第十九話 護るべきものを護れる力
蓮華はおぼつかない足取りで外に出た。
微睡んでいるみたいに頭の中が霞む。視界がぼやける。圧倒的に血が足りていない。今にも意識が落ちそうだった。
左手にはターヤンが置いていった人肉を剥き出しで握っている。外に出る前、意を決して口に放り込もうとしたが、針金で縛られてしまったかのようにどうしてもそれ以上手が動かず、結局食べられなかったのだ。
わかっている。
これを食べなければ、自分は足手まといのままだ。
これを食べなければ、周りに迷惑をかけ続けることになる。
緋鬼を倒すことも、丈一郎を殺すこともできない。誰かを護ることだって、自分を守ることだってできない。自分はいつだって、誰かに護ってもらってばかりだ。
そんなことはもうわかりきっている。そんな自分を情けなく思い、悔やみさえしている。
でも――
蓮華は足を縺れさせて倒れた。地球に抱きつくみたいに地面に全身を打ち付け、冷たくて硬いアスファルトが無情に蓮華を受け止める。
「わかってるよ……食べなきゃダメだってことくらい……。そんなことわかってんだよ……。でも……っ!」
蓮華は蹲るように額を地面に押しつけて、拳を強く叩きつける。生きている証である痛みが拳に滲む。
「どうしてもダメなんだ……! 誰かの命を犠牲にするような生き方なんて……できない……!」
喩え死肉でも、それは人の命を喰うことと変わらない。
バケモノになったからと言って、しかし無闇に人の命を奪うようなマネはしたくない。体はバケモノになっても、どうしても、心まではバケモノになりたくなかった。
蓮華は自覚していた。自分が弱いことを。それは身も、心もだ。
――だけど、だからって諦めたくはなかった。護るべきものを、正しき者を護りたかった。
今の蓮華に答えは出せない。それでも、立ち止まっている暇もなかった。
答えが出せなくても、動かなくてはならない。護るべきものを護るために。のぞみを助けるために。
自分のせいでのぞみが傷つく未来など、許せないから。
「のぞみ……!」
だから蓮華は悲鳴を上げる体を奮い立たせて起き上がる。
喩え血が枯れ果てようと、がむしゃらでも動いてやる。行動するしかないんだ――今の蓮華にはそれしか思い浮かばなかった。
レオの後を追って蓮華は懸命に足を進めた。レオの向かった先など知らない。だが、方角だけはわかった。匂いだ。どういうわけか、濃密な血臭が漂っている。その先に手掛かりがあると踏んで、蓮華は進み続けた。
血臭の原因はすぐに姿を現した。道ばたに餓鬼の引きちぎられたような残骸がばらまかれていたのだ。それも一体だけではない。まるでヘンゼルとグレーテルのパン屑みたいに餓鬼の残骸が道を作り、無残な血の海を生み出していた。
吐き気のするような生臭い血臭に蓮華は思わず顔を歪める。道路や建物の壁に飛び散った餓鬼の血痕は、生々しくどろりと流動的に垂れ流れていた。
餓鬼の残骸はどれも乱雑に捻りきったように解体されている。間違いない。レオの念力によるものだ。のぞみは餓鬼を引きつける体質だし、そのおびき寄せられた餓鬼をレオが一掃しながらこの先へ向かったとしたら、この惨状も頷ける。
蓮華は確信し、パン屑のようにばらまかれた餓鬼の残骸を辿って道を進む。
たどり着いた先は一つの教会だった。広い前庭を持つその教会は餓鬼の惨殺体と血に溢れ返り、教会にあるまじき地獄絵図と化している。
地獄の中に足を踏み入れると、足下をぬるりと気色悪い踏み心地が伝う。おびただしい量の血と肉がぶちまけられたその庭に、もはや真っ当な足場などなかった。
辺りを見渡す。この教会を最後に餓鬼の残骸は途絶えていた。
蓮華はふらつく足取りのまま、倒れかかるようにその教会の大きな両開き戸へと手を掛け、押し開く。
整然と並べられた長椅子。神々しいステンドグラス。中世ヨーロッパ風なアーチ状の柱。そのどれもが血に塗れている。教会の中も餓鬼の死骸で埋め尽くされていた。
そんな中、正面に構えるはキリストの縛り付けられた巨大な十字架の像。そしてその真下に設けられた重々しい祭壇。
そこに、のぞみはいた。さながら生け贄を捧げるかのごとく仰向けに寝そべって。
「のぞみ!」
蓮華はふらつく足を懸命に動かして一目散に駆け寄る。だが、
「ぐふッ……!」
脇腹に衝撃を受けた直後、吐血。腹が熱い。唐突過ぎるそれに思考が追いつかず、蓮華は視線を下げて腹部を確認する。すると、右脇腹を白銀のナイフが貫いていた。
それを理解した途端、熱が鋭い痛みに変わる。血がじわりと滲み、視界が揺らいで片膝をついた。
「待ってたぜぇ、緋鬼の鬼人」
ナイフを手元で遊ばせながら不敵な笑みを浮かべるレオが、柱の陰から姿を現した。
「シェン・ターヤンはどうした? なんかの罠のつもりかぁ?」
「罠なんかじゃ、ない……。ターヤンは餓鬼教にもお前にも、魂は売っていなかった。それだけのことだ」
蓮華は脇腹からナイフを引き抜き、掠れる声を絞り出す。傷口から血がどっぷりと溢れ出し、一瞬意識を持って行かれそうになった。
「うひははは! だろうなぁ。あいつはそんなヤワな男じゃねぇ。目を見ればわかる。だが……お前が一人で来たってのはきな臭ぇなぁ……? まあいい。罠だろうがなんだろうが、俺にとっちゃ好都合だ。たっぷり――調教してやるよ」
レオの見開いた目が怪しく煌めいた。
「……何を言ってんだ……?」
「従わねぇ奴には力で示すしかねぇ。お前は意志が強くてよく吠えそうな犬だ。あのまま監禁してもいずれ俺に噛みついてきたに違いねぇ。そういう奴は一度痛めつけねぇと言うことを聞かねぇからな。だからお前のことは力でねじ伏せて鼻をへし折ってやろうと思ってたのさ。まさか一人で来るとは思わなかったが……うひははは! バカが極まってんぜ、お前! 傑作だ。今後一切、俺に刃向かう気も俺から逃げる気も起きねえくらいのトラウマを刻みつけてやるよ。そしてお前は俺様の食料として管理され続けるのさ。うひははは!」
「……羨ましいくらいのクソ野郎だな、お前は……」
蓮華は立ち上がり、脇腹から引き抜いたナイフを横へ放り投げ、左手に持つ人肉を強く握りしめる。
「どうしてそんなに簡単に人を傷つけられる……。どうしてそんなに簡単に人を喰おうと思えるんだよ……」
「うひははは! こいつはおもしれぇ質問だ。そんなもん決まってんだろ。それが生きる楽しみだからだ。食欲は人間の三大欲求の一つ。つまり、食事は人間の幸せの三分の一を占めてんだぜ? その幸せを俺たち鬼人が求めて何が悪い。幸せは誰しも平等に享受されるべきだろう?」
「だから罪のない、お前に危害を加えたわけでもない人を、鬼人を、怪異を、喰うのか?」
「当然だ。俺にとって人も鬼人も怪異も、喋る食料と同義。つまり、俺の人生を濃密にするための〝糧〟に過ぎねぇ。鬼人の世界は自然に暮らす野生動物たちと同じ、喰うか喰われるかの弱肉強食の世界だ。俺に言わせりゃ、喰われるような弱い奴が悪ぃのさ」
「……なるほどな。やっぱり僕はお前が羨ましいよ。そこまで簡単に割り切れちまうなんて。でも――正しいとは思わない」
蓮華は人肉を手放す。ぼとりと鈍い音を立てて肉が地面に貼り付く。
「僕らは野生動物じゃない。知性ある生き物だ。だから、互いに支え合い、互いに幸せになれる道があるはずだろ。お前のように人を傷つけてまで手に入れる幸せなんて、僕は認めない。鬼人の世界にはそんな幸せしかないと言うのなら、僕は一生――不幸でいい」
蓮華はポケットから紗良々に貰った血飴を取り出し、包装紙を剥いて口に放り込む。
波が引くように脇腹から鋭い痛みが失せていき、瞬く間に傷口が塞がっていく。ぼやけていた頭が鮮明になっていき、意識がはっきりしてくる。体にのしかかっていた倦怠感が嘘のように晴れ渡り、体が軽くなる。
「僕はお前なんかに屈しない。のぞみを返せ」
蓮華は周囲に熱気を纏わせ、レオを睨んだ。
「ほう……。何を喰ったのか知らねぇが……おもしれぇ。やれるもんならやってみやがれ、緋鬼の鬼人」
レオの足下から星屑のように煌めく無数の白銀のナイフが飛び上がり、矛先を蓮華へと向けて宙に漂った。それらはマシンガンのごとく連続的に射出され、刃の弾丸となり蓮華に襲い来る。
蓮華はそのナイフ群に向けて右手を翳す。無数のナイフたちは蓮華に届く前に小さな炎を上げ、熔解。赤熱する鉄の液体に変わり果て、雨のように周囲に降り注ぐ。
しかし全てのナイフを熔解しきった次の瞬間、
「ぐあ――ッ!」
蓮華の翳していた右手があらぬ方向へ曲がり、肉が裂け、骨が砕け、肩の根元から腕が捻り切れた。
「うひははは! まずは一本――」
言いかけて、レオの表情が固まる。それは恐らく、蓮華の捻り切れたはずの右腕が既に再生し、完治しているからだろう。
この飴を渡された時から予想はできていたが、やはり――と蓮華は確信する。
鬼人は摂取した血肉を自らの血か肉に変換する。傷を負っていれば優先的に肉に変わり傷を癒やし、治癒箇所がなければ鬼の力の源である血に変わるのだ。つまり、この飴を舐め続けている限り、蓮華はあらゆる傷を瞬時に治癒できる。さすがに首から上を損傷したら終わりだろうが、それ以外ならきっと回復可能だ。それはつまり、不死身に近い。
蓮華が寸前までこの飴を舐めずにいた理由が、それだった。
この飴が溶けきるまで、恐らく五分程度。その五分で、全てにケリをつける。
レオが呆気に取られている隙を突き、蓮華は両手に纏わせた火焔を同時に放ち、レオを左右から挟み撃ちする。
我に返ったレオは畳返しのようにモザイクタイルの古めかしい石床を念力で引きはがし、自らの周囲に防壁として築き上げた。火焔はその防壁へと接触すると爆炎を巻き起こし、煙を立ちこめさせながら木っ端微塵に粉砕する。
その煙が霧散した直後、蓮華は既にレオの懐にいた。
「な――ッ!?」
レオの顔が驚きに固まる。
蓮華は右拳に燃えたぎる炎を纏わせ、
「はあッ!」
渾身の力でレオの腹――人体の急所である鳩尾を目掛けて叩き込む。
叩き込んだ炎拳は大気を吸収し、衝突と同時に爆発。凄まじい爆炎と爆風を生む。拳打と爆炎の二つが直撃したレオは風を切って吹き飛び、背中から壁に激突。その衝撃で壁が崩壊し、砂煙が巻き上がる。
だが、嫌な予感がした。すぐに蓮華は掌の上に野球ボール大の渦巻く火球を形成し、砂煙の中の見えぬ敵へと追撃する。砂煙を吹き飛ばしながら飛んでいった火球は標的を捉えて紅蓮の花を咲かせ、再び辺りを明るく照らし出す。
しかし――
「危ねぇ危ねぇ。俺じゃなきゃ死んでたかもなぁ」
爆煙と塵煙の中、一人の影が動いている。やがて煙が収まった時、そこには無傷の、それどころか服に砂埃すらついていないレオが何事もなく歩いていた。
やはり……と蓮華は冷たい汗を額に垂らす。レオを殴った時、違和感を覚えたのだ。おそらく、レオの腹に蓮華の拳は届いていなかった。その前に膜のような何かに拳が遮られていた。
「うひっ……うひひっ……うひははは! 今ので確信したぜ。お前に俺は倒せねぇ」
レオの口元が怪しく歪んだ。
「何が起きたかわからねぇってか? なら一度試して確かめてみてもいいぜ?」
レオは「かかってこい」とでも言いたげに両手を広げた。
その挑発を甘んじて受け入れ、蓮華は掌を翳し、軽く火の玉を撃つ。レオの言うとおり、何が起きているのかこの目で確かめておきたかった。
流星のように飛ぶ火球は、しかしレオに届く前に〝何か〟に衝突し、爆炎を上げた。その爆炎もレオの周囲を這うばかりで、届かない。鎮火した後にはレオの周囲だけが黒く焦げ付いていた。
「結界……?」
レオを囲むように見えない壁がある。結界か、バリアか、そういう類いのものとしか考えられなかった。
レオは「うひははは!」と相変わらずの高笑いを浮かべた。
「結界か、いい響きだ。だがそんな大層なもんじゃねぇ。これは〝空気の壁〟だ」
「空気の壁……?」
「俺の力は万物を意のままに操る念力。その操作対象は気体も含まれる。だからこうして空気を圧縮し、頑丈な障壁を作り出すことも可能だ。この壁を破れない限り、お前は俺に触れることさえできねぇ。うひははは! さあどうする、緋鬼の鬼人?」
蓮華は顔を苦く潰す。
レオの強さが蓮華の予想を遙かに上回っていた。だが、蓮華に悩んでいる暇はない。こうしている間にも、どんどん飴の効果時間が削られている。
蓮華は炎剣を造り出して構え、地を強く蹴り特攻を仕掛ける。だがレオに斬りかかろうとした直後、ぱん――という渇いた破裂音がはためき、蓮華は吹き飛ばされた。
地面を転がって体勢を立て直す。何が起きたのかわからず困惑しレオを見る。レオは一歩たりとも動いていない。
爆発。何かが爆発し、その風圧で蓮華は吹き飛ばされた。一体何が――
「空気爆発だ」
レオは意気揚々と答えを吐く。
「念力により高密度に圧縮した空気を解放することで生じる疑似爆発。風船を割るみてぇに空気が炸裂すんのさ。それが今の空気爆発だ。くひはははは! 遠距離攻撃しても空気障壁が俺を守る。近づけば空気爆発でダメージを喰らう。どうだ? 鉄壁だろ?」
レオは悦に浸った余裕の顔を見せた。
なら――と、蓮華は炎剣を地面に突き刺す。赤い光の漏れ出す亀裂がモザイクタイルの石床に生じ、その赤い亀裂はレオへと一直線に走った。
「おっと」
素早く危険を察知したのか、レオは軽々とその場から飛び退く。その直後、レオのいた場所に巨大な火柱が上がり、地面ごと吹き飛ばした。
――避けた。ということは……。
「良い勘してんじゃねぇか。確かに、この障壁じゃ地面からの攻撃は防げねぇ。だが、その分俺だって警戒してんだ。そう簡単に喰らわねぇよ」
だが、それが唯一の突破口。なら狙うしかない。
蓮華は周囲に六つの火球を展開。そのままレオに斬りかかる。
レオは蓮華を近づけさせないよう、また空気爆発により蓮華を吹き飛ばした。けれど蓮華はその瞬間、周囲に展開させていた火球を一斉砲火。と同時、炎剣を地面に投げつけて突き刺し、地中からの奇襲を行う。
だが、レオは礼拝堂に並べられていた長椅子を宙に打ち上げ火球を受け止め、地面を粉砕して地中の火焔を塞き止めた。
――全く通用していない……。もう飴もかなり小さくなっている。早く勝負を決めないと……まずい。
焦燥に駆られながら、業火でレオを包み、炎剣で斬りかかり、火球で奇襲を仕掛け――喩え通じなくとも、蓮華は攻撃の手を緩めず攻め続ける。
時折レオからの反撃を喰らい、腕が吹き飛び、脚が捻り切れ、脇腹が抉れた。だが例のごとく飴のお陰で瞬時に回復。事なきを得た。
その戦いの中で蓮華はわかったことがあった。レオの念力は物体を支配するわけではなく、磁石の磁場のように外力を与え、動かしている。だから体を念力で操られそうになっても、抵抗すれば振りほどくことが可能。腕や脚も警戒して力を込めれば捻りきられることもない。
レオとの戦い方がわかってきた。だが、そんな攻略は役に立たなかった。
時間切れだ。
飴が米粒ほど小さくなり、そして溶けきってなくなった。もう瞬時に回復することも、鬼の力を乱発することもできない。
蓮華たちの戦闘により教会の中は無残に荒れ果て、壁も床も椅子も柱も何もかもが破壊されている。もはや原型を留めていない。
ここまでの激戦を繰り広げてもなお、蓮華はレオにたったの一撃も浴びせることが叶わなかった。
息が上がっている。特効薬の飴が切れたせいで意識まで朦朧としてきた。
「おやおやぁ? とうとう燃料切れか? うひははは! ちょうど良い。俺も飽きてきた頃だ。そろそろエンディングと行こうぜ」
レオが蓮華に向けて手を伸ばす。その瞬間、蓮華は体の隅々まで舐め回されたかのような感触を覚え、ぞわりと総身に寒気が走る。
体の自由が利かない。凄まじい圧力により全身を圧迫されているような感覚がした。
レオの手の動きに合わせ、蓮華の体が宙に浮いていく。次いで、視界が波打った。内蔵が持って行かれそうな勢いで体が飛び、蓮華は壁に叩きつけられる。
「ご……はっ……!」
背中を強打し、骨に、内臓に鈍痛が波紋を広げる。肺の空気が強引に吐き出され、呼吸ができない。
だが、悪夢は始まったばかりだった。
レオが手首を翻す。その動きに合わせてまた蓮華の体が見えない力に引っ張られ、反対の壁にぶつけられ、柱に打ち付けられ、床に、天井に衝突し――蓮華の体は子供のおもちゃにされたような無茶苦茶な動きで礼拝堂を暴れ回る。それらは次第に勢いを増していき、蓮華が衝突する度に壁や柱を破壊していく。
「あ……が……っ」
やがて血まみれになり、精神と肉体が糸一本で辛うじて繋がっているような状態になり果てた頃、蓮華は倒れることも許されず、レオの念力により礼拝堂のど真ん中に立たされる。
レオは天井に向けてもう片方の掌を翳す。するとシャンデリアに似た照明器具から電球や装飾品が振り落とされ、真鍮の骨組みのみになった。それは天井から引きちぎられると、ぐにゃりと飴細工のようにひしゃげ、螺旋状に捻れて形を変える。最終的に形作られたそれは、鋭い矛先を持つ槍だった。
その槍はゆっくりと降下し、レオの頭上で一時停止。そして『行け』と指示でもするようにレオが軽く手を振ると、槍が弾丸のごとく高速射出された。
蓮華の腹部に激痛が突き抜ける。槍は蓮華の脇腹を貫通し、巨大な風穴を空けた。
おびただしい血が噴き出し、どろりと内臓がこぼれ落ちる。蓮華は痛みに悲鳴を上げることもできず、膝から崩れ、その場に倒れ込んだ。
冷たく凍えるような濃密な死の気配が傷口から忍び込んでくる。瞼が重い。今にも眠ってしまいそうだった。
「蓮華お兄ちゃん……?」
蓮華を呼ぶ声が鼓膜を撫でる。のぞみの声だ。
「やだよ……。なにこれ……」
どうやら最悪のタイミングで目を覚ましてしまったらしい。うろたえて震えるのぞみの声が聞こえてくる。
――何をやっているんだ僕は……。こんなところで寝ている場合じゃない。早く、起き上がらないと……。
蓮華は根性で瞼を押し上げ、顔を上げる。祭壇の上で今にも泣き出しそうにこちらを見るのぞみの姿と、その横に立つレオが目に入る。
「そうだ、緋鬼の鬼人。顔を上げろ。本当の地獄はこれからだ。俺はお前を心の底から屈服させるためにこの場を用意したんだ。今気絶されちゃ台無しなんだよ」
レオはいつもの歪んだ笑みを顔に貼り付けながら言う。
「人の心をへし折るのに最も効果的な方法。それはそいつの最も大切なモノを奪うことだ」
「……な……にを……」
その刹那、響き渡ったのは、
「――うぅうぁああああああああッ!」
のぞみの悲痛な悲鳴だった。のぞみの左手の人差し指がレオの念力によりあらぬ方向へとねじ曲がり、そのまま止まることなく捻り切れ、真っ赤な命のかけらを零した。
「の……ぞみ……!」
「うぅう……! 痛い……痛いよ……!」
のぞみは涙を浮かべ、左手を抱えるようにして蹲った。その隣に立つレオは、のぞみの引きちぎった人差し指を手に取り恍惚とした表情で眺めている。
胸の奥で弾けるように激情が燻った。だが――何もできない。動くこともままならない。守る力が、ない。何より、そんな非力な自分が悔しく、腹立たしい。
レオはのぞみの人差し指を一口で口に放り込むと、味を噛みしめるように咀嚼した。骨を噛み砕く生々しい音がうるさいほどに響く。その顔は段々と綻んでいき、愉悦を滲ませていった。
「そうかぁ……これが怪異の肉の味かぁ……! うひっ、うひははは! 他の肉より酸味が強ぇ。風味もクセがあって独特だ。でも、うめぇ……。うめぇなぁ!」
のぞみの肉を喰いながら味の感想を並べる狂人を前にして何もできず、蓮華は歯を噛みしめて拳を握り、震わせる。そんな蓮華をレオは羽のもがれた虫を見るように見下し、愉しげに口元を歪めた。
「おいおい、どうした緋鬼の鬼人? なんつー顔してんだよ。フィナーレはこれからだぜ。上を見な」
蓮華は必死に首を持ち上げ、言われたままに上を見る。
そこには、蓮華の脇腹を貫いた槍が血を滴らせながら浮いていた。そしてその矛先は――のぞみに向いている。
背筋に寒気が走った。
「やめ、ろ……ッ!」
「うひははは! ゲームオーバーだ」
レオがのぞみの髪を掴んで無理矢理体を起こさせると、ひゅん、と風を切って槍が放たれる。それはのぞみの腹部を穿ち、赤黒い穴を空けた。
「え……?」
のぞみは悲鳴ではなく困惑を口にし、目を見開いて口から一筋の血をこぼした。そしてゆっくりと瞼が閉じていき、再び祭壇に伏せる。
「嘘、だろ……。のぞみ……。のぞみ……っ!」
「うひははは! どうだ? お揃いの傷だぜ? なかなかいい演出だろ? うひははは!」
あざ笑うレオの声が礼拝堂にこだまする。
「ふざ……けるな……っ!」
悲しみと怒りが混濁したどす黒く重たい何かが胸中に渦巻き、蓮華は固く拳を握りしめる。
目の前には、蓮華が捨てた人肉が砂埃を被って転がっていた。
――力が欲しい。護るべきものを護れる力が。
蓮華は、ゆっくりと手を伸ばした。