囲が円形に窪んでいる。餓鬼の操る重力に捕まったのだ。
餓鬼がゆっくりと近づいてくる。既に獲物を捕らえた気でいるのだろう。捕食者の余裕を見せるような動きだった。
餓鬼が両腕の鎌を振り上げる。そして、ハサミのようにそれを振り下ろした。
だが、その刃が蓮華に届くことはなかった。
鎌は蓮華を挟み込む寸前で動きを止めている。餓鬼の鎌へ、そして体へ、脚へ、雁字搦めに絡み付いた赤黒い糸が餓鬼の動きを封じていた。その糸の繋がる先は、餓鬼の背後に立つ暮木が握っている。
「ありがとう……暮木さん。助かった」
一つ礼を言って、蓮華は動けない餓鬼の口へと炎剣を突き刺し、爆破。真っ赤な肉片が周囲に飛び散る。頭の吹き飛んだ餓鬼は数秒の時差を置いて糸が切れたように倒れ、ようやく絶命した。
「様子がおかしかったように見えたが……どうかしたのか?」
「いや、何でもないよ。ちょっと目眩がしただけっていうか……」
蓮華は暮木に差し伸べられた手を握って立ち上がり、なんともないように振る舞って体の埃を払う。
発作は収まり、異常な食欲が引いてきた。変な声も聞こえない。呼吸も落ち着いている。大丈夫だ……問題ない。そう自分に言い聞かせる。
「それより、あの鬼人の二人組は?」
蓮華がグラウンドの方に目をやってみると、餓鬼の死骸が転がっているばかりで人影が見当たらない。
「……どうやらどさくさに紛れて逃げられたようだな」
「助けてやったのに、結局礼の一つもなしかよ。まあいいけどさ」
お礼を言われるためにやったわけではないが、しかし終始悪態をつかれて終わったというのもなんだか気分が悪く、蓮華は釈然としない溜め息を零すのだった。