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そして僕はバケモノになった  作者: 夢見 裕
第一章 始まりの一週間
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第三話 炭化した日常

 結論から言うと、今日学校に来てしまったのは失敗だった。

 始業式では恐竜の鳴き声の如く腹を鳴らし、それも一度や二度ではなく、始業式の最中鳴り続けたものだから、周りの生徒たちも我慢の限界を迎えたのか途中から隠す気配もなく嘲笑され、「あいつ腹鳴らしすぎじゃね?」「空腹ってレベルじゃねーぞ」と密やかに笑われるという辱めを受けた。


 さらにその後の授業中も蓮華の腹は駄々をこねる子供の如く喚き続け、クラスの皆からは嘲笑を通り越して冷ややかな失笑を向けられ、ついには三時限目の授業で「ちょっと白崎くん、大丈夫? かなり具合悪そうだし、保健室行きなさい」と、先生から退室命令を受ける始末。遠まわしに「うるさいから出てけ」と言われたようなものだ。

 それに、空腹と喉の渇きが極限に達し、とても勉強できる状態ではなかった。まるで集中などできず、何も頭に入ってこない。これでは学校に来た意味がない。ただ笑われに来ただけだ。


 蓮華は保健室でしばらく休んだ後、今日は具合が悪いので帰ります、と、昼休みを見計らって下校した。勉強できないのならこれ以上学校にいても無駄だ。汚名を重ねるより、今日は帰った方が懸命なことは明白だろう。

 きっと今日から蓮華を馬鹿にしたような噂話が飛び交うに違いない。早くも明日からの学校が憂鬱だった。


 自転車を押しながら重い足を引きずるようにして歩き校門を過ぎたあたりで、蓮華のポケットの中でケータイが震える。見ると、穂花からメールを一件受け取っていた。

 ちなみに蓮華はガラケー派なのでスマホではない。だからなんちゃらというメッセージアプリは使えず、穂花はスマホだが蓮華に合わせてメールを送ってくれるのだ。


《帰っちゃうの? 大丈夫? 帰ったらしっかりご飯食べなきゃダメだよ!》


 絵文字付きの可愛い文面だった。どこかで帰るところを見られていたのかもしれない。しかし、あんなことがあった直後だというのに普通に接してくれることには安堵した。どうやら穂花は朝の出来事を冗談だと思ってくれているようだ。


 蓮華は《ありがとう。大丈夫》と素っ気ない文を返す。

 今日一日の我慢だ。今夜あの不思議な少女に会えば、全てが解決するはずなのだから。

 家に帰って、ひたすら部屋にこもって、夜を待とう。






 ――そう思っていたはずなのに、気がつくと蓮華は牛丼屋の前にいた。家の近くにある牛丼チェーン店だ。

 自転車に跨って、ふらふらと定まらないハンドルを握りしめて、弱々しくもペダルを蹴って必死に自分の家を目指していたはずなのに。


 どうして自分がここにいるのか自問自答して、すぐに一つの答えが弾き出される。

 何がどうしてなんだ? 腹が減ってるんだから当然だろ――と。 


 蓮華は朦朧とした意識の中、見えない糸に引っ張られるように店内に足を進めた。

 店内に入った途端、鼻腔を突き抜けるは甘塩っぱいタレの匂いと、脂の乗った肉の香り。砂漠の中でオアシスを見つけたような気分だった。


 もう我慢の限界だ。蓮華は溢れ出る生唾を必死に飲み込んでカウンターに腰掛ける。そしてほとんど無意識に牛丼メガ盛りを注文し、ものの数分で目の前に山のような肉の盛られた丼が運ばれてきた。


 白い湯気の立ち上る牛丼を前にした途端、容赦なく食欲を掻き立てる香りが大量の唾液を分泌させ、頭の中は真っ白になった。冷静さなど翼が生えてどこかに飛んでいった。肉の頂きに箸を突き刺し、雪崩のように口にかっ込む。


「ああ、めちゃくちゃうま……」


 ほかほかに弛んでいた蓮華の顔が一瞬にして青ざめる。


 ――おかしい。苦い。噛めば噛むほど苦い。そして具が砂のように崩れていく。


 蓮華は今にも吐きそうになる口元を押さえて勢いよくトイレに駆け込み、


「おぇえぇえええ!」


 口の中の異物を便器へと盛大に吐き出した。そして口から出てきたその物体を確認して、ひたすら驚愕する。


「な、なんだよ、これ……!?」


 それは、真っ黒な炭だった。


「どういうことだよ……。飲んだものは蒸気に、食べたものは炭に……?」


 理解しがたい現象と、しかし受け入れるしかない目の前に現実に、蓮華の瞳が激しく揺さぶられる。


「ふざけんなよ……。これじゃあ、食べたくても何も食べられないじゃねぇか……!」



   ◆   ◆   ◆



 家に帰った蓮華は、両親には具合が悪いからと嘘(あながち嘘でもないが)をつき、ひたすら自室に閉じこもり、ベッドの上で蹲って時間が過ぎるのを待った。


 帰ってまず、パンやお菓子、野菜など、何でもいいから試しに口に放り込んでみた。だが、やはりどれも炭に変わり果てるばかり。食べることは叶わなかった。

 何が起きているのか困惑するよりも、これからどうなってしまうのか、その恐怖の方が強かった。


 このまま一生何も食べられなくなってしまったら――そう考えてしまうと気が狂いそうになる。

 だが、それももう少しの辛抱だ。もうじき、全ての答えがわかるのだから。


「……行くか」


 時刻は午後十一時五十分を回った。

 地獄のような時間だった。一時間が、いや、一分がこれほど長く感じたことはない。


 両親の寝静まった暗い家を音を立てずにこっそり抜け出し、例の工業団地へと向かう。この時ばかりは夜更かししない両親だったことを感謝した。

 その道中だった。突然、薄膜を破ったような感覚が体を突き抜けた。すると、もうそこは月も星もない空に変わっていた。空気も違う。ひんやり冷たいような、あるいは固いような、異質な空気。どこか現実とは違う世界にいるような、別の空間に迷い込んでいるような感覚。


 見渡せば、街灯が全て消えている。そしてこの世から命を排斥したかのような無音。まるで世界の時が止まっているようだった。

 間違いない。昨日と〝同じ世界〟だ。理由はわからないが、(いざな)われた。あとは、あの工業団地に行けばいいだけ。


 そのまま慎重に歩みを進め、深夜零時二分前。バケモノと出遭った、そしてあの幼女と出会った工業団地前の道路へと辿り着いた。

 ケータイを取り出して時計を見つめ、じっとその時を待つ。


 ――そして、午前零時。


 蓮華は周囲を見渡す。が、まだあの幼女は見当たらない。しかし代わりに妙な景色が目に入った。


「あれは……?」


 遙か彼方の空に、オーロラのような光。南北を分断するみたいに、星のない闇空から光のカーテンが地上に降りていた。驚くべきは、その長さだ。右も左も端が見えない。地平線の彼方まで続いている。しかも、それは猛烈な速度でこちらへ近づいてきていた。


 わけもわからず蓮華は身をすくめる。しかし、その光のカーテンはただ通り過ぎていくだけで、特別何も起こることはなかった。

 不思議に思いながら過ぎゆく光のカーテンの背中を目で追う。それは凄まじい速度で遠ざかっていき、やがて見えなくなった。

 不思議な、いや、神秘的な光景だった。一体何だったのだろう。

 しかしそんな蓮華の疑問と一欠片の好奇心も、直後に吹き飛ぶ。


「うわぁああぁああああああ!」


 悲鳴だ。どこか近くで男の恐怖に染まった悲鳴が上がった。さらに何か争っているような騒々しい物音まで聞こえてくる。

 静かな闇の世界でその音はうるさいほどによく響いている。得体の知れないその物音に、蓮華は吸い寄せられるように足を進めた。

 連なるように立てられた倉庫の影からそっと息を潜めながら覗き込む。そしてそこに広がっていた光景を目の当たりにし、


「……うっ!」


 蓮華は思わず口元を押さえた。


 ぶちまけられたおびただしい鮮血。飛び散った赤い肉片。涙の流れる虚ろな瞳でこちらを覗く顔――仰向けに倒れた一人の男が二匹のバケモノに襲われ、喰われていた。

 鋭い牙に、頭や体の至る所に生えた角やトゲといった特徴は、昨晩遭遇した紅い鬼のバケモノに共通するものがある。しかしこの二匹は黒に近い焦げ茶色の体皮をしていて、目は二つ。そしてなにより昨晩の紅い鬼のバケモノよりも一回りも二回りも体格が小さく、ほとんど人間と変わらない大きさをしていた。

 そんな二匹の鬼が男の足を引きちぎり、(はらわた)を引きずり出し、乱雑に肉を裂いてむさぼり食っていたのだ。

 男はそんな状態でありながらも、まだ息も意識もあるらしい。憔悴しきった涙の浮かぶ目で蓮華を見つけ、


「……たす……け……て……」


 掠れた声を絞り出した。

 それは、いつしか見たゾンビもののB級映画のワンシーンのようだった。しかし、これは映画でも夢でもない、現実だ。男の肉が裂かれ鬼が食らいつき咀嚼する度に響くぐちゃぐちゃという音が、生々しく蓮華の耳に貼り付いてくる。


「なんだよ……これ……冗談じゃねぇよ……!」


 今にも足を崩してしまいそうな恐怖が込み上げ、一歩、また一歩と後退(あとずさ)る。だがその時、夢中で男を食い散らかしていた二匹の鬼がピタリと動きを止めた。そしてその四つの瞳がぎょろりと動き、蓮華を捉えた。


「……っ……!」


 今すぐ全速力で逃げ出したい。でも、足と腰に力が入らない。それどころか、ついには腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。

 二匹のバケモノがこちらへ向かってくる。ゆっくりと、丁寧な足取りで。

 脳裏に自分がバケモノに喰われるシーンが過ぎり、恐怖に震えて呼吸さえも辛くなった。


 死にたくない。少なくとも、あんな生きながらに喰われるような死に方だけは――


 神にも祈る思いで救いを求めた。だがそんな蓮華の前に降って現われたのは、神でも悪魔でもなく、もう一匹のバケモノだった。

 地響きを唸らせて着地したその新たなバケモノは、蓮華へと近づいていた二匹のバケモノを落下に合わせて鷲掴みにし、地面にねじ伏せた。二匹のバケモノよりも体格は一回り以上も大きく、特に上半身が異様な発達を遂げている。胸から腕にかけて別物のように発達し、隆々とした筋肉に覆われていた。

 そのバケモノは捕らえた二匹のバケモノに大きな口で頭からかぶりつく。骨が砕け、肉が引きちぎれ、内臓がこぼれ落ち、血が垂れ流れて――バケモノが無残に食い荒らされていく。弱肉強食のバケモノの世界がそこに繰り広げられていた。


 バケモノはぺろりと二匹のバケモノを喰い終えると、不気味な双眸で蓮華を見下ろし――ニタリと笑った。

 蓮華は極限の恐怖により全身が痺れを起こした。疲労もないのに呼吸が乱れる。逃げ出したいのに、足が竦んで力が入らず立ち上がれない。


 バケモノは巨大な腕を伸ばし、腰を抜かしたまま動けない蓮華を掴んだ。抵抗など無意味だと悟らされる絶対的な力によって全身が包まれ、持ち上げられる。バケモノの巨大な顔が目の前に近づき、腐臭のような息が吹きかかる。

 喰われると思った。あのバケモノたちのように、肉を引き裂かれ、内臓をぶちまけながら。

 だが、バケモノはニタリと笑うばかりで蓮華を捕食することはなかった。どういうわけか、そのまま蓮華を抱えてどこかに歩き始める。


 わけがわからず、恐怖でどうにかなりそうだった。

 誰でもいい。誰か、誰か助けてくれ――そう願った時。

 蒼白い閃光が視界を包み、雷鳴が轟く。蓮華の体が衝撃に揺らいだ直後、宙に投げ出された。


「ぐふっ……!」


 地面に荒々しく転がって鈍痛が駆け巡る。混乱する中で顔を上げると、蓮華を掴んでいたバケモノの肘から先の腕が消し飛んでいた。


「キシィイィイイイイイイイイ!」


 バケモノは虫の鳴き声のような悲鳴を上げ、のたうち回る。蓮華は何が起きたのか理解できないまま瞳を揺らしていると、背後から下駄の足音。


「プヒヒ。つくづく災難な小僧やなぁ」


 そして聞こえてきた、この場において不釣り合いな幼女の笑い声。

 振り返れば、闇に溶け込むような黒い浴衣が異様に似合う昨晩の赤髪の幼女――紗良々が、片手にりんご飴を握り締めて立っていた。


「安心せえ。あのバケモノも、まだアンタを喰うことはできん。今はまだ、な」


 彼女は蓮華の前に歩み出ると、掌を翻してバケモノへと向ける。そして――雷撃。再び閃光が闇を打ち払い、バケモノの右半身を木っ端微塵に消し飛ばした。

 バケモノはまた悲鳴を上げ、しかし半身を失いながらも生きていた。怒りに満ちた眼光で紗良々を睨む。その瞬間、バケモノの体から赤黒い血が噴き出した。ただし、それは出血ではなかった。ただの血ではない。その血は意思を持つように蠢き、触手のようにうねって紗良々に襲いかかったのだ。

 血の触手は紗良々を叩き潰さんと上空から襲いかかる。紗良々は素早く横に駆けて回避していくと、的を外した血の触手がアスファルトを砕いていく。その紗良々の回避方向から新たな触手がなぎ払うように迫り、紗良々はあわや突き飛ばされるかに思われたが、軽い身のこなしで宙返りしその触手を跳び越えると、さらに過ぎ去り際にその触手へと手をつき、放電。電流は触手を伝い、バケモノへと迸る。


「キシィイィイイィイイイイイ!」


 三度目のバケモノの悲鳴が大気を震わせ、電流に焼かれたバケモノは煙を上げて硬直した。その隙に紗良々は素早くバケモノの懐へと潜り込むが、バケモノの目がぐるりと回って意識を回復させる。接近した紗良々へと叩き潰すように残りの片腕を振り下ろすが、紗良々の巧みな身のこなしを捉えきれず、やはりアスファルトを叩いて砕くに終わる。

 紗良々はその腕を足場として蹴上げ、跳躍。矮躯が捻られ鋭い蹴りが繰り出されたかと思うと、その小さな体からは想像できないような威力でもってバケモノの巨体を突き飛ばす。工場の壁へと激突したバケモノはダメージが深刻なのか、痙攣したように体の自由を失って藻掻いていた。虫の息のバケモノへ、最後に紗良々は矢の如き雷撃を放ち、その頭を打ち抜く。頭部が消し飛んだバケモノは、さすがにその状態で生命活動を維持させるようなことはなく、そのまま糸が切れたように倒れて絶命した。



「……ここじゃ落ち着いて話もできひんな。場所を改めよか」


 彼女は激闘の直後だというのに何でもないような冷めた口調で言ってくるりと踵を返した。


 蓮華はもう一度、バケモノに向き直る。今はもう置物のように動かないそれは、しかし確かに動いていて、捕食者として襲いかかってきた。今も、バケモノに掴まれた体の感覚が生々しく残っている。


 蓮華は思わず喉の奥から込み上げた胃液をその場にぶちまける。そして喉の焼ける痛みを覚えながら、必死に立ち上がって逃げるように紗良々を追いかけた。

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