第十三話 望まぬ力
のぞみは家を飛び出して、行く当てもなく都会の喧噪の中をふらふらと歩いた。
どうしようもなく、胸が苦しかった。これまで何度迷惑をかけてきたかわからない。その度に皆は笑って許してくれる。その優しさが逆に辛くなってしまった。苦しくなってしまった。恩を返すことができず、迷惑をかけることしかできない自分の存在が、日を増すごとに嫌になってくる。
外を歩けば少しは気持ちが晴れるだろうかと思ったが、そんなことはなかった。景色はモノクロに見えて、自分がどこを歩いているのかすらもわからないほど朧気に歩いていた。
気がつけば、辺りは暗闇が舞い降りていた。ぼんやりと歩いていたとはいえ、それほど時間が経った感覚はない。さらには、いつのまにか周囲の喧騒も嘘のように消えている。夜というわけではなく、気付かぬうちにヘルヘイムに迷い込んでいたらしい。
恐怖が湧いた。でもそれ以上に、もうどうでもいいや、と自暴自棄になっていた。
そのままふらふらと歩き続けた。何も考えず、何も感じず、空っぽになって。
そんなのぞみの存在を最初に見つけたのは、意外なことに餓鬼ではなかった。道端にたむろしていた柄の悪い若い男三人衆のうちの一人が、重い足取りで歩くのぞみを見つけて仲間の肩をつついた。そこでのぞみを視認した三人は、一様にあくどく口角をつり上げた。
「お嬢ちゃーん。こんなところを一人でお散歩かい?」
「それってさぁ、『私を食べて』って言ってるようなもんだよねぇ。そういうことでいいの?」
「ヘルヘイムを鬼人が一人で出歩くとどうなるか……そんなこともわからない世間知らずで命知らずなバカなんだろ。そんなバカは死んで当然だ。さっさと喰っちまおうぜ」
三人はのぞみの進路を塞ぐように立ちふさがり、ニヤニヤと汚い笑みで見下ろして口々に言った。のぞみは虚ろな瞳で見上げる。工事現場で着るようなツナギを着て頭に黄色いタオルを巻いた男。ダメージジーンズに黒革ジャケット姿、首に黄色いスカーフ、耳にはいくつものピアスが光るチャラチャラとした男。黒のタイトパンツに黒のシャツを羽織り、手首に黄色のリストバンドをしたホスト風な男。どこにでもいそうな若者たちだった。チームカラーなのか、一様に何かしらの黄色い衣類または装飾品を身につけている。
彼らも鬼人で、さらにのぞみを鬼人と勘違いしているのだろう。
彼らから吐き出された言葉たちは、あまりに浅はかで滑稽で、乾いた笑いが出そうだった。
「……そうだよね。皆が皆、優しいわけないよね。もしかしたら、これが普通なのかな」
「あ? 何言ってんだ?」
「なんでもないよ。でも……気をつけて。わたしに関わると、ロクなことがないから。ほら、後ろ」
その言葉の意味を男たちが理解する前に、真ん中に立っていた黒革ジャケットの男の腹から悪魔のような腕が飛び出た。そのまま男は後ろに引っ張られ、いつの間にか背後に立っていた餓鬼に頭から捕食された。
「なっ……!? 餓鬼!」
咄嗟に左右の男が振り返り、悲鳴を上げる間もなく捕食された仲間を驚愕した瞳で見届ける。
「くそっ!」
左右の男が同時に手を振りかざす。すると周囲に赤黒い血が発生し、大蛇のように餓鬼へと襲いかかった。挟み撃ちして放たれたそれは、しかし餓鬼が俊敏に飛び上がったことで的を外し、互いに衝突して弾け合う。
餓鬼は隣のビルの外壁へと貼り付き、獲物を見据えてヨダレを垂らした。鋭い爪で外壁を削りながら駆け、男たちに飛びかかる。
「雑魚が!」
その言葉通り、この餓鬼は鬼の力を持たず飛びかかるしか能のない低級種だったのだろう。対してこの男たちは鬼の力を持ち、それなりに戦えるらしい。飛びかかってきた素早い動きの餓鬼を的確に捉え、ツタのように伸ばした業血によりその体を捕縛した。そして餓鬼を地面へと叩きつけると、もう一人の操る業血が槍と化し、その上から串刺しにする。餓鬼はしばらく体を痙攣させた後、動かなくなった。
「ちくしょう、コウキが……!」
「俺らがあんな雑魚に遅れを取るなんて……!」
やられた仲間はコウキという名前らしい。二人は悔しそうに歯噛みしていた。
「……これでわかったでしょ。わたしには関わらない方がいいって」
「どういうことだ……。まさか、てめぇが仕組んだのか!?」
「バカじゃないの。わたしが餓鬼を操れるわけないじゃない。ヘルヘイムを鬼人が一人で出歩くとどうなるかはわかる常識人さんなのに、非常識で馬鹿げた発想するんだね」
「てめぇ……! このクソガキが! ナめた口利いてんじゃねぇ!」
「あぐっ……!」
ボールのように蹴り飛ばされて、のぞみは軽々と道路を転がった。お腹が痛い。呼吸が苦しい。
「ふざけやがって……! こんな状況でよくケンカ売れるなぁ!? そんなに死にてぇなら、望み通り嬲り殺してやるよ!」
怒りを滾らせて拳を握った男たちが蹲るのぞみへと歩み寄ってくる。そしてのぞみの矮躯を持ち上げると、その拳を容赦なく顔に叩き込んだ。
鈍痛が顔に突き抜け、また地面を転がった。熱と錯覚するような痛みが波打つ。じわりと涙が滲んだ。
――怖い……。
蹲るしかできないのぞみに、男たちの酷薄な蹴りが炸裂する。
――やだ……死にたくない……。
もうどうでもいいと思っていたはずなのに、死を直面して感じた途端、薄い殻を張って強がっていた心が脆く崩れ、止めどない恐怖が湧いて体が震えた。
一頻り蹴りを入れた男は猫を掴むようにのぞみの首を掴む。そして両手でのぞみの細い首を持つと、ぎりぎりと締め上げた。
息ができない。苦しい。涙が浮かび視界が歪む。
――死にたくない……!
突然、のぞみの体が薄緑色の淡い光で包まれた。
「なッ!?」
男は驚きを露わにして手を放し、飛び退いた。だが、遅かった。光に触れた男の手は、みるみる腐食を始め、腐り落ちた。
「な、なんだよこれぇ! うわあああ!」
泣き叫ぶ男の声がこだまする。腐食は進み、腕から胸へ、首へ、頭へ――全身に巡り、肉を腐らせ、瞬く間に彼を死に至らしめた。
のぞみの『疫病神の力』だ。想いに反応し、発動した。いや、発動してしまった。一種の防衛本能の働きだったのだろう。
「やめて……! 違うの……お願い、止まって……!」
のぞみは望んでいなかった。だから必死に押さえ込もうとした。でも――
「ふ、ふざけんな! 来んな! やめろ……やめろぉ!」
光は散り散りになってのぞみの体を離れ、無数の蛍のように周囲に漂った。その一つに触れたもう一人の男も、触れた箇所から腐食が始まり、やがて断末魔を上げながら腐敗した死体に成り果てた。
暴走した力の生み出した、望まぬ光景を前に、のぞみは力なく泣き崩れる。
「やだよ……こんなの、やだよ……! こんなわたし、やだよ……!」