第十五話 陰陽師の血
蓮華たちはヘルヘイムで暮木と合流後、事情を説明して例の高級タワーマンションの一室に身を落ち着ける。
まるで水の中みたいに息苦しく、空気が重かった。誰も何も言葉を発しない。
そのうちのぞみは静かに寝室に消えて、布団に包まってしまった。
『わたしの……せい……?』
燃えさかるアパートを見て呟いたのぞみの一言を蓮華は思い出す。もしかしたら――いや、確実に、のぞみはあの火事が疫病神の特性により引き起こされたものだと思い込んでいる。よりによって、このタイミングで。彼女の弱り切った心にトドメを刺したようなものだ。今ののぞみの心境を考えて、蓮華は胸が痛くなった。
「……ちょっと外の空気吸ってくる」
蓮華は逃げるようにマンションを出る。あの空気の重さはとてもじゃないが居たたまれなかった。
どこか高いところで物思いにふけりたい。そんなセンチメンタルな気分だった。
しかし蓮華たちの住み着いているタワーマンションは地上五十階以上の高さがあり、さすがにその屋上まで登るのはしんどい話だ。だから蓮華は、近くにあった手頃な高さの雑居ビルに目をつける。
そのビルは地上二十階建てほどだった。
最近鬼の力を乱用していない蓮華は、身体能力が通常の鬼人程度には戻ってきていた。これくらいの高さならば無理なく登れるだろう。
蓮華は雑居ビルとその隣のビルとの間の路地に進み、上を見上げる。そして某有名な口髭を蓄えた配管工の赤いおじさんよろしく、二つのビルの壁を交互に蹴って駆け上がる。難なくお目当ての屋上へとたどり着けた。
縁に腰掛けて街を見下ろす。
本当であれば夜景が綺麗だったろうに、ヘルヘイム側の街並みは廃墟のように色がなくて少しがっかりした。
希望を照らしてくれるような星もなく、心を洗い流してくれるような夜風が吹くこともない。情緒というものが感じられなくて、物足りない景色だった。ヘルヘイムの夜はつまらない。と言っても、ヘルヘイムには夜しかないが。
「なんや、こんなところにおったんか」
声がして振り返れば、紗良々がいた。そのまま紗良々は歩み寄ってきて、蓮華の隣に腰掛ける。
「よく僕の居場所がわかったな」
「こっちから蓮華の匂いがしたからなぁ」
「匂いって……犬かよ」
「そこは自分の体臭を心配するところやろ」
「えっ、そういう意味!? 僕ってそんなに臭いの!?」
咄嗟に自分の体を嗅ぎ回した。しかし自分の匂いというものはわからないもので、蓮華の鼻はただ空気を吸い込むだけに終わった。
「冗談や。それに……ウチは蓮華の匂い、好きやで。だからすぐわかるわ」
なんだかどきっとした。そんなにストレートに言われてしまうと、どう反応していいのかわからない。
「あ、ありがとう……?」
「めっちゃ美味そうな匂いやもん」
「お前は一度、僕の腕を喰ってるんだからな? マジで冗談に聞こえないからヤメロ。ヨダレ垂らすな」
「ま、それも冗談や」
「一体どこからどこまでが冗談なんだ……」
相変わらずからかうのが好きな紗良々に蓮華は掌の上で踊らされている気分になる。いつか仕返しをしてやりたい。
「……紗良々はどう思う? あの火災が餓鬼教の仕業か、それとものぞみの怪異としての特性が引き起こしたか、あるいはただの事故か」
「さあな。証拠があらへんし、なんとも言えんわ。疫病神の『不幸を呼び寄せる特性』やっけ? ウチやってのぞみに会うまで知らんかったわそんなもん。怪異についての知識はそれなりに持っとるつもりやったけど、まだまだ知らんことだらけやな」
「……なあ、紗良々はどうして怪異について詳しかったり、陰陽師の呪術を使えたりするんだ?」
それは今まで訊く機会もなかったし、踏み込んでいい話なのかもわからなかったため敢えて訊いてこなかった事柄だった。
蓮華は正直ずっと紗良々が不思議だった。のぞみを怪異だと見抜いた時のように怪異の気配を察知できたり、遙か昔に廃れた一族のはずの陰陽師が使っていた呪術を使えたり。
「……そうやな。もう呪術も見せてもうたし、隠す意味もあらへんか」
紗良々は真っ黒な空を見上げて、透き通るような声で言葉を紡いだ。
「ウチな、父方の家系が陰陽師の血を引いとるんや。安倍晴明って知っとるやろ? あの子孫なんよ。つまり、ウチもその末裔ってことやな」
「えっ、安倍晴明って……よく題材にされる天才陰陽師の、あの安倍晴明? 実在したんだ……。てっきり創作の人物かと思ってた」
「ちゃんと歴史書にも載ってるで。ただ、子孫は残っとらんことになっとるけどな」
「でも、本当は子孫がいた……」
――陰陽師は滅んでなどいなかった。
「そう、ひっそりと隠れて生きとった。ウチのオトンがその最後の正当継承者やったんや。……もう死んでもうたけどな。せやから、ウチが本当に陰陽師最後の一人や。正当継承者やあらへんから、陰陽師名乗ってええんかわからんけどな」
そういえば紗良々も丈一郎に両親を……と蓮華は思い出す。それも深くは聞いたことがないが、丈一郎自身が言っていたことだ。
「でも、どうして隠れて生きる必要があったんだ? 紗良々も、どうして陰陽師の血筋の事を隠す必要があったんだよ?」
「陰陽師が滅ぼされた理由が、鬼人にあるからや」
「鬼人に……?」
「陰陽師は『魔』を退治する一族。その範疇にはもちろん鬼人も含まれる。人を喰らうバケモノなんやから、それも当然やな。せやから、そこで争いが起きてもうた。鬼人が陰陽師狩りを始めたんや。今のウチらがそうであるように、鬼人言うても、元人間。誰だって死にたないし、殺される前に殺そうてなるんは、これもまた当然の帰結やろな」
悲しみに暮れた紗良々の声によって語られた凄惨な歴史に、蓮華は言葉を失った。
危険なバケモノを退治しようとする陰陽師の意向も、そして殺されたくない鬼人の気持ちも、どっちもわかってしまうからだ。どっちが正しいのか、今の蓮華には全くわからなかった。
そして紗良々は今、その両方の立場にある。その境遇は、その心境は、どれほどの苦しみを帯びているのか……想像もつかない。
「なんや辛気くさい空気になってもうたな。もう帰るわ。……っと、その前に。これ渡しに来たんに忘れとった。ほれ」
立ち上がった紗良々は思い出したように言うと、浴衣の帯の隙間から何かを取り出して蓮華に差し出した。受け取ったそれは、かわいらしい包装紙にくるまれたキャンディのようなものだった。
「何だこれ?」
「ウチの血を煮詰めて極限まで濃くしてから作った飴玉や」
「えっ!? 血を!?」
「まだ一つしか作れんかったけど、もしもの時はそれを使いんさい。ほなさいなら」
照れ隠しなのか、紗良々はそれだけ言い残してビルから飛び降り、消えてしまった。
紗良々が心配してくれていることを知り、蓮華は嬉しくて、ありがたくなって、そして……自分が情けなかった。
「ありがとう、紗良々。それに……ごめん……」
逃げられた後のため直接お礼は言えなかったが、なんだか今すぐ言葉にしたい気分で、蓮華は誰もいない空虚に向かって呟くのだった。
その日の真夜中。なかなか寝付けなかった蓮華は布団から這い出た。
このマンションは部屋数が多いため、寝室も一人分ずつ用意できている。ターヤンは隣の部屋で寝ていて、豪快ないびきがこちらの部屋まで聞こえてくる。暮木の寝室はまたその向こうの部屋だが、今はいない。マンションの周辺で見張り役だ。ヘルヘイムではいつ危険が襲ってくるかわからないため、寝る時は交代制で見張りを立てるようにしているのだ。
蓮華はリビングに出てどさっとソファーに腰掛けると、ふとのぞみの寝室の扉が開いていることに気がついた。
気になってそっと部屋を覗き込んで――蓮華は焦燥に駆られる。
「のぞみ……?」
ベッドには、のぞみの姿がなかった。