第七話 二つの力
圧倒的な暴力だった。確か、三ヶ月ほど前のことだ。少年がそれ目の当たりにしたのは。
少年はその日、ヘルヘイムの東京の一角にある根城としていたホテルで見張り役をしていた。ホテルの中では二人の仲間が睡眠を取って体を休めている。彼らの命を預かる重要な役目だった。それだけに、正面出入り口付近で気を張り、微かな音さえも聞き逃さないよう神経を研ぎ澄まさせて周囲を警戒していた。
その極限まで敏感になった少年の耳が、一つの足音を捉えた。コツコツと透き通るように高い、女性のヒールの足音だった。
緊張が走り、少年は物陰に身を隠した。足音は、近くの交差点の方から聞こえていた。しばらく身を潜めていると、その足音の主が交差点を横切った。
目の奪われるような黒髪と、相対して輝きを放つ純白の肌。見とれるほど美しい女性だった。だが、美しさに目を奪われたのは一瞬だった。少年は彼女の服装を見て戦慄した。
目を引く白く美しい足が、黒いフリルのミニスカートからスラリと伸びている。しかし、上に纏っているのは丈の短い黒いローブだった。
――餓鬼教だ……!
餓鬼教の特徴的な黒いローブは見間違えようがなかった。その狂気も、少年は身に染みて知っている。
心臓が跳ね上がり、足は震えを起こす。幸いにも、彼女は少年に気がつくことなく交差点を通り過ぎていった。
安堵して息をついたものの、しかし少年の役目は周囲の安全を確かめることだ。このまま餓鬼教を見過ごすわけにもいかなかった。せめて遠くに行くまでは監視しなければ――と、少年は彼女を尾行した。気付かれないよう、細心の注意を払って。
「あームカつく。なんで私が梶谷さまから離れて緋鬼の捜索なんかを……! ムカつくムカつくムカつくムカつく」
彼女はブツブツと文句を呟きながら歩いていた。やがて公園の中に入り、その中心で立ち止まると、正面にそびえ立つビル群を見上げた。
「あームカつく!」
憂さ晴らし――だったのだろう。彼女は高層ビル群に向け手を突き出した。すると膨大な血の濁流がその掌から放たれ、うねるようにして枝分かれして次々と高層建築物を貫き、なぎ倒していく。まるで巨大なバケモノが這いずり回り、地上を破壊して回っているかのようだった。
それが業血の能力であることは少年にもわかった。だが、これほど大規模な破壊をもたらす業血は初めて目の当たりにした。
彼女の業血の通り過ぎた後は瞬く間に瓦礫の山と化していった。だが、異変が訪れる。瓦礫の山からざわざわと黒い影が湧き、蠢き始めた。
餓鬼の群れだった。
虫の巣を叩いたように、餓鬼の大群が湧いて出たのだ。怒り狂った彼らは、破壊をもたらした主へと進軍を始めた。怒涛の足音が迫り、少年は完全に腰が抜けていた。しかし、そんな中でも彼女は、
「ちょうどいいオモチャが出てきた」
不敵に笑っていた。
彼女が手を振り払った直後、餓鬼の群れの直下から無数の巨大な業血の針が飛び出した。何体かの餓鬼が突き出した業血により宙に舞ったが、彼女の狙いはそれではなかったらしい。彼女が勢いよく手を閉じるように両手の指を絡めて組み合わせると、どういうわけか地面から飛び出た無数の針はバチバチと電流を弾けさせ始めた。そして――放電。周囲が昼間のように明るく染め上げられるほどの強烈な電流が迸り、無数の針から放たれたそれらは餓鬼の群れを一網打尽で焼き尽くした。電流の止んだ頃には、蠢いていた餓鬼の軍団が一体残らず死滅していた。
「んー、スッキリした」
軽い調子で体を伸ばした彼女を恐怖の眼差しで覗きながら、少年は違和感に気がついた。彼女の両手の甲に、餓鬼の呪いの痣があった――
あの出来事から三ヶ月ほどが経過した今、少年にとってその事実は、ある一種の希望に変わっていた。
あの時見かけた餓鬼教の女は、業血と雷――二種類の鬼の力を使っていた。ということは、鬼人は鬼の力を二つ持つことも可能……なのかも知れない。
どうやってその力を得たのかはわからない。でも、考えられるとしたら、餓鬼に二度呪われれるしか――
その魔の囁きに誘われ、少年の足はヘルヘイムに点在する『餓鬼の巣』の中へと進んでいった。
そこはどこかの大学のようだった。そこはかとなく知的な空気を感じさせる校舎の並んだ立派なキャンパス内を歩き、やがて芝生の茂るグラウンドへと出る。周囲には何もない。――今はまだ。
キャンパスに踏み入れた瞬間から、肌を舐め回されるような不快な空気が漂っていた。その正体は、すぐに姿を現す。
校舎の壁を乗り越えて、わらわらと黒い影の軍団がグラウンドへと押し寄せて来た。ゾッとする光景を前に、少年は震える体を奮い立たせる。
――力が欲しい。〝家族〟を救うための、鬼の力が。
そのためには、もう一度呪われるしかない。そして鬼の力を得て、ここを切り抜ける。その目的を果たせなかった時は――それまでだ。
覚悟と一緒に唾を飲み込んだ。
しかしその時。
「天助ぇえええええええ!」
空から呼び声と共に、一人の人影が降ってきた。