第二十二話 またね
周囲に降り注いだマグマはその熱によりあらゆるものを発火させ、辺り一面を火の海へと変えていく。
「蓮華!? どうしタ!?」
「な、なんや! どないしたんや!?」
「わ、わからない……ッ! 胸、が……ッ!」
胸が……心臓が痛い。無数の針が心臓を抱いているかのような鋭く刺す痛み。それが脈動に合わせて襲い来る。息ができないほどの激痛だった。
「鬼の力を……使い過ぎたのか……?」
今日は立て続けに鬼の力を使っている。それに、治癒力頼りの無茶な戦闘もして体を酷使した。もしかして、その反動がきたのだろうか、と困惑しながら考える。
「どういうコト? そんなことあるノ、紗良々たん?」
「……ウチにもわからん。とにかく、このままじゃあかんな……」
紗良々は立ち上がって蓮華から離れると、臆することのない視線で灰鬼の群れに向き合った。
「紗良々たん……? 何ヲ……」
「時間稼ぎにしかならんけど……今のウチにできる精一杯や。それに、ウチもそろそろ覚悟決めなあかん思てな。……プヒヒ。あかん。バカが一歩踏み出して気張っとんのを見て感化されてもうたみたいやわ」
なにやら不明瞭な物言いをして、紗良々は右手の人差し指と中指を立てて口の前で縦に添える。久しぶりに見るその構え。緋鬼との戦闘時に見た、呪術の構えだ。
「オン アビラ ウンケン ソワカ――我が境界に踏み入れんとする悪しき魂を退けよ」
以前と比べるとずいぶん短い呪文を唱えると、紗良々の指先に淡く輝く蒼白い光が宿される。
「天地蒼翠――境結の界!」
そして紗良々はその指を横一線に振り抜いた。すると紗良々の足下が発光を始め、五芒星の描かれた魔法陣が浮かび上がる。その魔法陣は徐々に幅を広げていき、直径が道路の道幅一杯にまで拡大。次いで円の境界から光が溢れだし、天へと真っ直ぐに昇っていく。それは穢れのない、純白で透き通った清らかな光だった。
「こ、これは……?」
「簡単に言えば、結界や」
その言葉通り、光の壁は灰鬼の腕が触れると弾き返し、侵入を許さない。灰鬼が氷塊や雷撃を放ってもそれは同じだった。
「すごイ……。紗良々たん、こんなこともできたんだネ」
「言うても、長くは保たん。破られるんは時間の問題や。その前に何かしらの策を練らんと……」
灰鬼たちが結界に向けて荒々しい攻撃を始めた。大地を揺らすほどの騒々しい打撃音が鼓膜を刺激する。
「緋鬼を飛ばした時の『羅天星門の術』ハ?」
「さすがに数が多すぎる。無理や」
「……そうダ。その術で灰鬼を飛ばすんじゃなくテ、逆にボクらを飛ばすことってできないノ?」
閃いたようにターヤンは言う。けれど、紗良々は「ダメや」と首を横に振った。
「確かにウチら自身を羅天星門の術で飛ばすことは可能や。せやけど、あの術は魔法陣を通る時、体に負荷がかかんねん。頑丈なウチら鬼人はなんともあらへん程度やけど、今ののぞみには……まず耐えら……れん……」
言いながら、紗良々は突然目元を覆うようにして片手で頭を抱えてよろめいた。
「紗良々たん!?」
「紗良々……!?」
慌てふためく二人の呼び声に、紗良々は口角をつり上げるいつもの笑みを浮かべた。
「プヒヒ……! 問題あらへん……ちょっとふらついただけや」
気丈に言うが、その額には不穏な汗が浮かんでいる。鬼の力の乱用で血が足りていないのだろうか。今まで不調を抱える様子などなかっただけに、その突然の異変には不安にならざるを得なかった。
「でも紗良々たん、顔色が……」
「問題ない言うとるやろ。それより、この状況の打開策のが先決や。何か、何か方法を……!」
ターヤンの気にかける声を振り払って、彼女は言う。周囲では激しさを増す一方の灰鬼の暴れる騒音が響いていた。
「くそ……っ! いつもそうや! いつもウチは肝心な所でなんもできん……!」
「そんなことナイ! 紗良々たんはいつだってボクらのことを救ってくれタ! 紗良々たんがいなければボクらはとっくに死んでいタ!」
「そんなこと言うても、現になんもできとらんやないか! 緋鬼の時もそうや……。結局、ウチは蓮華を救えず、逆に助けられてもうた……っ!」
「まだ、そんなこと言ってんのかよ……」
水晶玉のような大きな目に涙を浮かべて珍しく弱音を吐く紗良々に、蓮華は未だに激痛の暴走する胸を握りしめながら声を絞り出す。
「紗良々が負い目を感じることなんて微塵もない。僕は間違いなく、紗良々に救われたんだ。ターヤンの言う通り、紗良々の助けがなければ今頃僕は死んでいたか、生きていたとしてもろくでもない道を歩いていたはずだ……。だから僕はお前に、返しきれないほどの恩義を感じているくらいなんだ」
返しても返しきれないほどの恩を。それこそ一生を懸けて、あるいは一生を掛けてでも返さなければならない恩を。
「だから、今度は僕にお前を護らせてくれ。護られてばっかりじゃ、いつまで経っても恩が返せないだろ……!」
「蓮華……」
蓮華は今一度立ち上がる。そして結界を取り囲んで闇雲に攻撃を仕掛けている灰鬼の群れを見据えた。
胸の痛みを忘却。右手に意識を集中させ、鬼の力により炎を生み――出そうとした。でも、その瞬間。
「ぐぁあ……ッ!」
鬼の力に呼応するかのようにこれまでとは比べものにならない痛みが心臓を貫き、蓮華は再び膝から崩れて蹲る。ナイフで心臓を抉られているような痛みだった。
「蓮華……!」
紗良々が泣きそうな眼差しを向けて蓮華に寄り添う。
格好つけておいてこのザマ……。自分が情けなかった。
ピシリ、と不穏な音が響いた。顔を上げて周囲を見ると、結界に亀裂が入り始めている。
「あかん……結界が……」
「くそ……っ! どうして……! どうすれば……ッ!」
蓮華は思考を加速させる。
「考えろ……考えろ……! 何か……!」
この状況を打破する方法を。鬼の力を使わず、ここから逃げ延びる方法を。
「安心して」
ショートしそうになりながら頭をフル回転させていた最中、その声は聞こえた。
驚きに目を丸くしたまま、蓮華は後ろを振り返る。
のぞみが立っていた。傷口を手で押さえながら、しかし安らかな笑みを浮かべて。
「のぞみ……? 大丈夫、なのか……?」
「このくらい全然へっちゃらだしっ! ……って言いたいところだけど、うん、ダメかな」
言葉とは不釣り合いなころころとした笑顔を浮かべながら、のぞみは言った。蓮華はその意味がしばらく飲み込めなくて、言葉が出てこない。
「蓮華お兄ちゃんたちは大丈夫だよ。わたしがなんとかするから。だから、安心して」
「な、なに言ってんだよ……。のぞみがなんとかするって、どうやって……」
「わたしの血と肉――全てと引き替えに疫病神の力を使って、ここにいる全ての餓鬼を消滅させる」
「は……?」
――全てと……引き替え……?
「蓮華お兄ちゃん言ってたよね。優しい人が、正しい人が幸せになるべきだ、救われるべきだ、って。わたし、思うの。それを言ったら、蓮華お兄ちゃんこそ幸せにならなくちゃ、って」
のぞみの体が発光を始めた。それはロウソクの灯火のように淡くて、しかし幻想的に輝く薄緑色の光だった。
「おい……ちょっと待てよ……。なんだよ全てと引き替えって……。のぞみを犠牲にして僕らだけが助かるってのか……? なんだよそれ……誰もそんなこと望んでねぇよ!」
「望んでるよ。わたしが」
さらりと風が吹くように、のぞみは言う。
「わたしの『のぞみ』っていう名前ね、自分でつけたの。誰かに希望を与えられるような存在になりたい。望まれるような存在になりたい、って願いを込めて。おかしいよね、実際はまったく正反対の存在――疫病神なのに。だからさ……最期くらい、その名前に恥じない終わり方をさせてよ」
のぞみの体から溶け出すように光の粒が浮かび上がって昇っていく。気がつけば、命を燃やして煌めく蛍の光のような、優しくも力強い光の粒が周囲に飛んでいた。
「それに、これは全部わたしが招いたことだから、わたしが始末をつけるべきなんだよ。もうこれ以上、わたしのせいで蓮華お兄ちゃんたちにツラい思いをして欲しくない。……でも、そんなこと言うと蓮華お兄ちゃんはどうせ『お前のせいじゃない』とか、『責任を感じる必要なんてない』とか言うんだよね。だから敢えてこう言わせてもらうね。わたしを救ってくれた分、わたしは蓮華お兄ちゃんたちを救いたいの」
「待ってくれよ……。僕らなら大丈夫だ。そんなことしなくても、僕ならまだ――ぐッ!」
立ち上がろうとして、でも根性ではどうにもならないほどの獰猛な胸の痛みが蓮華を蝕み、すぐに膝を崩した。
「蓮華お兄ちゃん頑張りすぎだよ。蓮華お兄ちゃんの気持ちならもう痛いくらいに伝わってるから。胸が苦しいくらい嬉しいから。だから……もう休んで」
「気持ちだけじゃダメなんだよ……! 大事なのは結果だろ! 誰も救えなかったら、そんな気持ちに意味なんてない!」
「意味ならあるよ。わたし、ここが温かいもん」
のぞみは胸に手を添えて言う。
「わたし、前は死ぬのが怖かった。でもね、今はすごく温かい気持ちなんだ。寂しさはあるけど……少しも怖くない。それは、蓮華お兄ちゃんのお陰だよ」
「やめてくれよ……死ぬなんて言うなよ……! のぞみの命と引き替えなんて、そんなの僕は嬉しくねぇよ! もっと他に方法が――」
「ごめんね、蓮華お兄ちゃん。でも、どの道わたしは助からないから」
「え……?」
「わたしは餓鬼や鬼人みたいに治癒能力があるわけじゃないから。もう無理なの。だから……どうせ失われるのなら、わたしはこの命を蓮華お兄ちゃんたちのために使いたい」
「そんな……」
「のぞみ……」
紗良々さえも悟ったみたいに声をこぼした。いや、取り乱すことのない紗良々の様子からして、もしかしたら紗良々はもうわかっていたのかもしれない。のぞみの先が長くないことを。
「わたしを疫病神って知っても助けてくれて嬉しかった。お買い物楽しかった。可愛いお洋服すごく嬉しかった。クレープもとっても美味しかった。夜寝る前に遊んだゲームも楽しかった。短い間だったけれど、本当の家族になれたみたいで幸せだった。……皆と出会えて良かった。蓮華お兄ちゃんと出会えて、本当に良かった……っ!」
のぞみは柔らかくて温かい笑顔を浮かべながら、最後にはぼろぼろと涙をこぼしていた。
胸に違う痛みが広がって、切なくて苦しくて、奥底から込み上げてくる感情を我慢することができず、蓮華の目からも涙がこぼれる。
「ねぇ、蓮華お兄ちゃん。もしまた生まれ変わって出会うことができたら、その時もまた……わたしと一緒にいてくれますか……?」
「当たり前だ……! 何度だって、僕はお前を見つけてやる……! 絶対に!」
「えへへ。嬉しいな。それじゃあ……またねっ」
蓮華の涙で歪む視界の向こうで、のぞみが一際眩しい笑顔を咲かせた。花にこぼれる朝露のような涙を浮かべた、明るい笑顔だった。
のぞみは再び胸に手を当てて、瞳を閉じる。
「万病を司る神の力、思い知らせてあげるんだからっ」
そして力強く目を見開くと同時、その体から一層眩い光が放たれて、次の瞬間、水が弾けるようにのぞみが無数の光の粒へと昇華した。
溢れんばかりの命の輝きを宿すその光は天へと昇っていったかと思うと、舞い降りる雪のように周囲に降り注ぐ。
煌めく光の粒を手に受け止めると、包み込むような温かさが手に広がる。のぞみの気持ちが直に流れ込んでくるような温かさだった。
けれど、それも雪のように溶けてすぐになくなった。蓮華たちには何も影響を及ぼすことはない。が、結界を取り囲む灰鬼の群れは違った。
「「ギシャアァァアァアアアアァアアアアァァァアアアアアッッッ!」」
辺り一帯を支配するほどの灰鬼たちの壮絶な断末魔。
光の粒が灰鬼の体に触れた途端、灰色だった灰鬼の体は瞬く間に黒く変色していき、腐敗を始めた。その腐敗は全身に及ぶと、今度はぼこぼこと気泡を発しながら灰鬼の体を溶かしていく。
腐敗は次々と灰鬼の群れを浸食していき、やがて蓮華たちを取り囲んでいた灰鬼の影が跡形もなく消滅した。
「のぞみ……! ――ッくっそぉおぉおぉおおおおおお!」
これまでの喧騒が嘘みたいに静寂の訪れた街に、蓮華の呼び声はゆっくりと溶けていった。