第十一話 陰りの気配
ヘルヘイムの闇夜の中を駆け回りながら、ターヤンは鋭く視線を走らせた。巨体ながらも身軽な動きでビルからビルに飛び移り、時折立ち止まって周囲をくまなく見渡す。嗅覚と視覚、そして空気感さえも敏感に感じ取れるよう、神経を極限まで研ぎ澄まさせて。
紗良々の指示により、紗良々と暮木とターヤンで手分けして緋鬼の捜索に当たっていた。紗良々と蓮華から語られた緋鬼についての報告は俄には信じがたいものだったが、しかし紗良々が言うのだから間違いないのだろうと疑いなく飲み込んだ。
だが、消化しきれていない思いもある。蓮華のことだ。
「ったく蓮華のヤツ、紗良々たんに迷惑かけやがっテ……!」
思わず愚痴がこぼれた。
蓮華の身勝手な行動により灰鬼などという新種の餓鬼に襲われ、そのくせ蓮華は鬼の力が使えず足手まといになり、紗良々が危険な目に遭った――その一部始終を聞いた時は蓮華を殴り飛ばしそうになった。
妙な信念を持って人肉を喰わないのは勝手だが、しかし、それによって紗良々に迷惑がかかるのは我慢し難い。特に、紗良々の身に危険が及ぶような事態など、もっての外だ。
いい加減に現実を受け入れて人肉を喰えばいいものを……。
ターヤンはそんな苛立ちを覚えながら、ストレスを発散させるようにヘルヘイムを駆け回る。捜索範囲は、緋鬼が現われたと言われる地点から半径五キロを目安。ターヤンの担当は、三分割した内の南西方面一帯だった。
そうして、ビルの屋上からは緋鬼の気配など微塵も感じられず、やがてより綿密に探るために地上を歩いていた時だ。
「よう。お前がシェン・ターヤンだな?」
突然、街角でターヤンは男に声を掛けられた。
「……誰ダ、お前?」
「俺は餓鬼教東京司教区教区長、猪俣レオだ」
男の口元は悪意に染まり、歪んでいた。
餓鬼教と聞いて、ターヤンは目の色を変える。だが、それをレオは掌で制した。
「まあ慌てんなって。俺は争いに来たんじゃねぇ。話しに来たんだ」
「話しダト? 餓鬼教がボクに何の用ダ?」
「聞いたぜ。お前、緋鬼の鬼人に苛立ちを覚え始めてんだってな?」
「……何の話ダ?」
「しらばっくれんなよ。緋鬼の鬼人はクセぇ正義感を振りかざして厄介事を持ってくるくせに、周りの力を頼って助けられてばかりで自分じゃ何もしない。そのせいでお前の大事な紗良々ちゃんが灰鬼との戦闘に巻き込まれ、危険な目にまで遭っちまった。お前はそのことに怒りを覚え、緋鬼の鬼人の存在を疎ましく思い始めた。そうだろ?」
「大した妄想力だナ。お前にボクの何がわかるってンダ?」
顔には出さなかったが、内心では驚かざるを得なかった。どうしてこの男は全てを見透かしている? それも、つい昨日のことを――
「俺は何もわかっちゃいねぇさ。ただそんな話を聞いただけだ」
まさか内通者が? そんな疑惑が掠めたが、しかしそんなはずはないとすぐにその考えを潰す。紗良々と暮木と蓮華。この信頼に足る少人数組織で内通者などあり得ない。だとしたら――と考えたとき、真っ先に浮かんだのは丈一郎の存在だった。気配を殺すことに長けている奴ならば、誰にも気付かれずに密偵を行うことも容易いかもしれない。
「そこでお前に話があんのよ。緋鬼の鬼人をこっちによこせ。俺たちが管理してやる」
「蓮華ヲ……? どうするつもりダ」
「アイツの力が……いや、存在自体が必要なんだ。なに、心配すんな。俺たち餓鬼教にとってもアイツは最重要パーソンだ。殺しはしねぇし、危害も加えねぇ。もちろん、緋鬼に喰わせもしねぇ。だからお前が緋鬼の鬼人を売ったことで気に病むこともねぇ。どうだ? お前は邪魔な存在を排除できる。俺は必要な存在を確保できる。利害は一致してんだ。お前にとっても悪くねぇ話だろ」
「ナルホド、何をするつもりか知らないケド……ボクも安く見られたもんだネ。このボクが餓鬼教に手を貸すとでモ?」
「ああ、少なくとも俺はそう信じてるぜ。お前は必ずこの話を飲む」
「……時間の無駄だったみたいだナ。ボクはお前らが嫌いダ。力を貸す気なんて毛頭ナイ。失せロ。目障りダ」
「まあまあ、そう言うなよ。よく考えろって。お互いにとって美味い話じゃねぇか。断る理由がどこにある?」
「どうやら話が通じないみたいだネ。なら力尽くで黙らせてやるヨ。ここで餓鬼教の幹部を一人始末しておくのも悪くない話ダ」
ターヤンは鬼の力を解放し、全身の筋力を増強。マッスルボディへと変身し、レオに襲いかかった。
破壊力抜群の拳で殴りかかるターヤンだったが、レオは軽い身のこなしでさらりと回避していく。ターヤンの拳は的を外してアスファルトを砕き、舗装された道路を無残に破壊していく。
「うひははは! 筋肉馬鹿が。その程度で俺に勝てるわけねぇだろ」
レオが余裕の笑みを浮かべると、ターヤンの体が固まる。そして見えない力によって腕を強引に後ろに回されて固定され、そのまま俯せに倒された。レオの鬼の力――念力だ。
「とにかく落ち着けって。俺はお前と争う気なんざねぇ。ただ取引をしてぇだけだ。別にあんなクソガキ一人を拉致するくらい、俺たちにとっちゃわけねぇ話なんだよ。だが、表の世界に居座られちまうとこっちとしてもやりづれぇのさ。それに、紗良々も厄介だ。戦闘になりゃ、いくら俺でも骨が折れる。できれば避けてぇところだ」
振りほどこうとするターヤンの背中に、レオはまるで椅子に座るように腰を落として話を続ける。ターヤンの力ならば本気を出せば念力を振りほどけただろう。だが、そうはしなかった。
気持ちが、揺らぐ。気が迷う。
「だが、もしお前がこの取引を断るってんなら、残念だが手荒なマネをするしかなくなっちまう。俺が何を言いてぇか、わかるよなぁ?」
レオは口元を歪め、企みのある薄ら笑いを向ける。
「どの道緋鬼の鬼人は餓鬼教が頂くことになるんだ。ボロ雑巾みてぇにズタボロにされてから緋鬼の鬼人を奪われるか、お前が緋鬼の鬼人を差し出してお互い穏便に済ませるか、考えるまでもねぇだろ? 第一、お前が疎ましく思ってる緋鬼の鬼人のためにこの取引を断ってまで争う理由がねぇ。そうだろ?」
そしてレオは最後に「ああそうだ」と付け加える。
「言い忘れてたが、あの怪異もついでによこしてくれると非常に助かる。こっちは個人的な頼みだが、もちろん、断りゃどんな手を使ってでも奪い取りに行くぜ。まあ、俺としても面倒事は避けてぇんだ。最近知って絶賛傷心中なんだが、俺は餓鬼教の中でも問題児扱いされてるみてぇでよ。だからあんまり派手に動きたくねぇんだわ。いい返事を期待してるぜ、シェン・ターヤン――」
◆ ◆ ◆
クレープを食べ終えた蓮華たちはショッピングモールを後にし、帰り道にコインランドリーに寄ってのぞみの新しい服を全て洗濯、乾燥を済ませた。洗濯機の中で泡まみれになって踊る洋服たちをのぞみはまだかまだかと食い入って眺めていて、蓮華は微笑ましく見守った。
そしてアパートに帰ってから大はしゃぎなのぞみのファッションショーを繰り広げていたところに、紗良々たちが帰還した。
「ほー、服買ってもろたんか、のぞみ。良かったなぁ。せやけど大丈夫やったか? 蓮華お兄ちゃんに変なことされとらんか? 着替え覗かれたんとちゃうか?」
「おい紗良々。のぞみに変なこと吹き込むな。僕はロリコンじゃねぇし、覗いてもねぇし、のぞみの嫌がることもしてねぇよ」
「どうだかなぁ。のぞみ、心当たりあるんとちゃうか? 蓮華お兄ちゃん、何かキモいことしとらんかったか?」
「そ、そう言えばわたしがクレープ食べてるとき、いやらしい顔で見つめてきた……。あれって、そういう意味だったんだ……!」
青ざめた顔で震え始めるのぞみに、蓮華はぎょっとする。
「ちょ、ちょっと待てのぞみ……。それはのぞみの食べてたクレープが美味しそうだと思ってつい見つめちゃっただけで、のぞみを見つめてたわけじゃ……!」
「うわぁー、ロリコンキモいわぁ。もしかしたらのぞみが着替えるところもこっそり覗いてヨダレ垂らしとったかもしれへんで? のぞみ気ぃつけや?」
「おい紗良々てめぇいい加減にしろ」
このままではのぞみが紗良々に洗脳されかねないと危惧した蓮華は強めの一喝を入れる。しかし紗良々は「おー怖い怖い。蓮華お兄ちゃん怖いわぁ」とイタズラな笑みを浮かべてさらに蓮華をおちょくるだけだった。
何を言っても紗良々には敵わない。諦めた蓮華は一つ大きな溜め息をつき、話題を変えることにする。
「ところで、緋鬼の方はどうだったんだ? 何か収穫はあったのか?」
「そやな。ある意味、収穫はあったで。結論から言うと、緋鬼は東京におらん」
「え? もうどこかに行っちゃったってことか?」
「緋鬼は影を操る鬼の力を持つ餓鬼を従えとってな。その力を使って影の中を移動することが多いんや」
「影の中を?」
「そ。影から影へな」
蓮華は初めて緋鬼と遭遇した日の事を思い出す。確かにあの時、緋鬼は影の中へと溶けるように消えていった。あれは、従えていた別の餓鬼の鬼の力だったということらしい。
「じゃあ、緋鬼はその鬼の力で姿を眩ませたってことか?」
「いんや。影の中に潜むことができるだけで、存在が消えるわけやない。そこにいれば気配は探知できる。ウチらはこれまでもそうやって緋鬼を追ってきた。だからウチとターヤンと暮木で手分けして、緋鬼が現われおったヘルヘイム側の地点から半径五キロをくまなく探したんや。せやけど、どこにもおらへんかった。状況的にはもうどこかへ移動したとしか考えられへんのやけど……どーもしっくりこんのや」
「どういう意味だ?」
その蓮華の疑問に口を開いたのは、暮木だった。
「緋鬼の目的である蓮華がここにいるのに、何故別の場所に移動する必要がある?」
「あ、確かに……」
そう言われるとその通りだった。緋鬼にとって唯一の、待ちに待った餌が目の前にあるのに、わざわざそれを見逃す意味がわからない。
「それに、聞いた話では緋鬼の腕が再生していたそうだが……にわかには信じられん。お前たちが見たのが本当に緋鬼だったのかと、俺は疑っているくらいだ」
「そんな……! アレは確かに緋鬼だった! あんなの見間違えるわけないって!」
「その点についてはウチも見たんやから、保証する。見た目も鬼の力も、緋鬼のそれやった」
暮木は「うーん」と唸ったあと、
「わかった。俺はしばらくヘルヘイム側の警戒を続けよう。何かあればお前たちに報告する」
そう言い残して部屋を出て行った。
「……僕たちこれからどうするんだ?」
なんだかまた振り出しに戻ってしまった感じだ。
「そやなー。しばらくはこのままここを拠点に情報収集やな。一度は緋鬼が現われたんやし、何かしらの手がかりはあるやろ。それに、王位継承戦についても調べなあかんし……。ま、ゆっくりまったりしとったらええんやない?」
「ゆっくりまったりって……そんなんでいいのか?」
「ウチらは人間と違って時間がぎょうさんあるんや。そう慌てんでもええって。息抜きでもしながら気長に、慎重に、着実に、丁寧にいけばええ。ツラいことばっかりやと、生きるのが嫌になってまうわ。こんな人生でも、たまには楽しまんとな」
そう言って、紗良々は気怠そうに畳の上にごろりと転がった。
その時初めて、蓮華はハッと気がついた。歳を取らないとわかっていたはずなのに、それが意味することを失念していたのだ。
蓮華たちは寿命で死ぬことはない。百年でも二百年でも、それ以上でも生きられる。
蓮華は胸の奥ですきま風が吹いたような感覚にとらわれた。
自分に待っている、その長い永い――地獄を考えて。
「……そうだよな。僕たちだって、幸せに生きたっていいよな……」
鬼人になってからこれまで、生きることに必死で、そんなことを考える余裕などなかった。あるいはバケモノになった時、自分がいるのは不幸のどん底だと決めつけて、幸せなどないと思い込んでいたのかもしれない。
しかし、バケモノでも生きている。生きていれば、幸せを見つけることは出来るはずだ。ここを地獄だと決めつけて諦めるのは早計なのかもしれない。
同時に、蓮華は考える。自分にとっての幸せとは何なのかを。
特に趣味も拘りも持たない蓮華には、その答えがすぐに導き出せなかった。
「暢気に生温いこと言いやがっテ」
急に、ターヤンが小さくぼやく。
「ターヤン……? どうしたんだ?」
蓮華が問いかけるも、ターヤンはそれ以上口を開くことなく、静かに部屋を出て行った。
「……ターヤン、何かあったのか……?」
「……さあな、知らんわ」
紗良々はごろりと転がってそっぽを向き、乱雑に答えた。
蓮華は僅かに不安を覚える。自分たちの間に嫌な空気が流れ始めているのを、肌で感じ取っていた。