第十二話 少女の心
それから数日。紗良々の言う通り、蓮華は朝起きて掃除して本読んだりして暇をつぶしてご飯食べて、のぞみと散歩でもして暇をつぶしてまたご飯食べて寝て――そんな本当に何もない、生産性もなければ意味もないような日々を送っていた。
誰も触れていないコップが突然割れたり、キッチンの蛇口が壊れて水が噴き出して水浸しになったり、給湯器が故障してお湯が出なくなったり(シャワーが突然冷水となって紗良々が悲鳴を上げ、慌てて浴室へと飛び込んだターヤンは紗良々の電撃を喰らう羽目になった)――そんな疫病神の特性によるものであろう小さな不幸はいくつかあったものの、平凡な日々だった。
のぞみの提案で夜寝る前に皆でゲームをして遊ぶのが日課になった。初めはトランプから始まった。次の日は紗良々がジェンガを買ってきた。積み木を崩しても表情は崩さない暮木を見て、のぞみはケタケタと笑っていた。
そしてそのまた次に日には、紗良々がウキウキ顔で人生ゲームを買ってきた。なんだかんだ一番ノリノリで楽しんでいたのは紗良々だったのかもしれない。
しかしやはり、あれからずっとターヤンは険しい様子をしていた。
楽しそうにゲームをしていても、蓮華が話しかけた途端に空返事になり、素っ気ない態度を取る。あからさまに蓮華を避けているようだった。
おそらく自分に何か原因があるはずだ、と考えつつも、しかし蓮華には思い当たる節がなく、悶々とした日々を過ごしていた。
そんな悩みを抱えた、ある日の昼過ぎ時。
「僕にとっての幸せって何だろうな……」
蓮華はちゃぶ台に肘をついてテレビを眺めながらぼそっとこぼしてみる。
「なんや、珍しく難しいこと考えとるみたいやな」
バランスボールの上でつきたてのお餅みたいにぐでーんと海老反りになって新聞を読んでいた紗良々が反応した。しかし器用な新聞の読み方だ。芸術的ですらある。
ちなみに、バランスボールもテレビも紗良々が買ってきたものだ。お陰で最近では部屋に荷物が充実している。お金はどうなっているんだろう、と尚更気になる蓮華だった。
「幸せの形なんて人それぞれやで。蓮華は幼女を観察するんが趣味なんやろ? ほんならもう十分幸せ満喫しとるやないか」
「だから僕を勝手にロリコンキャラにすんな。じゃあ逆に訊くけど、紗良々の幸せってなんだ? 今幸せか?」
「そうやなー。強いて言うたら、蓮華をいじめることやな。せやから最近は幸せや」
「それは対価に僕という不幸な人間が生まれるから是非やめろ」
紗良々が言うと冗談に聞こえないから恐ろしい。
「……じゃあターヤンは?」
「ンー? サァ、どうだろーネー」
やはり空返事。ポテチをむさぼりながらテレビのお笑い番組を見て笑っている。ちなみにあのポテチには血の粉末がまぶしてあるらしい。
どうしたもんか……と蓮華は頭を抱えた。本当に、何が原因でターヤンに嫌われているのかわからない。強いて言うなれば、紗良々と仲良くしていることについての嫉妬だろうか。しかし、いくらターヤンでもそんなしょうもないことでここまでへそを曲げるとは思えなかった。
「できたー!」
急にのぞみが大声を上げたものだから蓮華は驚く。
「じゃーん! のぞみ画伯作『冴えないお兄ちゃん』」
何かと思えば、ノートに鉛筆で描かれた蓮華の似顔絵だった。
「プヒヒ! ええ感じのマヌケ面がよう描けとるやないか」
「うるせぇ」
でも確かに絵が上手い。ぽけーっとしたアホ面の蓮華が忠実に描かれている。
のぞみはなかなか美術の才能があるな、と蓮華は感心しつつも、題材選びには苦言を呈したくなった。
「飽きちゃったなー。もう蓮華お兄ちゃんの顔つまんないしなー」
「僕の顔を描くのに飽きたって意味だよな……? そうだよな?」
訂正を求める蓮華の声を無視して、のぞみは蓮華の似顔絵に鼻毛とサングラスを描き足した。
「プププー。ダサっ!」
「人の顔で遊ぶな」
冗談半分で叱って微笑ましく過ごしていた時。突然、焦げ臭い匂いが漂った。しかし誰かが料理をしているわけではない。そもそもそういった焦げ臭さではなく、プラスチックの焼けたような化学物質の匂いだった。
その発生源はすぐに判明した。テレビがブラックアウトし、ぷすぷすと黒い煙を上げ始めたのだ。ぞれどころか、次の瞬間にボッと音を立てて背面から発火した。
「うぇっ!?」
「蓮華! 水! 水!」
驚き固まっていた蓮華は、バランスボールから転げ落ちた紗良々の指示で飛び跳ねて洗面所にダッシュ。洗濯用のバケツを持ってきて大慌てで水を汲み、部屋が水浸しになることなどお構いなしにテレビに水をぶっかけた。紗良々の機転でコンセントも既に抜いてある。その迅速な対処のお陰か、大事に至ることなく、テレビは鎮火された。代わりに部屋は水浸しになったが。
「……蓮華。鬼の力くらい制御しぃや……。テレビに怨みでもあるんか? 初恋の人でも奪われたんか?」
「いや、僕が燃やしたわけじゃねぇよ……」
その発言が、あまりよろしくなかった。『別の誰かが燃やした』と暗に示したようにも聞こえてしまった。いや、蓮華にそのつもりは毛頭無かったが、しかし、少なくとものぞみはそう捉えてしまったに違いない。暗い顔で俯いて、ぎゅっと服の袖を握っていた。
「……ま、不良品やったんやろ。さっさと片付けるで。畳がダメになってまう」
既にタオルを用意していたターヤンが紗良々にそれを手渡し、二人は水浸しの畳を拭き始めた。
蓮華はのぞみになんて声をかければいいのかわからず喉を詰まらせていると、のぞみが立ち上がった。
「……ちょっと、お散歩行ってくるね」
のぞみは笑っていた。空元気の、無理をしてつくった笑顔だった。
「あっ、おい……」
引き留める言葉も浮かばず、小走りで部屋を出て行くのぞみの後ろ姿を見送る。胸が痛くなって、自分の不甲斐なさに溜め息が漏れた。
「どうしよう、紗良々……」
「どうしようも何も、こればっかりはのぞみの心の問題やろ。この程度ウチは気にせんけど、のぞみが気にするっちゅうんならウチにはどうにもできひんわ」
しばらくして落ち着いたら帰ってくるんちゃうか、と楽観的に言って、紗良々は水を吸ったタオルを絞った。
不安な気持ちを拭えないまま、蓮華も片付けを手伝うことにした。
――それから数時間。
「のぞみ、遅いな……」
のぞみは未だに帰ってこない。時刻は夜七時を回ろうとしている。
「まあまあ、そのうち帰ってくるて。……ほっ! とう!」
「アア! 紗良々たん! そんな際どいとこロ……! クゥ!」
紗良々はターヤンとジェンガをしながら悠長な声で言った。ターヤンは至福そうだった。
「いやでも、もう七時だぞ? 外も暗いし、何かあったんじゃ……」
胸に冷たい不安が染み広がっていく。レオや灰鬼など、ただでさえ不安要素が多すぎる。
「探しに行ってこようかな……子供一人でうろつくには危ない時間だし」
「のぞみはただの子供やなくて怪異や。いざとなったらどうにかするやろ」
怪異だから――だからこそ、蓮華としては心配なのだ。今の彼女は、怪異だからこそ狙われているのだから。
蓮華は立ち上がる。
「……やっぱり心配だし、行ってくる。もしすれ違いで帰ってきたら電話で教えてくれ」
取り越し苦労ならそれでいい。でも、もしものことがあったら――何も行動を起こさなかった自分に後悔するはずだ。そうならないためにも、何でもいい、何かしらの行動を起こしていたかった。
「ったく、世話の焼ける小僧やなぁ……」
蓮華の背中を見送った後、紗良々はジェンガを崩し、呆れた様子で頭を掻いて愚痴をこぼす。やれやれと重い腰を持ち上げた。
「……紗良々たんも行くノ?」
「まあな。蓮華が一人で突っ走ってヘルヘイムにでも入り込んだら厄介やし。あのバカタレ、血が足りてへんのやから今度こそ餓鬼に喰い殺されてまうわ」
「……そうだネ」
「なんや、文句あんなら直接言うたらええやんか。最近のアンタ、なんか変やで?」
「……べつに何でもないヨ」
煮え切らない態度を取るターヤンに、紗良々はまた苛立たしげに頭を掻いた。