第四話 背負いし業
「――おい、待てよ……! 待てって言ってんだろ! おい、紗良々!」
「なんや小僧。いきなり呼び捨てかいな。失礼なやっちゃなぁ」
蓮華の怒号にも似た呼び止めに、ようやく彼女は足を止めて振り返った。
「そんなこと今はどうでもいいだろッ! さっさと説明してくれ! アレは一体なんだ!? それに……僕に何が起きてんだよ!?」
空腹のせいか、あるいは理解不能な現実の連続による混乱のせいか、蓮華は豆腐の角に当たっただけで破裂してしまいそうなほど気が立っていた。
「まあまあ、そう喚くなや。ご機嫌よろしゅうなぁ。こうして無事に再会できたっちゅうことは、取り敢えずは約束通り、何も喰わず、何も飲まずにいたようやな。感心感心」
「……いや、飲んだし、食ったぞ。朝に水を、そして昼に牛丼を。でも――!」
「飲めへんかったし、食べられへんかった。そうやろ?」
やはり、彼女は全ての事情を知っているようだった。
蓮華が何も食べられなくなっていることを、こうなることを。
「……どういうことだ。わけがわかんねぇよ……! なんだよこれ! 説明してくれよ!」
「何って、そりゃもちろん餓鬼の背負う〝業〟やて。自分で調べる努力もせんかったんか? これだから現代っ子は……」
彼女は馬鹿を見る目で蓮華を見下して言い、「はあ」とわざとらしく盛大な溜息を吐く。そして手に持つりんご飴を退屈そうにぺろりと舐めた。
「口に入れた物は燃え尽き炭になり、水は蒸気へと変わり果てる。故に何も食えず、何も飲めず、飢えと渇きに苦しみ続ける。けれども決して飢餓では死ねへん存在。それが『餓鬼』――さっきのバケモンや。アンタは昨晩、その餓鬼に呪われてもうた。正しくは、呪いの血を受けてもうた。その血は〝人間を餓鬼に変える〟んや。せやからアンタは今、餓鬼と同じく何も食えへんし、何も飲めへん状態になっとんねん」
「人間が餓鬼になる呪い……? なんだよそれ……。僕はもう……一生何も食えなくて……でも死ねない……?」
それは、考えるだけで目の前が暗転しそうなほど果てしない絶望だった。
生き地獄。まさにその言葉がしっくりくる。
「そうやな……正確には何も食えへんわけやない。さっき言うたのは餓鬼の一般的な通説でな。実は餓鬼にも喰えるモンがあんねん。『同類』や」
「同類? どういう意味だ……?」
「だからな、俗に『怪異』やら『妖怪』やら言われる、〝裏の世界の生き物〟であるバケモノの類いなら喰えるんや。つまり、共食いや。っちゅうても、何かを喰ったところで空腹が満たされることはあらへんのやけどな。餓鬼は底なしの飢えと渇きを宿命付けられた存在。何をいくら喰っても、それが満たされることは永遠にあらへん。せやのに、奴らは空腹に耐えられずバケモノ同士喰らい合ってまう。醜い存在やろ?」
「無意味に共食いをし続ける、バケモノ……」
だとしたらなんと不憫な、そして彼女の言う通り、醜いバケモノだろう。尽きることのない空腹に踊らされ、ひたすら共食いをし続ける生き物なんて。
「しかもな、その旺盛過ぎる食欲のせいで一つ問題が生じてもうた。餓鬼が他のバケモノを喰い尽くしてしもうたんや。つまり、食べられるモノがなくなった。餓鬼にもコミュニティがあってな、その仲間同士の場合はさすがに喰い合わへん。そこで餓鬼は〝表の世界の生き物〟に目をつけた。……それが人間や」
彼女は深い悲しみを帯びた目でそれを口に出す。
「餓鬼は地獄に落ちた人間の成れの果て。種族的に人間が一番近い存在……つまり、人間は餓鬼にとって同類に限りなく近い存在っちゅうわけや。でも餓鬼は人間を喰えへん。餓鬼は〝裏の世界の生き物〟しか喰えへんからな。せやから、餓鬼は人間に呪いをかけて無理矢理バケモノに変え、〝裏の世界〟に引きずり込む。そうして呪われた人間は〝鬼人〟となり、餓鬼に喰われる餌となり果てるんや」
蓮華の周りをぐるぐる回って歩きながら彼女は言う。
彼女が歩く度に下駄の奏でるからからとした軽い音が闇に響き渡る。
「キジン……?」
「餓鬼に呪われ、餓鬼になってもうた元人間。そして餓鬼と同じ〝業〟を背負わされ、同じ地獄を味わい続ける餓鬼と人間の狭間の存在……。ウチらはそれを〝鬼人〟と呼んどる。元人間の餓鬼と生粋の餓鬼とを区別するために、そう呼び分けとるんや」
「つまり僕は今、その『鬼人』ってやつになっちまってるのか……?」
蓮華の問いに、彼女は足を止めて「ああ、そうや」と即答した。
「正しくは、今のアンタは鬼人ほど餓鬼に近くなく、しかし人間には程遠い存在……差し詰め、鬼人もどきってとこやけどな。まあ同じようなもんや。ほら、その手の甲にしーっかり刻み込まれとるやろ? 餓鬼の血を流し込まれ、呪いをかけられた証。餓鬼の餌の証が」
彼女は蓮華に右手の甲を向けてひらひらと踊らせて見せた。そこには、蓮華と同じく赤い痣がついていた。
蓮華は今一度、自分の右手の甲の赤い痣を見る。彼女の言う『呪いの証』が、確かにそこにある。
「そんな……どうしてだよ……どうして僕なんだよ! 人間なんて他にもいくらでもいるだろ! なのに、どうして僕なんだ!? 地獄に落とされるようなことなんて一つもしていない! 悪さもせず、荒波を立てずにひっそりと生きてきた……。健気に生きてきたつもりだ。なのに、どうして……ッ!」
「……なるほどな」
彼女はなにやら納得したように頷いてから、言った。
「せやけど、残念なことに……だからこそなんやろうな」
「は……?」
「餓鬼はな、善良な人間の、あるいは健全な魂を持つ人間の肉を好むんよ」
「なんだよそれ……。餓鬼道ってのは、罪を犯した人間の行き着く地獄なんだろ? なのに、どうして善良な人間が……」
「それはあくまで餓鬼へと転生しうる人間の条件の話や。餓鬼が狙う人間の条件の話やない。つまり、アンタはただバケモノに狙われただけのただの被害者っちゅうことや」
蓮華はようやく理解した。自分の状況を。自分の不運を。
つまりこれは、ただの事故。金持ちが強盗に狙われるのと同じ。
バケモノ好みの餌が、自分だった。そういうことなのだろう。
「ははは……」
蓮華は思わず乾いた笑い声を上げた。
「ほんっと、理不尽だよな。僕はいつも思ってたよ。この世界は不公平過ぎる。どんだけ悪さしようがちゃっかり幸せに生き続けるやつがいて、反対に根っから優しくて悪さなんて一つもしてこなかった人が、病で苦しんで死んじまうこともある。ほんと……ムカつく。だから僕はこの世界が嫌いなんだ」
「……何かあったみたいやな」
何かを読み取ったように彼女は訊ねてきた。
蓮華は空に語りかけるように、静かに言葉を紡ぐ。
「ああ……五年前、兄ちゃんが死んだんだ。頭も良くて、優しくて友達も多くて……自慢の兄ちゃんだった。……なのに、兄ちゃんが高校二年生の時に癌が見つかって、その一年後に、死んじまった。僕が小学六年生の時だ」
何年経っても色褪せることなく覚えている、あの日の悲しみを。あの日の絶望を。
「それも、とても安らかなんて言えない死に方だった。体なんてミイラみたいに痩せ細ってて……。抗癌剤の副作用で吐き気と全身に痛みが生じるらしくてさ。病院のベッドでぐったりして、ずっと苦しそうに息してた。そしてそのままだんだん呼吸が弱くなっていって……とうとう呼吸が止まった」
あの時の薬臭い病室に鳴り響いた心電図の死を運ぶ音は、今も蓮華の耳に貼り付いて離れない。
そして、たった十八年の、夜空を駆ける一粒の流星のように孤独な運命を歩んだ兄の人生を目の当たりにし、蓮華は小学生にして全てを悟った。
人の死は儚く、無情だ。
人は、未来にある幸せのために今の苦しみを耐え抜いて生きている。
では、その幸せにたどり着く前に死んだらどうなるか。
苦しんだ人生だけが残るのだ。まさにそれが、蓮華の兄の人生だった。
きっと良くなると信じて地獄のような苦しみの抗癌剤治療に一年間晒され続けたにも関わらず、兄は死んだ。衰弱しきって、苦しみながら死んだ。
死んだら未来はない。それまでの結果しか残らない。
だから蓮華はこの世界が、この報われない世界が嫌いだった。
「兄ちゃんはあんな死に方をするような……あんな死に方が赦されるような人じゃなかった。お手本のような善人じゃなかったかもしれない。でも少なくとも、絶対に、悪人じゃなかった。僕だってそうだ。善人じゃないかもしれない。だけど、悪人のつもりは毛頭ない。なのに……最後はこれかよ。僕が何をしたって言うんだよ。善は報われない。悪も捌かれない。こんな不平等な世界……くそ食らえだ」
「おいおい、小僧。大人しく聞いとればメソメソと女々しいやっちゃなぁ。諦めるのはちょいと早計やで」
「……どういう意味だよ。僕は餌なんだろ? あのバケモノに食われる運命なんだろ?」
「言うたやろ? アンタはまだ『鬼人もどき』やて。完全に鬼人になったわけやない。バケモノになる一歩手前。せやからまだ餓鬼もアンタは喰えへんし……間に合うねん」
「……間に合う……? 人間に戻る方法があるのか……?」
紗良々は涼しげな顔で「ある」と断言した。
「餓鬼に呪われた時から丸一週間、何も飲まず、何も食わんこと。それが人間に戻る条件や」
「は……?」
耳を疑った。
「つまり一週間の……断食……?」
「呪い言うたけど、まあ正確には餓鬼の毒みたいなもんでな。一週間辛抱すれば、その毒は勝手に抜けるんや」
「おい、ふざけんなよ……。そんなの無理に決まってんだろ! 今でさえ限界だってのに……! それに、人間が一週間飲まず食わずで生きられるわけが――」
「せやけど今のアンタは人間やない。鬼人もどきや。餓鬼に呪われたあの日から、アンタの体は時間が止まっとる。成長もしなければ、栄養を必要とすることもあらへん。つまり、餓鬼と同じく飢餓で死ぬことはあらへんのや。さっきも言うたけど、餓鬼っちゅーのは餓死寸前の苦しみを味わい続け、しかし決して飢えでは死ぬことができひん存在やからな」
「そんな……」
その条件は、あまりに受け入れがたかった。
これから一週間この苦しみを味わい続ける……いや、空腹も渇きも、日を重ねるごとに増していくはず。つまり、苦しみも今より倍増することだろう。考えただけでも――気が狂いそうになる。
しかし、ふと疑問が生まれた。
どの道今のままでは何も食べられない。つまり、断食して人間に戻らざるを得ないのではないのだろうか。
いや、そもそも何も食えないなら、何も食うなという条件が発生することすらおかしい。
「……なあ、一つ訊いていいか? じゃあ逆に、どうすれば鬼人もどきは鬼人になっちまうんだよ?」
興味本位から口に出た蓮華の質問に、紗良々は不適に笑ってりんご飴を一口囓った。
「さあ、なんやと思う?」
人間に戻る条件は、一週間の断食。
じゃあ、逆に鬼人になる条件は……。
「何かを、食べること……?」
「正解。さらに一つ、ヒントをあげよか。餓鬼は共食いする生き物。自分と同じ、同類の生き物しか喰えへんのや」
何か、嫌な予感がした。
「……おい、お前……何食ってんだよ?」
昨日から紗良々が手に持っていた『りんご飴』。彼女はそれを時々食べていた。共食いしかできない〝業〟を背負う餓鬼に呪われた、鬼人のはずなのに。
「何かって? 自分の目で確かめたらええやないか」
そう言って、紗良々は蓮華に向けて食べかけのりんご飴を放り投げる。条件反射で手が出て、蓮華は危なっかしくそれをキャッチした。
真っ赤なりんごの果実を飴でコーティングしたりんご飴。遠目ではそうとしか見えず、蓮華は疑いもしなかった。あるいは、浴衣という衣装の作り出す雰囲気にも騙されていたのかもしれない。
しかしそれはまったくもってりんご飴などではなかった。
割り箸のような棒に突き刺さった、真っ赤で艶のある、柔らかくて丸い何か。
「……肉……?」
まさか……と、憶測が確信へと変わっていく。
餓鬼は共食いしかできない。鬼人は餓鬼と同じ〝業〟を背負う。なら、鬼人も――
「うッ……!」
吐き気が胃からこみ上げて、蓮華はとっさにそれを投げ捨てた。
「こらこら、このバカタレが。貴重な人肉を捨てるなっちゅうの。罰当たりなやつめ」
さらりと、紗良々はその答えを口にした。
「お前……人間食ってやがったのか!?」
あり得ない。狂ってやがる。こいつは、この女は――危険だ。そう蓮華の中の警笛が告げた。
しかし同時に理解する。今朝の穂花へ感じた、あの『食欲』の原因を。
この幼女と同じように、自分も人間を喰おうとしていた。
そんな自分自身が、おぞましい。
「しかたないやろ。腹が減るんやから」
「だってお前、鬼人は食べなくても死なないって……!」
「ああ、死なへんよ」
紗良々は蓮華の投げ捨てた『肉』を拾い上げ、
「でも腹は減る。欲求には逆らえへん」
軽く埃を払い――かぶりついた。そして美味しそうにもしゃもしゃと租借して、飲み込んだ。人肉を。人間の、生肉を。
「お前、自分で何言ってんのかわかってんのか!? 何やってんのかわかってんのか!? お前だって元人間だろ!?」
「ああ、その通り〝元〟人間や。今はちゃう。とうの昔に、ウチは人間として生きることを諦めた。それがどういう意味か、わかるか小僧?」
静かに震える怒り。そんなものが紗良々の声の奥底にこもっていた。
「完全に鬼人になってもうた以上、もう人間に戻る術はあらへん。何も食えず、何も飲めず、成長すらもできひんこの体じゃ、人間に紛れ込んで生きることも不可能。だからウチは、人間を諦めるしかなかったんや。小僧に、そのウチの気持ちがわかるんか? いんや、わかるわけないやろ。わかられてたまるか。まだ鬼人もどきになってたった一日の小僧が、ウチのことわかったような口で説教たれんなや。ホンマ、ムカつくで」
紗良々は八つ当たりでもするように残りの肉を豪快に一口で頬張って、串を投げ捨てた。
「でも、だからって……それが人を殺して喰っていい道理になるわけねぇだろ!」
「せやから、わかったような口利くなっちゅうてんねん」
紗良々の鋭く睨む毒蛇のような眼光が蓮華を突き刺した。
幼女にはあるまじき貫禄。僅かにでも動こうものなら切り刻まれてしまうのではないかという気迫さえあった。
「何も知らんくせに上辺だけ見て知った気になりおって。ウチはそういう輩が大嫌いなんや。……そうやな。だからこんなんはどうや。蓮華、アンタも一度鬼人になって、ウチの気持ちを理解すればええねん」
「何を――」
チクリと体が痺れた。見れば、紗良々の体に静電気のような小さな電流が跳ねている。
「なあ、蓮華。鬼人になる方法、もう気づいとるんやろ? そう、人間を喰うことや。あるいは鬼人でもええで。今のアンタは、人間か、元人間やったら喰えるし、その血やったら飲めるっちゅうわけや」
紗良々が一歩踏み出すと、反射的に蓮華は一歩退いた。
体の芯から震えが込み上げる。たった自分の胸くらいまでしかない身長の可愛らしい幼女が、怖い。
このままではこの子に喰われるのではないかという疑念が本気で頭の隅を過ぎる。その恐怖のあまりか、数歩後退したとき、蓮華は躓いて尻餅をついた。
「人間にしか味わえん快楽があるように、鬼人にしか味わえん快楽っちゅうもんもある。空腹は最高のスパイス、とも言うしなぁ。初めて人肉を喰らった時なんて、それはもう……たまらんで」
無様に尻餅つく蓮華に跨がるように、紗良々が膝を落として顔を近づける。
そして蓮華にその身を差し出すように浴衣を首元から着崩して、鎖骨から肩までを大きく露出させた。まるで生まれてから一度も日の光を浴びていないかのように、その肌は白く透き通っている。
「ほら、腹が減っとるんやろ? 我慢せず……ウチを喰らってもええんやで?」
ドクリと心臓が跳ね、暴れるように脈動を打ち始める。
それはどうしようもなく――美味そうに見えた。まるで乱暴に揺さぶられるように、食欲が言いしれぬ刺激を受けている。異常な量の唾液が分泌され、口の中が満たされ始める。
歯が痒い。欲望にうずいている。今すぐに、その宝石のような輝きを放つ肉へかぶりついてしまいたい――と。
――だが、
「ふ、ふざけんな!」
蓮華は止めどなくあふれ出る欲望を押し殺し、紗良々を押しのける。相手が小柄な体格の幼女だということも忘れて、目一杯の力で。
彼女は軽々と突き飛ばされて後ろに強く尻を打って倒れた。
「人なんか食えるわけねぇだろ……! この――バケモノッ!」
口汚く吐き捨てた蓮華の言葉に、一瞬、紗良々の顔に痛々しい影が落ちたように見えた。その姿には見た目の年頃相応のか弱さが滲み出ていて、罪悪感から胸が締め付けられる。でも、蓮華はすぐに立ち上がり、もたつく足を賢明に動かして逃げた。
気にする必要などない――そう自分に言い聞かせる。だってあいつは、本当にバケモノなのだから。
――僕はそんなバケモノにはならない。人なんて、絶対に喰わない。
本当の餓鬼の通説では、食べ物を手に取っただけで火に変わってしまうそうです。
さらに無威徳鬼と有威徳鬼の2種類が存在するそうで、無威徳鬼は飢渇に苦しめられるが、有威徳鬼は多くの福楽を受けることができるとか。
他にも9種類の餓鬼が存在するとする説や、それ以上の36種類の餓鬼が存在するとする説もあるそうです。
餓鬼一つでも奥が深い……。