第十話 甘くとろける
翌日。紗良々と暮木、ターヤンの三人は緋鬼についての情報収集のため、朝早くからアパートを出て行った。
蓮華は昨日お風呂に入らずに寝てしまったのぞみのためにお湯を張り直し、のぞみをお風呂に入れさせてあげた。
その間に布団をベランダに広げて天日干し。今日は眩しいくらいの快晴で、最高の干し日より。これで今晩はお日様の匂いで気持ちよく寝れることだろう。
お風呂場からは「うひゃあ!」「うひぃ!」「きゃはは!」と、のぞみの楽しそうな声が響いていた。一体何をやっているのだろう。
お風呂から上がったのぞみは春に芽吹いた花のように朗らかで幸せ一杯な顔をしていた。同じシャンプーを使っているはずなのにすごくいい匂いが漂ってくる。蓮華は女の不思議を感じた。
「お風呂がそんなに楽しかったのか?」
「うんっ! だって初めて入ったもん」
驚いた。嫌な匂いとか全然しなかったのに。でも考えてみればそれもそうか、と頷く。お金がなければ銭湯にも行けない。温泉地に行けば天然の源泉掛け流しなどがあるかもしれないが、このコンクリートの街にそんなものがあるわけもない。
「人間ってズルい。あんなに楽しいアトラクションで毎日遊んでるなんて」
「いや、お風呂はアトラクションじゃねーよ……?」
衛生管理の一環だ。まあ、怪異にとっては衛生なんて関係ないかもしれないし、だとしたら入浴なんて娯楽以外のなにものでもないのかもしれないが。
とりあえず、蓮華はのぞみの濡れた髪をドライヤーしてあげた。ただドライヤーしているだけなのに「うひゃーっ」と、のぞみはまるで本当にアトラクションに乗っているみたいに楽しそうな反応をする。見ていて飽きない。
しかし、のぞみの黒くて艶のある髪もさらさらに乾きかけた終盤、突然ドライヤーから『バチン』と不穏な音がして動かなくなった。
「あれ? どうしたんだろ、急に……」
蓮華が何度かオン・オフを繰り返していると、のぞみがしゅんとした顔をして俯いた。
「……ごめんなさい。たぶん、わたしのせいだ……」
あっ、と蓮華は気がついて、
「まあまあ、こんなの新しいやつ買えばいいだけだから」
壊れたドライヤーをしまった。小さな不幸だが、これも疫病神という怪異の特性による出来事らしい。もしかしたらただの偶然かもしれないが、どちらにせよのぞみが気に病むことは間違いない。この件はささっと水に流し、話を変えることにする。
「さて、のぞみ。今日は何しようか。人間の世界のことあまり知らないならいろいろ行きたいところあるだろ。好きなとこ案内してやるぞ?」
「……ふん。レディにデートプランを委ねるなんて男失格よ。だから蓮華お兄ちゃんはモテないんだよ」
「デートじゃねーし、何度でも言うがお前はレディってほど淑女でもねーし、そもそもお前は俺の何を知っているんだ。余計なお世話だっつの。……あっ、そうだ。その前に買い物に行かなきゃな」
蓮華は改めてのぞみの服装を見て、ポンと手を叩く。
のぞみの服は薄い生地で仕上がった純白のワンピース一着のみ。ヘルヘイム側は気温が一定だからそんな軽装備でも大丈夫だったかもしれないが、表の世界でこの時期にその格好はマズい。寒くて風邪を引くだろうし、外を出歩けば奇異な目で見られてしまうだろう。
それに靴だって持っていない。昨日はその場しのぎで紗良々のストックの下駄を履かせたが、ちゃんとした靴も履かせてあげたいところだ。
「お買い物!?」
のぞみの目に期待に満ちた星がちらついた。
「そう、お買い物。のぞみの服を買わないとな」
「えっ、いいの!? あっ……ふん! べつにそんな気を遣われなくてもいいもん! わたしはこの服がお気に入りなんだもん! それこそ余計なオワセだもん!」
「お世話、な」
一瞬喜んでおいて急に強がってももう遅い。本音が丸見えだった。
「ってか、そもそものぞみが良くても、僕は良くない。この時期にそんな服装で表の世界を出歩いてみろ。注目の的だぞ? その隣を僕が歩いていたら、虐待しているか誘拐したかのどっちかで疑われちまうだろ」
「やだ、それって楽しそう……」
「恐ろしいこと言うんじゃねーよ」
のぞみの隠れたS気質に肌寒さを覚える蓮華だった。
「……でも、そんなお金ないし……。ただでさえ居候してるのに……」
もじもじと遠慮するのぞみに根の優しさが垣間見えて、蓮華は思わず笑みをこぼす。
「心配すんな。紗良々お姉ちゃんたち金持ちだから」
それは蓮華が不思議に思うところでもあった。このアパートの家賃だって、光熱費だって、昨日買った寝具だって、全て紗良々たちのお金だ。
さらに言えば、蓮華は財布を落としてしまったため追加でお小遣いも貰った。五万円も。これだけあればのぞみに好きな服を選ばせてあげられるだろう。五万ってそれくらいの大金だ。働いてないのに、一体どこからそんなお金が出てきているのだろう。
「自分のお金でもないのになんか自慢げ……まさに虎の威を借る狐……滑稽……」
「うん、僕も思ったけどツッコまないでくれるか? あと辛辣すぎない?」
いちいち痛いところを目敏く突っついてくる。侮れない幼女だ。
「……本当にいいの……?」
「ああ」
「本当の本当にいいの!?」
「もちろん」
のぞみの瞳が宝石みたいに煌めいた。
スマホで一番近いショッピングモールを検索し、二人は出発した。
のぞみにワンピース一着で外出させるのは先述の通り犯罪臭がしてしまうため、取り敢えずは蓮華のパーカーを貸してあげることにした。ぶかぶかでまったくサイズが合っていないが、のぞみは大喜びしていた。パーカーのワンピースみたいになってこれはこれでオシャレかもしれない。
お店の充実した都会でわざわざショッピングモールを選んだ理由は、のぞみの服以外にも蓮華の財布と、そして先ほど故障してしまったドライヤーを買いたいためだった。なにより、ショッピングモールというワードにのぞみの目が輝いたからでもある。
ショッピングモールに着いて――といきたいところだったが、その道中に一つ事件が起きた。建設現場の横の道を通った際、建材の巨大な鉄筋が一本、蓮華の頭上へと槍のように落ちてきたのだ。どうやら運搬中にワイヤーが切れて一本だけ滑り落ちたらしく、上から作業員の「危ない!」という一言が響いたお陰で蓮華は間一髪危険を察知し、薄く炎を纏った掌で鉄筋を受け流すことに成功した。地面に突き刺さる勢いで落下した鉄筋は、蓮華の掌が触れた部分だけが赤熱して溶けており、周囲からは二重の悲鳴が上がった。まずいと思った蓮華はのぞみを連れて一目散にその場を逃げ出したのだが、のぞみはしきりに「わたしのせいだ……。ごめんなさい」と涙目で謝っていて、蓮華はずっと宥め続けた。
そんないろんな意味の災難を経て、改めてショッピングモールに着いた二人は、まず蓮華の財布を買いに向かった。これから買い物をするのに、ポケットから直にお金を取り出すのはちょっと恥ずかしい。ワイルドなおっさんがやっていたら格好いいのかもしれないが、自分みたいなガキがやったところでみっともなく映るだけだと判断して蓮華は自重した。
蓮華は特に拘りもなく、ワゴンで投げ売りされていた安い折りたたみ財布を選んだ。もう落とさないようにしなくてはと気持ちを改める。
それから電化製品売り場で使っていたものと似たようなドライヤーを見つけて購入し、次に女性用の洋服店に入った。「好きなもの選んでいいよ」と蓮華が言うと、のぞみは店内を飛び回ってあれやこれやと吟味し始めた。
欲しいものがありすぎて悩んでいるようだったが、最終的には、中がもこもこした暖かそうなブーツ。黒のニーソ。デニムのホットパンツ。赤と黒の縞模様のハイネックトレーナーを購入。
試着した姿を見せてもらった蓮華は思わず「おお」と感嘆の声を漏らした。絶対領域を心得た彼女のファッションセンスは「天才かよ」と唸るくらい似合っていた。
追加で普通の靴下をいくつか買い、買ったばかりのブーツと合わせてすぐに履かせる。さすがに下駄じゃ歩きづらいだろうし、パーカーに下駄という不釣り合いな格好は最先端すぎて目立ってしまう。
おニューのブーツが嬉しいのか、のぞみの足取りはスキップ気味になっている。
あとは下着とかも買ってあげた方がいいのだろうが……蓮華には無理だった。お店に入る勇気すら出ない。今度紗良々に頼もう。
そうこうしている内に、なんだかんだで時刻は十二時を回った。お昼の時間だ。
「そういえば普段はご飯食べる必要ないって言ってたけど、お腹空いたりすんのか?」
「うーん……お腹空くってどんな感じ? まだ力を使ったことないから食事しなきゃって状況になったことないし」
「あっ、なるほど……」
まさか空腹未経験とは、常に空腹に苦しめられる蓮華には羨ましい限りだった。
「なんていうのかな……こう……お腹が痛くなるというか……何でもいいから食べれるものを口に入れたくなるっていうか……。胃が呼吸を始めるというか……」
途中から自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。
「へぇー……お腹空くって楽しそう」
「いや、全然楽しくないけどな……」
ツラいだけだ。
「じゃあ、お腹空いてないならご飯の代わりにおやつでも食べてくか?」
「おやつ!?」
眩しいくらいにのぞみの目が輝いた。とてもわかりやすい子だ。
というよりも、何でもかんでもすごく純粋に喜んだ反応をする。全てが未知の経験で新鮮なのかもしれない。
蓮華は思う。きっと彼女の目に映る世界は、自分と違ってカラフルで刺激に満ちていて、そして希望に溢れているのだろう、と。少し、羨ましくなった。
飲食店の建ち並ぶエリアにあったクレープ屋に赴いて、ショーウィンドウの中に並べられたサンプルのクレープたちを吟味する。のぞみはまるで宝石箱を眺めるように釘付けだった。
「どれ選んでもいいの!?」
「もちろん」
「じゃあ、これがいい!」
のぞみがチョイスしたのはイチゴクレープだった。
「蓮華お兄ちゃんは?」
「えっ、僕? いや、僕はほら、食べれないから……」
「あ、そっか……」
しゅん、とのぞみはしおれてしまった。
「じゃあやっぱりわたしもいらない」
「えっ!? なんで!?」
「わたし、甘い物苦手だもん。クレープとかいう、ホイップクリームと果物にソースをかけて生地で包んだ美味しそうなお菓子なんてノーセンキューよ」
「昨日ばっくばくケーキ食べてたじゃん。てか今、美味しそうとか言っちゃったじゃん」
嘘がヘタすぎる。
「……だって、わたしだけ食べるのは申し訳ないもん……」
いつしか同じようなシチュエーションがあったなと蓮華はデジャブを感じ、すぐに、ああ、と思い出して寂しさを覚えた。どうにもいろいろなところで穂花を感じてしまっていけない。まだ吹っ切れていない証拠なのだろう。
「そんなこと気にすんなよ。僕はこれまでの人生で何回か食べてるんだから。のぞみは食べたことないだろ? 食べてみろよ。クレープって殺人的に美味いんだぜ?」
だって、だって――とのぞみはもじもじしていたが、蓮華は有無を言わせず買い与えた。
フードコートの席に着いて、のぞみは申し訳なさそうに蓮華とクレープを交互に見る。その光景が可愛らしくて蓮華はついにやにやしてしまった。しかし端から見たら危ない奴にしか見えないと気がついて、すぐに顔を引き締めた。
そしてついに意を決したようにのぞみはクレープにかぶりつく。口周りにクリームをつけたのぞみの顔は、とろけ落ちそうなくらいふにゃけていた。
「どうだ? 美味いだろ?」
「うまー……っ」
こんなに幸せそうな顔されてしまうと、なんだかこっちまで嬉しくなってしまう。
それにあまりに美味しそうに食べるものだから、蓮華も食べたくなってヨダレが出そうになった。しかし今ヨダレを垂らしてしまったら幼女を見てヨダレを垂らす変態だと思われてしまう。絶対に許されない。
そんな羨望の眼差しでクレープをガン見していたことがのぞみにバレてしまったのか、気がつけば彼女が蓮華をじっと見ていた。そして何を思ったのか、彼女は急に指を少しだけ――囓った。
「お、おい、なにして……!」
一瞬慌てたが、のぞみのやろうとしていることを察して蓮華は心を打たれた。
のぞみは指先に滲み出た真っ赤な鮮血を一滴、クレープに垂らしたのだ。彼女の血は、イチゴソースに紛れ込んだ。
「はい、これで食べれるんでしょ?」
その疑いようのない愚直なまでの優しさに、蓮華の胸の奥が震えて涙が出そうになった。そして「ありがとう」と、蓮華は差し出されたクレープを一口頬張る。イチゴソースの甘酸っぱさとホイップクリームのなめらかな甘さに隠れて鉄の味がするそのクレープは、蓮華が今まで食べたクレープの中で紛れもなく、一番美味しいクレープだった。