第五話 幻影
「はぁー。ホンマ、心配して損したわー。無駄やったわー。時間返して欲しいわー」
「だからごめんって……」
根城にしているヘルヘイム側の高級マンションに帰還してからも紗良々の不機嫌は続いた。蓮華は何度目になるかわからない謝罪を口にするも、彼女は新しく買い直したバランスボールに乗っかって揺られながら文句を垂れ続けている。
ちなみに補足すると、蓮華たち自身や蓮華たちの服が消えないのと同じように、表の世界の物をヘルヘイムに持ち込んでも午前零時の同期の時に消えることはない。また、ヘルヘイム側の物を表の世界に持ち出すことはできない。ヘルヘイム側の物は隙間を通った瞬間に消滅してしまうらしい。
「まアまア、紗良々たん。蓮華のことが大事で心配になっちゃったのはわかるケド、その辺にしてあげなヨ」
ソファーでポテチを食べていたターヤンの一言に紗良々はバランスボールから転がり落ち、
「ハ、ハア!? なななな、何言っとんねん! べつにそんなんちゃうし! バカちゃうか!? バカちゃうか!?」
顔を真っ赤にして慌てふためきだした。急にテンション高いなー、と蓮華は他人事のように傍観する。
「そもそも、俺の話を最後まで聞かなかった紗良々にも責任があるだろう。蓮華が捕われたと聞いた途端に飛び出して」
壁際に立っていた暮木も紗良々を窘めた。集中砲火を浴びた紗良々の顔がむくれていく。
「なんやなんや! 皆してウチをいじめおって! こんな幼気な幼女いじめて楽しいか! あーもうやんなっちゃうわー。せっかく見つけた犯人取り逃がすし、今日はホンマ良いことないわー」
自分で自分のことを幼気って言うなよ……とツッコミを入れたくなりながらも、気になるワードが飛び出して蓮華は問いかける。
「犯人……? 何のことだ?」
「これや」
紗良々は再びバランスボールに飛び乗って、懸命に手を伸ばしてテーブルの上の新聞をたぐり寄せ、蓮華に投げる。
「そのトップの一番大きい見出し見てみ」
言われて蓮華の目に入ったのは『都内で連続行方不明事件』の文字。
「……足立区で新たに行方不明者一名。都内で合計五人目に……」
その記事によると、一ヶ月ほど前から都内で行方不明の通報が相次いでいるらしい。先日新たに足立区で女子高生が消息不明となり、これで都内だけで五件目の行方不明者となったそうだ。
たった一ヶ月で五人が行方不明……確かに奇妙な事件ではある。
「で、この事件がどうかしたのか?」
「それ見てピンと来うへんとか刑事失格やぞ」
「いや僕刑事じゃねーし……」
勝手に刑事物の物語始めんじゃねーよと蓮華は心の中でツッコミを入れておく。
「明らかに鬼人の仕業だな」
暮木が静かに答えた。
「何でそう言い切れるんだ?」
「未発見のままの行方不明者が年間どんだけ出とるか、蓮華は知っとるか?」
紗良々の出題したクイズに、蓮華は「さあ」と首を傾げる。ニュースでたまに見ることがあるが、その総数など考えたこともなかった。
「およそ二千人や」
「えっ、そんなに!?」
年間二千人……つまり、毎日五人以上の行方不明者が出ている計算になる。
「そんでそのほとんどが鬼人の仕業なんよ。中には人間の起こした事件や事故なんてのもあるやろうけど、そんなの比率で言うたら僅かやろうな」
「鬼人なら何一つ痕跡を残さず人間を消すことができるからネ。跡形もなく喰うカ、ヘルヘイムに引きずり込めばイイ。いくら優秀な警察デモ、遺体が見つからなければ行方不明と結論付けるしかナイ」
ターヤンが補足するように言う。
本当は鬼人の起こした殺人事件でも、表の世界の人にはそんなことがわかるわけもなく、行方不明事件として扱われるということらしい。
嫌な話だと蓮華は思った。何気なく生きていたこの世界の裏側でそんなことが起きていたなんて。そして表の世界で生きる人たちは、その恐怖をただの『謎』として扱い、知らないまま生きているのだ。そう考えるとゾッとする。
「もしかして、東京に来た理由ってこれだったのか?」
紗良々の提案で『情報収集』と称して東京に来たが、そもそもお目当ての鬼人が少ないことを知っていて何故東京に来たのか謎に思っていたが、この事件が理由だとしたら十分に頷ける。
すると、蓮華の推測は正しかったらしい。紗良々は「まあな」と頷いた。
「どーもきな臭くてな。様子見のためにも東京に来ておこう思ったんよ」
「でもそれならそうと言ってくれればよかったのに。『緋鬼の情報収集のため』なんて嘘ついて」
「緋鬼の情報収集はあながち嘘でもあらへんもん。それに、ただニュース見ただけやし確証がなかったんや。いざ来てみて『見当違いでしたー』じゃ恥ずかしいやん」
つまりただの面子の問題だったらしい。誰もそんなことは気にしないのに、こう見えて紗良々は意外と周りの目を気にするようだ。
「それで……予想通り今回のこの行方不明事件も鬼人が絡んでいて、その犯人を紗良々が突き止めたってことか?」
「突き止めたっちゅうか、そんな大した話やないんやけどな。ウチとターヤンで手分けして怪しい場所を張ってたんよ。そしたらウチの方に引っかかったっちゅう話や。まあ、そいつ一人の仕業とも限らんし、逃げられてもうたけどな」
「紗良々でも捕まえられなかったのか……」
「だってしゃーないやろ! 人質ぽーんて投げられてもうたんやから! 見捨てるわけにいかんやろ!」
「はいはいわかったわかった」
実際は危ない状況だったのだろうが、紗良々の『人質ぽーん』のせいですごくシュールに感じ、まったく緊迫感が伝わってこなかった。
「あ、そうや。そういえば駅の方でイルミネーションやっててん! 見に行かんか?」
「なんだ急に」
紗良々の自由奔放過ぎる話題転換に蓮華の思考が軽く事故りかけた。当の本人はお構いなしに目を輝かせている。こう見ると年相応の幼女にしか見えない。
「でもそっか、そろそろクリスマスか……」
東京に来て早一ヶ月。もう十二月半ばになった。あと一週間もすればクリスマスがやってくる。聖なる夜に向けて街がチカチカし始める時季だ。
やっぱり都会のイルミネーションって豪華で綺麗だったりするんだろうか、と蓮華は少し気になった。
蓮華の地元は田舎のためイルミネーションなんてこじんまりしたものしかなく、わざわざ見に行くような大層なものなんてなかった。
それでも、中学一年の冬。蓮華は穂花に無理矢理連れられてわざわざ見に行った事がある。
駅前のロータリーに植えられた木に色取り取りの安っぽい電飾が飾られただけの、幻想的でもなければ特別工夫があるわけでもない、在り来たりで本当にちっぽけな明かりたちだった。でも……春の雪解けのように、凍りついた心を優しく溶かしてくれるような、そんな温かくて綺麗な光だったことを蓮華は今でも鮮明に覚えている。
「なあなあ、ええやろ? 見に行かんか?」
「そうだな……まあ行ってもいいよ」
というか正直、蓮華は見に行きたいと思っていた。ちょっと楽しみなくらいに。せっかく東京に来たのだから、どうせなら都会の派手な電飾を見物しておきたい。
けれど、ノリの悪い大人が二人。
「俺は興味がない。遠慮しておく」
「……ボクもべつににいいかナ。二人で行っておいでヨ」
結局、蓮華と紗良々だけで行くことになった。暮木はともかくとして、ターヤンが一緒に来ないことが蓮華は意外だった。ターヤンなら何が何でも絶対ついてくると思ったのに。紗良々が行くところなら地獄でもついて行きそうな奴なのに。
〝隙間〟を通り表の世界に繰り出すと、身の固くなるような冷気が肌を撫でる。でもそれも一瞬のこと。蓮華は鬼の力で自身の体を適度に発熱させ、寒さを弾き返す。この力があれば冬は怖い物知らずだ。
少し歩いて駅へと通じる大通りに出ると、夜空を照らす星々のような煌めきが眩しく目を刺激する。
「うはーっ。綺麗なもんやなぁ」
「……ああ、正直予想以上に綺麗だ」
駅へと通じる並木道の歩道が、淡く優しいオレンジ色の光で満ち溢れている。まるで木の葉の代わりに無数の星が宿っているかのような、そんな煌めき。おとぎ話の世界に迷い込んでしまったような錯覚がした。
蓮華は意味もなく心を突き動かされてなぜだか目の奥が熱くなってしまうくらい、率直に、綺麗だと思った。と同時に、この景色を穂花と一緒に見れたら――と、そんな思いが胸の隅を掠めてしまう自分がいて、心の奥底に鉛が溜まってしまったような気分の落ち込みを感じた。
「……なあ蓮華」
しばらく光のトンネルを二人で見とれながら歩いていた時だった。紗良々が蓮華を呼ぶ。いつも強気な紗良々にしては珍しく、遠慮がちに目を伏せて。
「手ぇ……繋いでくれんか……?」
「は?」
蓮華は思わず生涯何度目かの本気の「は?」を吐く。
いやいや、こんな場所で手を繋ぐとかカップルじゃあるまいし――と恥ずかしさに身が引けた。
現に周りを見れば、ちらほらと若いカップルが歩いていて、手を繋いでイルミネーションに酔いしれている。というよりも、よく見ればカップルしか見かけない。現時刻は夜十一時過ぎ。こういう人の少ない時間だからこそ、カップルが二人きりの時間を過ごすために訪れるのかもしれない。
――そんな場所で手を繋ぐだと? それはどういう意味で言ってるんだ……?
見れば、紗良々は顔を赤らめている。特に鼻の辺りが赤くて、鼻水を啜っていた。
「寒いねん! めっちゃ寒いねん! ウチは凍えそうやっちゅうのに、アンタ何平気そうにしとんねや! さっきから蓮華の方からなんや温かい空気漂っとるし、鬼の力使うて体温めとるやろ!? ヒキョーやぞ! ウチのことも温めぇや!」
なんだ、そういうことか――とちょっと拍子抜け。
顔が赤かったのも、ただ単に寒くて鼻を赤くしていただけのようだ。ちょっとドキッとしてしまった自分が恥ずかしい。
「ったく、しかたねーな……」
差し出された紗良々の手を軽く握る。冷え切った小さな手は、蓮華が触れた瞬間にびくっと強ばって、すぐに力強く握り返してきた。当然のことなのだが、しかし凄く小さな手で蓮華は今更になって驚いた。
蓮華は優しく力を込めて、紗良々の手を通して熱を送る。じんわりと紗良々の全身を温めるように。
その刺激を感じ取ったのか、紗良々がぶるりと体を震わせる。一瞬おどけたように顔を強ばらせたが、すぐにとろけた顔になった。
「ふぁ~、あったかぁ……。なんやこれ最高に気持ちええなぁ……」
「そりゃどーも」
「冬場は蓮華必須やな」
「僕のことを暖房器具か何かと勘違いしているようだなお前」
「ついにホッカイロも喋る時代になったんやなぁ」
「誰がホッカイロだ。そんな時代は多分永遠に来ねーよ」
「プヒヒ! おおきにおおきに」
無邪気な笑顔を浮かべる紗良々に、蓮華は少し胸が和んだ。心の奥底に溜まっていた鉛が抜け落ちていく気がする。
でも、そんな時だった。いや、そんな時だからこそだったのかもしれない。
一人の女性とすれ違う。その面影に蓮華はハッとして、紗良々の手を手放して振り返る。
「穂花……?」
蓮華の声を聞き届けることなく遠ざかっていく女性の後ろ姿。彼女はその先で待つ男性を見つけると小走りに近づいていき、とびきりの笑顔を向けて飛びついた。
その横顔は、全くの別人だった。
見間違い。あるいは、幻覚でも見ていたのかもしれない。
何をやっているのだろう。穂花がこんなところにいるわけないのに――そんな虚しさが蓮華の胸に広がっていく。
「蓮華……」
「ああ、ごめん……。行くか」
蓮華は紗良々に手を差し伸べる。けれど、紗良々はその手を取らなかった。
「……プヒヒ。もうええわ。十分楽しんだし、そろそろ帰ろか」
そう言う紗良々は、無理して作ったような苦しげな笑顔を浮かべていた。