第二十話 キミがため
ターヤンはビルの上から蓮華の後ろ姿を見送った。見えなくなるまで、ただじっと、見送った。
蓮華の足取りはおぼつかなかった。きっと、いや絶対、まだ肉を喰っていない。
蓮華のことだ。あんなぼろぼろでも迷わずのぞみを助けに行くのだろう。そしてその後どうなるのか……それはターヤンにも読めなかった。
もしかしたら窮地に追いやられてついに肉を喰うかもしれない。
もしかしたらそれでも意地を張って肉を喰わず、その結果死ぬかもしれない。
何気なく、絵の具を塗りたくったようなつまらないヘルヘイムの闇空を眺める。体の中身が空っぽになってしまったみたいに味気ない気持ちになった。
自分は紗良々のために、紗良々の大切なモノを奪うようなマネをしてしまった――その罪の意識がターヤンの中に芽生え、根を張り、蝕んでいた。
――本当にこれは紗良々のためなのだろうか。ボクは紗良々のためという純粋な気持ちでこの選択をしたと言い切れるのだろうか。この行動の根源には、嫉妬や憎しみといった醜い不純物があるんじゃないだろうか――そんな気がしてしまう。
背後に気配を感じた。
よく知る気配。ターヤンの好きな気配。花畑に香る蜜のような甘い匂い。
「起きてたんだネ、紗良々たん」
「……これはどういうことや、ターヤン。説明せぇ」
紗良々は奥底に静かな怒りの宿る声で言った。闇の中でも陰ることのない漆黒の浴衣が赤髪とこの上なく似合っていて、いつもながら映える光景だった。
「どういうことっテ、何ガ? 説明しろっテ、何ヲ?」
「とぼけんなや。全て暮木が見とって、ウチに教えてくれたんや。言い訳しても無駄やぞ」
「ヘェ……」
暮木が紗良々にチクった――それはターヤンも予想はしていたことだった。今日は暮木が見張り番の日だ。現場を見られていても不思議はない。
「それデ、そのくれっきーハ?」
「さあの。『この件に俺は関わるつもりはない』とか言うてどっか消えたわ。そんなことより、はよ説明せぇや。アンタ、ウチらを裏切ったんか?」
「裏切ル? このボクがそんなことするわけないジャン」
「じゃあこの状況はなんやねん! 蓮華とのぞみをレオに引き渡したってどういうことや!」
「……それが最善だと思ったからだよ」
おちゃらけた喋り方をやめて、ターヤンは話した。
どういうわけか餓鬼教が蓮華の身柄を欲しがっていること。レオが個人的にのぞみを欲しがっていること。そして、のぞみと蓮華を差し出せば手荒なマネはしない――そうレオに取引きを持ちかけられた、あの日のことを。
「――レオはいずれ蓮華とのぞみを狙ってボクらを襲ってきた。アパートを燃やしたのもレオの仕業だ。きっと、取引きに応じようとしないボクに向けての忠告の意味でね。あるいはボクらをヘルヘイムに誘い出す目的もあったのかもしれない。なんにせよ、あのまま放っておいたらレオがボクたちに奇襲を仕掛けてくる可能性だってあった。だからこっちから先手を打ったんだ」
「先手を打ったって……何言うてんのやアンタ! ただレオに蓮華とのぞみを引き渡しただけやん! そんなん、取引きに応じたのと同じやないか!」
「それは違うよ」
声を荒げる紗良々とは反対に、ターヤンは極めて平坦な声で断言する。
「ボクはただレオに蓮華たちを差し出したんじゃない。これは、ボクが蓮華に課した試練だ」
「試練やと……?」
「我が儘言って肉を喰わず、そのせいで血が足りなくて鬼の力も満足に使えない。はっきり言って、今の蓮華はボクらにとってただのお荷物だ。紗良々だって振り回されてばかりだったじゃないか。そんな奴、ボクらに必要ない。だから蓮華に肉を渡して、一人の力でレオに捕らわれたのぞみを救い出してみせろと命じた。これでも肉を喰わなかったら……もう蓮華はボクらの仲間じゃない」
「なんやそれ……! 何勝手なこと言うてんねん! そもそも、そんなことしてのぞみになんかあったらどないするつもりや!」
「のぞみに何かあったとしたら、それは無力な蓮華の責任だよ。その結果、蓮華が己の無力さを悔やみ肉を喰うなら、のぞみの犠牲も無駄にはならないんじゃないかな。蓮華にとっても良い勉強になるはずだよ。この世界は甘ったれた考えでは生きていけない。それを蓮華は思い知るべきだ」
紗良々の顔に一層深く怒りが刻まれた。そのままズカズカと荒々しい足取りで歩み寄ってきて、紗良々は小さな体を必死に伸ばしてターヤンの胸倉を掴み上げる。
「アンタ、自分で何言うとるかわかっとんのか……!?」
「もちろんだよ。ボクだってのぞみに危害を加えたいわけじゃない。でものぞみは蓮華の連れてきた怪異だ。蓮華と無関係なんかじゃない。蓮華が責任を持つべきだろう。さっきも言ったけど、レオはいずれのぞみを狙って襲ってきた。今のぞみを助けられないなら、この先も同じだ。いずれのぞみは犠牲になっていた。今その問題を片付けるか、先延ばしにするか。それだけの話に過ぎないんだよ」
「……もうええ。話にならんわ。今二人はどこにおんねん?」
「教えたら助けに行くでしょ?」
「当然やろ」
「ダメだよ。そんなの蓮華のためにならない」
「それで殺されでもしたら元も子もないやないか!」
「大切な人を護りたいって気持ちは痛いほどわかる。でもごめん。今はどうしても譲れない」
「……何の話や」
「好きなんだろ? 蓮華のこと」
「な――っ!?」
一瞬にして紗良々の顔が紅潮し、湯気が立ち上るくらいに茹で上がった。さらにターヤンの胸倉から手を放して数歩後退る。
「ふ、ふざけんなやっ! だだだ、誰があんなガキンチョに恋慕なんぞ抱くかっちゅうの! 妄言も大概にせぇやっ!」
「紗良々はわかりやすいなぁ……。まあそういうところもボクは好きなんだけど」
きっとこういう話に耐性がないのだろう。慌てふためく姿は実に可愛らしかった。
「い、今はふざけとる場合ちゃうやろ! そんなんで話はぐらかせる思たら大間違いやぞ!」
「別にはぐらかそうなんて思ってないさ。隠さなくたっていいんだよ? もうバレバレなんだから」
ターヤンはずっと前から気づいていた。紗良々はおしゃべりな性格だが、闇矢鱈と男にベタベタするような貞操観念の緩い女ではない。むしろ磨かれた水晶玉のように一滴の曇りもないほど一途で純粋な心を持つ女だ。
そんな紗良々が蓮華にだけはちょっかい出したり、一緒にお風呂に入って色仕掛けしたり、蓮華を心配して自分の血で飴を作ったり……あの手この手で気を引こうとしていた。蓮華とお風呂に入る時なんて平気なふりを演じていたみたいだが、直前まで深呼吸して入念に心の準備をしてから「よしっ」と気合いを入れていたことも、なんなら、お風呂から上がった途端に顔を真っ赤にして自分の部屋に飛び込んでいったことも、ターヤンは知っている。
そんな紗良々を見て、ターヤンは悔しくて、妬ましくて……けれど何より、微笑ましかった。あんな生き生きとした紗良々を見るのは初めてのことだったから。ずっとそんな紗良々でいて欲しいと思った。そんな紗良々を護りたいと思った。だからターヤンは、この行動を決意した。
「うぅぅ……っ!」
紗良々は真っ赤な顔でうっすらと涙を浮かべながら小動物みたいに唸って、
「……だからなんなんや。ウチが蓮華に惚れとるから贔屓しとるとでも言いたいんか?」
認めた。つまり遠回しにターヤンは振られたことになるわけだが、なぜだかターヤンは悲しさも切なさもなく、むしろ胸の奥がじんわりと温かくなるような気持ちになった。
「まさか。好きな人を護りたいと思うのは当然のことだよ。そこに異論はないし、文句を言うつもりもない。でも、本当に蓮華を護りたいなら甘やかすべきじゃないと思うんだ」
「……なんやそれ」
「ボクらはいつだって蓮華の危機から護れるわけじゃない。これから先、蓮華が一人の時に危険が迫ることだってあるはずだ。その時は、否が応でも蓮華は自分で自分の身を守らなくちゃならない。だから蓮華を護って甘やかしてばかりじゃなくて、喩え荒療治でも、あいつを自立させる必要があると思うんだよ。蓮華に何かあったら、どうせ紗良々は泣く。蓮華を護れなかったことに自分を責めさえするだろう。ボクはそんな紗良々の姿を見たくはないんだ」
「……なんやねんそれ……。ズルいわ。そんなん言われたら、ウチはどうしたらええかわからんやないか……」
「……もし置物でもいいから蓮華とずっと一緒にいたいと紗良々が言うなら、助けに行けばいい。それが紗良々の願いだって言うなら、もうボクは止めないよ」
紗良々はふっと口元を緩めた。
「いんや。そんな男願い下げや。ウチが惚れたんは、自分の腕を差し出すほど愚直な蓮華の心意気やしな。あれは痺れたで」
「あーア。だったらボクがあの時腕を差し出せば良かっタ」
おちゃらけた感じで、ターヤンはそんなことを言ってみる。
「バカタレ。普通は腕を切り落としてもうたら、いくら肉喰うても元通りにならへんのやぞ。それに、そんな下心見え見えの腕喰ったところで痺れんわボケ」
なんだか可笑しくて二人してクスクスと笑い合う。張り詰めていた空気が嘘みたいに和やかになっていた。
「せやけど、のぞみにもしものことがあったら心配や。いくら蓮華のためとはいえ、のぞみが犠牲になるなんて許容できん。せやから、もしのぞみが危ないようやったらウチは最低限の手出しをさせてもらうで。ええな?」
「……はァ。本当に最低限で済むか怪しいところだケド……わかったヨ。どうせ紗良々たんはそう言うと思ってたシ、止められないだろうとも思ってたしネ。のぞみは西にある餓鬼教の教会に連れてかれたヨ」
「プヒヒ! おおきに」
紗良々は屈託のない笑みで応えて、西側に歩き出す。そして屋上の縁に立って――止まった。そしてどういうわけか、そのまま動き出す様子がない。
「紗良々たん? どうかし――」
「シッ。……何か聞こえへんか?」
言われて紗良々の隣に立ち、ターヤンは耳を澄ませる。
……確かに聞こえてくる。遠くから何かの集団が行進してくるような、そんな地響きが。
それから間もなくして、その正体は姿を現した。
「なんや……あれ……!」
「嘘ダロ……?」
二人して驚愕を隠せず、双眸を揺らした。
それは、灰色の軍団。特徴からして、紗良々や蓮華の言っていた灰鬼と呼ばれる新種の巨大な餓鬼だろうことはターヤンにも予測がついた。だが眼下の街を横切るように進軍しているのは、どういうわけかその群れだった。その数、軽く十を超えている。
「これはどういうコト……? まったく同じ見た目をした餓鬼が複数体存在することなんて有り得るノ?」
これまで見てきた餓鬼は、似た見た目の個体こそいても、顔の形が違ったり、角の生え方や数が違ったり、目の数が違ったり、腕や脚の数や形が違ったり……必ずどこかしらに各々で異なる特徴を持っていた。
しかしあの灰鬼の群れは、民家よりも大きな体格、灰色の体皮、単眼の瞳、体中に生えた角、蜘蛛のように這いずり回る四本脚……どれも複製したようににそっくりだった。
話によると、さらには不死身であり、複数の鬼の力まで持つときた。規格外にもほどがある。
「そんなん聞いたこともあらへん……。でも、今はそれよりも――」
紗良々は一呼吸置いて息を飲む。
「あいつら……餓鬼教の教会の方へ向かっとらんか……?」
ターヤンは言われて気がついた。灰鬼の群れは北から南西に向けて真っ直ぐに行進している。その先にあるのは、のぞみたちのいる餓鬼教の教会だった。